第3話 トイ

 トイは本来、人間嫌いな王子である。しかし、昔からそうだったわけではなく、昔は天真爛漫な、天使のような子供だったとトイを知るものは言う。

「わ、お父さま、見てください。あのようなきれいな花、わたしは初めて見ました」

「トイ。ソナタの心根は、母である王妃に似たな」

「そうですか? でも父上。わたしはきっと、父上にもよく似てます。みんながそう言ってますから」

 愛らしい子供だった。なにも知らなかった。世界には美しいものしか存在しないと、そう信じて疑わなかった。

 だが、王子という立場上、トイはこの世界の醜さに気づいてしまう。例えばそれは、トイを暗殺しようとする人間だったり、例えばそれは、トイに嫉妬の念を向ける貴族だったり。

 学校に入学すると、トイに取り入ろうと、男女問わずクラスメイトはトイにすり寄った。時に許嫁の座を巡り、時に護衛兵の座を巡り。

 うんざりだった。この世界は腐っている。

「あれ。怪我してるの?」

「ううん。お腹が空いただけ」

 家出して一週間。ろくに食べ物も食べられなかった。城を出てしまえばトイはただの子供に過ぎず、誰もトイに見向きもしなかった。トイに優しくする人間は、トイの地位におもねっているのであって、トイ自身を見てくれる人間なんてどこにもいなかった。

 いっそこのまま死んでしまおうか。そう思って街の真ん中でうずくまる。やはり、誰もトイに見向きもしない。

「お腹空いてるなら……これ。あまりよくできたものではないんだけど」

 しゃがみ込むトイに渡されたのは、不格好な菓子だった。マドレーヌとクッキーと、それからよくわからない乾菓子。

「……っ!」

 空腹に逆らえず、なんの疑いもなくトイはそれを口に入れた。甘い味が口いっぱいに広がって、涙がこぼれた。

 誰にも認められないと思っていた。誰も本当の自分を見てくれないと。だけど、ひとりでもいい、こんな民がいるのなら、自分が王子として、やがて王になることにも意味がある。

 美しく気高い少女に救われたトイは、この時自分が生まれた意味を見出した気がした。

「ありがと――」

 顔を上げたとき、そこにはもう、少女の姿はなかった。

 名前も知らない、顔も知らない、優しい人。この味を、トイは一生忘れないだろう。自分の空腹を、心を満たしてくれた人。

 かすかに残ったのは、少女に渡された菓子の味と、菓子に練りこまれた少女の魔力だけだった。


 それから十年以上がたった。トイはお忍びで街に繰り出しては、様々な料理屋で食事をした。

 トイの魔法は、魔力の感知。ゆえに、一度感じた魔力を忘れることはない。あの日の少女の魔力。あの菓子には、あの少女の魔力が混じりこんでいた。おそらくそれは、あの少女の魔法が料理に関係するものだからだ。

「見つけた」

 料理屋 磯。

 最近街でも噂される、変わった料理を提供する店。トイはそこで料理をする少女こそが、あの日のかの少女なのだと、一目でわかった。


 一目ぼれ、というのはそういうことだから、アリアのほうはトイを覚えていなくても当然なのだ。あの日トイは、アリアの前でずっとうつむいていた。顔を上げたときにはアリアの姿はなかった。

 だけどそれでいい。アリアはトイの命の恩人で、トイを王子として立たせてくれた人。今の自分があるのは、アリアがいるからだ。

「王子さま。あの」

「なんだ」

「えっと、あの」

 妃として迎えられ、正式に挙式も上げた。その当日であるのに、アリアは料理に首ったけである。

「ソナタの言う通り、一日に三食の食事だと、吐かなくて済むし、料理の量もちょうどいい」

「はい。でも、それで」

 先ほどからアリアが恐縮しているのは、トイがアリアを書斎に呼んで、ぎゅむっと、まるでぬいぐるみを抱きしめるがごとく、その腕に閉じ込めているからだった。

「王子さま。なぜ私を呼んだのですか?」

「呼ばねばソナタは一日中料理場にいるだろう?」

「それは……だって私は、それしかないんですもの」

 この国は平和だ。戦争も争いもない、平和な世界なのだ。

 中には、魔法を持て余して戦争をもくろむ人間もいるのだが、それを許すほどこの国の王は甘くはない。聖君とも呼ばれる現王は、国民からの信頼も厚く、その子供であるトイもまた、この国をいつくしみ、平和を保つよう努力している。

「王子さまは毎日お仕事をなさっているのに、私だけぐうたらするわけにも行きませんので」

「だが、だからってコックたちと仲良くなど……」

 むっとした表情で、トイがアリアの首筋に顔をうずめた。どうやら嫉妬しているらしい。

 どうしたものか、アリアは考える。

 トイ王子といえば女性に対して冷徹ということで有名だったはずなのだが、アリアに対するトイは、どこからどう見ても溺愛している。

 アリアは自分がなぜこんなに愛されているのかがわからない。わからないから、困惑する。

「王子さま。では、王子さまもご一緒に、料理をなさいますか?」

 断られる前提での提案だった。しかし、トイは顔をぱっと明るくして、

「それは名案だ」

「え。ええ……」

 かくして、トイは時折アリアの料理を見に来ることとなったのだ。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る