初恋は草海に抱かれ
浅葱
第1話
「あなた!
まるで風のように胸に飛び込んできた愛しい妻に、
元々人であった妻は情に厚い。
”四神の花嫁”がこちらの世界に降臨したことを受け、四神のうちの一方である北の玄武は王都へ向かった。黒翠は玄武の眷属である。
その玄武の後を追って、彼らの末子である黒月が領地を出て行ったのはその翌日のことだった。当初まだ成人もしていない未熟な娘はすぐに追い返されるだろうと予想していたが、四神の温情により仕えることを許された。
しかもそれだけでなく、末娘が”四神の花嫁”を何者からも守る”守護”になれるなど彼らは全く思っていなかった。
「まだ成人していないのに飛び出していってしまうところはあなた譲りかしら?」
妻――
「いや……あの勢いはそなた譲りだろう。そなたが茶を勧めてくれた日を、我は今でも覚えている」
黒翠がそう真摯に告げると、玉蘭はうっすらと頬を赤く染めた。
「もう……そんな昔のことを言うなんて反則だわ……」
何年経っても夫の言葉に照れる愛らしい妻を、黒翠は抱き上げる。
「あなた……?」
「そなたは昔と変わらぬ。我が欲しいと思ったあの頃のままだ」
「あなた……!!」
真っ赤になって抗議する妻を抱き上げたまま、黒翠はまっすぐ夫婦の寝室に向かった。
いつまでも変わらぬ想いを伝える為に。
* *
見渡す限り青青とした草の海が続いていた。
姜玉蘭が物心ついた頃には、年に何回かその姿を見かけていたように思う。
艶やかな長い黒髪はただ後ろで束ねられているだけなのに優美で、肌の色は抜けるように白い。黒い漢服を着ている男性なのに何故か人間の気配がしない。とても不思議な存在だったから、目を引いていたことは間違いなかった。
その人はいつも家畜の乳や毛を父から受け取り、その対価として過分な品物を置いていく。それは小麦であったり、お茶葉であったりした。
「あんれまぁ、もう帰られてしまったのかい?」
そしていつも母がお茶を用意する前に、その姿は地平線の向こうへ消えてしまう。
気が付いた時に現れて忽然と姿を消すその人の訪れを、いつしか玉蘭は待ち望むようになった。
玉蘭の両親は遊牧の民だった。
馬や羊、山羊、狼避けの犬などを連れて草原を生きる。年に何回か草を求めて移動し、春から夏にかけては東方に移り住む。その地はこの国の守り神とされる四神の玄武の領地に近く、その辺りに住んでいる時だけその人が訪れるのだった。
もちろん物々交換に訪れるのはその人だけではない。中には玉蘭目当てで親についてくる者などもいた。
けれど玉蘭はその人だけを待っていた。
だからお茶の用意をさせてくれと母親に頼んだ。
そして12の歳に、初めてその人にお茶を出すことができた。
「あのっ! 是非飲んでいってください!」
必死の形相でお茶を飲んでくれと頼む玉蘭にその人は目を丸くした。そんな表情の変化も新鮮で、玉蘭は自分がその人に恋をしているのだと自覚したのだった。
来客には必ずお茶を飲んでもらうようにしているのだと話すと、「それは失礼なことをした」と座り、それからは必ず飲んでいってくれるようになった。
まず主人である父にお茶を出し、それから待っていてくれるその人に出す。それが遊牧の民の習いだった。
その人は玄武の眷属であるといい、黒翠と名乗った。どうりで人の気配がしないはずである。玉蘭の両親はひどく丁寧に応対していたが、玉蘭の無知による無礼も黒翠は咎めなかった。彼が帰ると、玉蘭はいつも両親に小言を言われた。
曰く、眷属様は人ではない。この国の守り神に仕えている方なのだから丁寧に接するように。
そして母にはやんわりと、恋をしてもいいが本気にはならないようにと言われた。
四神の眷属と人が一緒になることはない。
そう告げられた夜、玉蘭は泣いた。
わかっていた。自分は跡取り娘で、どこかの家から婿を取らなければいけない立場である。しかし遊牧民である彼らの元へ婿に来てくれる者はそういない。そうでなくても婿に入るというのは忌避されるのだ。
(四神の眷属様がなんて……)
見果てぬ夢だと知った。
けれど想うのは自由だから、せめて好きでいさせてほしい。
どうか、誰かと婚姻を結ぶまではこのままで。
黒翠は律儀だった。来ると必ず茶を飲みながら玉蘭の話を聞いてくれる。普段は無表情なのにその時だけは目が少し細められるから、無駄だとわかっていても彼女は期待してしまう。
(少しぐらいは、好ましく思っていただけているかしら……?)
