第41話 未来へ ふたりで
「ナンナさん、綺麗だねえ」
第一声が、それだった。
霊峰の中腹、ルンノにて。
酔っ払ってへべれけで歩いてきた挙げ句、他の女性を賛美し始めるディーハに、座っていたユリカはつとめて冷静に返事をした。
「そうね、とっても綺麗」
宴は最高潮を迎えていた。
夜に入り谷間は冷え込んできていたが、誰もがそんな気温などものともせず、若い二人を祝っている。
漆黒の空には無数の星が瞬き、三日月が眩いまでに光を放っている。
「えーと、えーと、」
何かを言おうとするディーハだが、言葉が思いつかないらしく紅潮した顔でむにゃむにゃと何やら言っている。
「少し、歩こう」
ユリカは立ち上がって、ディーハの腕を掴み、宴の輪を抜け出してそっと冷ややかな空気の中へと歩き始めた。
手を取り合って、結局二人が訪れたのは、他でもないルンノの心臓部たる貯水池だった。
ここでユリカはディーハに攫われ、ここでユリカはディーハに抱き締められた。少なからず思い入れのある場所だった。
ちょうど頭上の隙間から月の明かりが差し込んでおり、貯水池は僅かに明るかった。
水面は凪いでおり、何とはなしに、二人でその脇に腰掛ける。少しの間沈黙が満ちていたが、水面の月を眺めながら、ユリカはぽつりと呟いた。
「そういえば、アニとユニ、わざわざ水都で決闘したんだってね」
「そそ。でも山登りの時点で二人とも負け確定。途中から仕方なくおれが負ぶってったけど高さで目ぇ回してたね」
砂里の子供、双子のアニとユニは捕虜として連れてこられていたクルトをいたく気に入ってしまい、一丁前に彼に求婚する事態にまで発展してしまった。
水源を巡る一連の出来事の後、生粋の天人であり天水なしに生きられない身体となっていたクルトは水都に戻ったのだが、幼いアニとユニは納得ができず、想いを募らせた末に水都にまで乗り込み、どちらがクルトのお嫁さんになるかの決闘を決行してしまった。
もとはサナイ媼の冗談に近い入れ知恵だったのだが、幼さゆえに本気の本気にして、実行にまで移してしまったのだ。
ちょうど砂里に戻っていたディーハをつかまえ泣き落としから脅しに脅して、双子は驚くべき行動力で水都にまで到達したのだった。
「見せ物じゃないのは分かってるけど、わたしも見に行きたかったな」
「いやーもう、大泣きする子供を二人連れて水都から降りるのほんとキツかった……こっちに寄ろうと思ったらすぐにおうちに帰る帰るって言い出すしさ」
互いの住処の間の風通しがよくなったとはいえ、水都までの道は険しく、気軽に行き来できるようにはなっていない。
ユリカは魔女の名代として何とか登坂することができているが、一族の三つの住処を自在に行き来できるのは最も強靱で足腰の達者な砂里の民くらいのものだった。
そして、双子はわざわざ水都で大立ち回りをしたあげく、結局二人とも同時にダウンして引き分けと相成ったとのことだった。
「クルトは元気にしてた?」
「うん、元気にしてたよ。先輩、なんか生き生きしてた」
「そう……よかった」
ユリカは、虜囚として砂里や水都に赴き事件の中心に立たされていた事件が片付いた後、水都の魔女の見習い程度の役割はあるものの、一人の村娘に戻った。
長のカドーロの腰も何とか回復し、村でのユリカの名代としての役目も一応は終了したのだ。
三所を繋ぐ仕事ができるのはユリカやクルト、そしてディーハなどあの出来事の当事者くらいであり、ユリカは主に村に残ってはいるが、それぞれの居所のことについて勉強をして、できるだけそれぞれの風通しをよくすべく動き始めているところだった。
砂里の民がいなければ、彼らが水都を攻めることをしなければ、水都とルンノと砂里がこのような間柄を築くことができなかった。
少ないとはいえ犠牲も出ているため、けして万事が成功したというわけではない。
水都の民には砂里に対する禍根が否応なく残っている。
それでも――一連の出来事で、長きにわたって分断されていた一族の絆が再び結ばれたというのも、事実だった。
ユリカはその絆を深く強固なものにして、夢に見たように一族が再び同じ月を仰いで笑顔で過ごせるようになることが自分の使命だと思うようになっていた。
