第143話 社畜の安寧(1)


 それは早朝の出来事だった。

 まだ太陽はのぼっていないため、周囲は真っ暗だ。


 オオカミとおぼしき遠吠とおぼえが、かすかにひびき渡る。

 死の砂漠となった、この周辺に『動物が棲息せいそくしている』とは考えにくい。


 どうやら、魔物モンスターが来たようだ。

 まだ距離があるため、あわてる必要はない。


 相手はおそらく、ダークウルフだろう。

 暗闇にまぎれ、姿を隠すことを得意とする。


 そのため、油断は出来ないのだが――


(香辛料爆弾の準備なら出来ている……)


 撃退げきたいは難しくないだろう。

 しかし、昨日の戦いで敵も理解しているのか、迂闊うかつには近づいてこないようだ。


 俺は丁度、物見台で休息をとっていた。〈暗視〉の能力を持っているため――もっとも危険だと思われる時間帯――朝方の見張りをするためだ。


 気を利かせたのか、兵士の一人が『香草茶ミントティー』を持ってきてくれた。

 眠る必要のない社畜の身体からだとはいえ、冷えるので助かる。


 いや、正確には眠るのだが――


(それは寝ていない自慢をしてからの話だ……)


 日本人は学生の頃から、寝ていない自慢をする。

 それは社畜となるための第一歩だ。


 無意識に社畜の基本技能スキルを身に着けている――といっても過言ではない。

 仕事で残業が続くと、


「おウチに帰りたいよぅ……」


 などと、つい口から出てしまうのは、まだまだ余裕のある証拠しょうこ

 むしろ、ここからが本番だろう。


 徹夜の仕事など、社畜には日常茶飯事だ。

 やがて身体からだが適応する。


 社畜は眠らない――いな、居眠りをする生き物になるのだ。


Ohオゥ! ジャパニーズ『INEMURIイネムリ』⁉ ワンダフォー!」


 と多くの外国人観光客も駅の構内でさわいでいる。

 電車の中では、椅子イスと一体化したように居眠りをするのが社畜だ。


 また、必ず座れる保証もないので、立ったまま居眠りをする事もある。

 公衆の面前で平然と寝てこそ社畜。


 日本人は優しいので、周囲も社畜を受け入れてくれる。

 これが日本人の『オモテナシ』の心だ。


 社畜は睡眠時間を削って、低賃金で仕事をしている。

 そのため、公共の場でも、ダラしない格好での居眠りがゆるされているのだ。


 また、必ずしもいえに帰れるとは限らない。

 ならば、どうするのか? 勿論もちろん、会社で寝る。


 机の上で寝るなど、初級社畜がする事だ。社畜素人は椅子イス寝をするのだが、その時はパイプ椅子イスを横に並べて使うのが基本となる。


 そうしないと怪我をすることがあるからだ。

 また、社畜上級者ともなると椅子イスではなく、段ボールを床にいて寝る。


 寝袋ねぶくろ目隠しアイマスクがあると、なお良い。

 まだ、そのいきにはたっしていない――という人もいるだろう。


 だが安心して欲しい。今の時代、防災用の段ボールベッドもある。

 パイプ椅子イスに装着するだけで、快適かいてきな眠りが可能となった。


 まさに社畜感あふれる一品だ。また――ウチの会社にはなかったが――仮眠に適したオフィスチェアも存在する。


 フットレストを引き、背凭せもたれを倒す。

 それだけで、フラットに近い姿勢で仮眠を取る事が可能となる。


(お分かりいただけただろうか?)


 電車での居眠りは、決して怠慢たいまんあかしではない。

 職場での居眠りは、無気力だからではないのだ。


 疲れ果てるまで仕事を頑張った結果である。

 『INEMURIイネムリ』は日本が世界にほこる文化といえるのだ。


 ――と自分で自分を精神制御マインドコントロールするのが社畜の第一歩なのだが、エーテリアはいまだに理解してくれない。


 キチンと睡眠を取るように言われてしまう。

 手厳てきびしい女神様だ。


 俺は兵士からもらった『香草茶ミントティー』に口を付ける。

 ミントの香りが、フワーッと広がった。


 パッと目が覚めるような気がする。

 苦味はなく、わずかだが甘みを感じた。


 寒いので『ミントココア』にしても美味おいしそうだ。

 子供たちなら喜ぶだろう。


 機会があればためしてみたい所だが――


(ミントなので、ミヒルは苦手かもしれないな……)


 普段から砂漠の民である彼らも、温かいお茶を飲むらしい。

 砂漠なのに何故なぜ? と思うかもしれないが、目的は身体からだを冷やすためだ。


 矛盾むじゅんしているように聞こえるだろう。しかし、理由は香辛料の効いた料理を食べるのと同じで、体温を上げて汗をくためだ。


 熱い『お茶』を飲めば、簡単に体温は上がる。

 同時に体温を調節するためのエネルギーを『節約できる』というワケだ。


 乾燥した地域ならではのり方である。

 摂取した水分も汗になって排出されるので、便所トイレへ行く必要もない。


(まあ、日本では『お茶』や『コーヒー』を飲むと……)


 脱水状態になると誤解されているようだ。

 確かにカフェインには利尿作用はあるが、必ずしも脱水状態になるワケはない。


 そもそも、アイスコーヒーは普通に飲まれている。

 身体からだは不要な水分を排出しているだけで、出ない時は出ないモノだ。


 だからと言って、カフェインを大量に摂取するのも危険である。頭痛や胃痛、不眠や不安、興奮やき気など、様々な症状を引き起こす可能性があるからだ。


 『カフェイン中毒』というヤツである。

 まあ、頻繁ひんぱん便所トイレへ行きたくなるのは、体質も関係しているのかもしれない。

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