どうせ今だけだからと、玉蘭は黒翠に四神やその眷属のことをいろいろ尋ねた。
答えられないことなら答えてくれないだろうし、逆に答えられることならなんでも答えてくれそうに思えたからだった。それぐらい黒翠は真摯だった。
耳に心地いいバリトンが静かに答えてくれる。
「我らの結婚か……基本は眷属同士だが、稀に人と一緒になるものもいる」
「え……それはどういう……」
一縷の望みを持って恐る恐る尋ねてみると、意外な返答があった。
「我らにとって重要なのは四神に仕える次代を産み育てること。眷属同士であれば必ず次代を作ることは可能だ。だが人とはそうはいかぬ。しかしその人間の中に己の”つがい”を見つけることもある」
話しているとわからない言葉がいくつも混ざる。
「”つがい”とはなんですか?」
「我らにとっての唯一無二……時には四神よりも優先される伴侶だ」
玉蘭は何度も目を瞬かせた。
もし自分が黒翠の”つがい”であったなら。
「その、”つがい”って……どうしたらわかるものなんです……?」
黒翠は少し考えるような顔をした。
「そうだな……出会ってすぐにわかるものではないらしいが……。ただ、成人していればなんとなくわかると聞く。そしてそうとわかった時、片時も離せなくなると」
どこか遠くを眺めるように答える黒翠の横顔を玉蘭はじっと見つめる。そして意を決したように口を開いた。
「……黒翠様は、成人していらっしゃるのですよね……?」
玉蘭が物心ついた時には黒翠はすでに大人の姿だった。だから馬鹿な質問だということぐらいわかっていた。
けれど、
「いや……我の成人はまだあと……2~3年先だろう」
そんなありえない答えが返ってきて玉蘭は目を見開いた。
「ええっ!? 嘘でしょうっ!?」
思わず驚愕の声を上げた玉蘭を黒翠は面白いものを見るような目をした。
「我らは人とは違う。人にとっては大人に見えるのやもしれぬが……我ら四神の眷属の成人は50歳だ。50になれば子を成せるようになる。さすればまたいろいろなものが見えてくると聞く。”つがい”を見つけられるようになるのもそれからだと」
玉蘭は絶句した。四神の眷属が長生きするとは聞いていたが、成人がそんなに遅いとは思ってもみなかった。
「あの……黒翠様、眷属様はどのぐらい長生きされるのでしょうか……?」
「世代にもよるが……我であればあと200年ぐらいだろうか」
「200年!?」
「もし我の伴侶が人であった場合、その者が”つがい”であれば同じ時を生きることとなる」
なぜか黒翠は玉蘭をまっすぐ見つめたまま告げる。そんなことはありえないと思いつつも、玉蘭は胸の高鳴りを抑えることができなかった。
「そう、なのですか……」
(でも、成人しないとわからないのでしょう?)
あと2~3年で成人すると黒翠は言った。
玉蘭はすでに13歳になっていた。冬になる前に14歳になる。この国の成人は15歳。女性は成人と共にどこかへ嫁ぐのが当たり前である。跡取り娘である玉蘭にもそろそろ縁談がくる頃だろう。
(間に合わない……)
黒翠の成人まで待てないことが、胸を切り裂かれるようにつらかった。
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