第4話
クォギアにとって、ディルギスは何よりも大事にするべき存在だ。
手を差し伸べてくれた人。命を救ってくれた人。光を齎してくれた人。
ディルギスがいなければ、今のクォギアは無い。
恩返しをしたいと思い続けていた。
しかし、当時の幼かったクォギアにはどうする事も出来ず、離れるしかなかった。
いつか会いに行こうと誓っていた。
「はぁ……」
門を抜け、神殿の敷地に入ったクォギアはため息をつきながら周りを見る。
剪定されず枝を伸ばし続け、実りの恵みを忘れた樹々。雑草に養分を吸い取られた庭。建物の正面玄関を飾る彫刻を施された柱は枯れた蔓が絡まり、蜘蛛の巣の残骸が残っている。白いはずの石畳は砂や雨の汚れで黒く荒み、水路には枯葉が詰まり、それにより溢れ出した水によって周囲が苔むしている。
これが清浄なる国を守る神の一柱の神殿。
何たる有様か。
「本日より専属裁縫師に着任しましたクォギアと申します」
神殿の正面玄関である大きな扉の前に立ち、声を張り上げる。
出迎えがないと想定済みであるが、何も反応が返って来ない。
試しに玄関扉をほんの少し押してみると、開いてしまった。
本来は神の許しが無ければ入れないが、専属になったと言うのに挨拶をせずに別館へ行くのはかなり失礼だ。この様な事態では致し方ない。
「……失礼します」
クォギアは玄関扉を開け、室内へと踏み入れる。
先程まで頬を撫でていた春の風が、一瞬で消え失せた。
温かな日差しに肌寒さを感じる。
自らの呼吸と心臓の音がやけに聞こえる気がした。
神殿の中には、神へ捧げた供物は何一つない。ただ、ただ空間が広がっている。
一度も使われない調理場。埃塗の談話室。
無造作に床に置かれた花瓶と虫食いの聖書。聖書は、何度も読まれていたのか手垢がくっきりと残っている。
確かな時の流れがありながら、停滞している。なのに、現実に引き摺り戻すかのように、埃やカビの臭いに息が詰まりそうだ。
「誰だ」
神殿の奥地にある神の寝室。
天幕に覆われた寝台に、其の御方はいる。
「本日より、貴方様の専属裁縫師となりましたクォギアと申します」
即座に荷物を置き、クォギアは床に膝を着きながら深々と首を垂れる。
ディルギスの薄い唇が彼の名を編み、金の瞳に光が移り込むが瞬きによって消える。
「物好きなものだ」
「だからこそ、ここまで来ました」
緊張で胸の音が激しく鳴っているのに、不思議なくらいに心は落ち着いている。
「おまえは、私に何を望む?」
「あなたの為に、服を作らせてください」
その答えにディルギスは目を細め、天幕を抜けて左手を差し出す。
古びた油と水が交わり生み出される歪んだ虹を宿す闇が、褐色の細い指先から体へと蝕んでいる。
クォギアは立ち上がり前へと進み、その手を躊躇いなく握ると、ゆっくりと中へと引き寄せられる。
衣一つ身に纏わず横たわる褐色の細く華奢な体は、男性よりも少年に近く、中性的にすら感じる程に滑らかな曲線を描いている。手入れされていない筈が艶やかに寝台へと広がる黒髪。その間から、人を惹きつけ芸術品のように美しくも、感情を映す事を諦めた顔が覗き、吸い込まれそうな程に清く純粋な光を宿す金の双眸はクォギアを真っ直ぐに見つめている。
記憶に焼き付けたその姿よりも、美しいと心から思う。
「治してやろうか?」
慈しむように右手の指の腹で、クォギアの額にある火傷の跡をなぞる。
懐かしい花の香りがした。
「いいえ。これは、私が今を生きる証ですから」
穏やかな声音で伝えられた答えに、ディルギスは何かを言いかけて止めた。
クォギアに促されるように立ち上がり、彼は天幕の中から出て来た。
全身は歪な虹を宿す闇に侵食されている。痛々しくも美しいと思ってしまうのは、人の傲慢だ。
「髪が伸びてしまった。切りたい」
「湯浴みの前に、切らせていただきます。準備をしますので、こちらに座って、お待ちください」
外の空気を少しでも吸ってもらいたい。クォギアが誘導した場所は、自分のトランクケースであった。
「おまえの荷物ではないか」
「ここまでの道中に神殿内部を軽く見て回りましたが、どこも埃塗れでして……その様な場所に座って待っていただくなんて、できません」
彼は手早く自分のトランクケースからシャツを取り出し、ディルギスの肩へと掛けた。
「……わかった」
ディルギスは遠慮がちにトランクケースの上へと座り、自らの手で髪を束ねて床へと落ちない様にまとめる。
天幕の張られた寝台から出るのは、いつぶりだろうか。
準備が出来るまでの間、ディルギスは周囲を眺める。
青々と生い茂る葉と柔らかな木漏れ日。青く澄み渡る空と白い綿雲。
神殿内部は荒んだ状態であろうとも、鮮やかな色は今も変わらず存在している。
「ディルギス様。準備が整いました」
20分程経った頃、クォギアが寝室へと戻って来た。
「随分と早かったな」
「これでも基礎の魔法は使えますので」
トランクケースの隣に置かれた箱を手に取り、クォギアは応える。
現段階では井戸や水路はあっても、清掃し整備しなければ使えない。時間が掛かり過ぎるためクォギアは水、火、風の魔法を応用し、清掃と風呂炊きを行った。
「石鹸は無かった筈だ」
差し出された右手を取り、ディルギスは立ち上がる。
「それでしたら、大丈夫です。私の師匠から、専属就任祝いで石鹸とタオルの詰め合わせをいただきましたので」
クォギアの左腕に抱えられた箱から、仄かに石鹸の香りが零れる。
「神と人の服を作るのだから、人一倍清潔にしろとうるさい方でして……ものは一級品ですので、ディルギス様も満足していただけると思います」
「愛されているのだな」
工房長は、孤児であったクォギアを弟子として迎え入れた。師弟だけでなく親子に近い関係も持ち合わせている。
「えぇ、まぁ……そうですね」
肯定はしたが、徐々にむず痒くなる。クォギアはどう表情を作れば良いか分からなくなり、眉間に皺をよせながら口先を若干上げる。
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