「そういえば……グイドさんの話、聞いたよ。ここよりも水都に拘ってたのは、そのせいだったって」
ユリカがふと口にすると、ディーハは首を半分傾げるようにして頷く。
「――実際のところ、どうだったんだろうな。
水都でお母さんの恨みを晴らしたかったのか、皆に水のあるところを手に入れてあげたかったのか。
なんか、水都の水に毒があるからってこっちに来たときのあの人は、ちょっと投げやりっぽくなってたとは思う」
「そうでもないと、たとえまぐれでもわたしが勝てたりしなかったね。あのとき、たぶん、すっごく手加減してくれてたと思う」
「いやほんとうに、見てるおれの方が怖かったよ……」
「ごめんね」
エンマにより知らされていたものの、結局、ディーハは決闘の際にグイドを弓で狙っていたことをユリカに告げることはなかった。
偵察に入り込んだ五人の戦士を人知れず昏倒させた上で、木陰から息を潜めて弓を構えていたらしい。
あれだけユリカが劣勢だったのだから、おそらく弦を引き絞り矢を放ち同族の長を撃つ直前までは行っていたのだろう。
どれだけの思いで、どれだけの集中をしてユリカ達を見つめていたのか、完全に推し量ることはできない。
そして、ディーハにどれだけ強く想われていたのかと考えると、ユリカの気持ちはどうしようもなく落ち着かなくなった。
「サナイ婆ちゃんがたまに鬼子がどうのって言ってたのは、族長……と、元族長のことだったんだな。俺のことかと思ってた」
「おばあちゃん、色んなことを話してくれてたね」
二人は遠くできっと今でも穏やかに縫い物でもしているであろう優しい老婆のことを想い、そして話の中に出てきた人物を連想する。
ヨナにアイナ、ミラ、セドリク、そしてグイド。各人の罪の重さを比べても仕方ないことだった。
それぞれが少しずつ歯車を歪めていった結果が、砂里の水都攻めとして集束してしまったのだ。
また、関係した者の中で、唯一未だ生存している人物もいた。
砂里を抜け、目立ち始めた腹を抱えた身で山脈を抜けて西世界へ行こうとしていたユインがルンノを訪れたことがあった。
ユリカをはじめ、皆でせめて子を産み落ち着くまでは谷にとどまるように勧めてみたのだが、彼女の決意はかたく、むしろ子を産む前に新しい土地にたどり着かなければいけないと言って早々に谷を抜けて西へと向かっていった。
その際、ユリカはミラの話に加えて、ユインからもグイドにまつわる話を聞かされた。
決闘の後で姿を消した彼の行く末を、自分には知っておいてほしかったのだと。
グイドの母親のこと、婚約者のこと。そして、魔女ミラとのこと。
セドリクが実はミラの息子だったという事実も、改めてユインから聞かされた。二人の間に合ったのが男女の情愛ではなく血の繋がった親子の愛であったと判明したことは、二人の様子を見ていたユリカにはむしろ納得のできる話だった。
そして、「けして共感はできなかったが、理解はした」――そうユインに伝えると、彼を愛し従い、そして喪った者として、深く礼をされたのだった。
◆
楽しげな歌声が水路を伝って水門にまで届いている。
「おばあちゃんも元気?」
「元気元気。おかわり四杯目のおれをぽこぽこ叩くくらい元気。この前新しい水源に移ったときなんて、移動に慣れてるばあちゃんの方が若い衆よりも慣れてて元気ってくらい」
「……おかわりはせめて二杯にしなよ」
「いやあ、最近エンマさんの指導がきつくてさ。どれだけ食べても足りなくて」
「エンマさんが?」
きょとんとするユリカに、ディーハは少しだけ照れくさそうに笑う。
「おれの母さんの血筋がさ、先々代の族長と姉弟だった筋らしいんだ。
よそ者との不義で支族を追放されてたけど、こんな事態になっていくつか支族を立て直すことになってさ。
今となっちゃその族長の血筋がもうおれしか居ないってことで、ゆくゆくはエンマさんから全部役目を譲ってもらうことになりそうで」
「役目……」
族長代理のエンマがその役をディーハに譲るということは、つまりディーハが将来的に砂里の族長として彼らを導いていくということだ。
こんな話の最中にもへらへらへらへらとしているディーハの顔を、ユリカは思わず覗き込む。
「ぞ、族長になるってこと……? 大丈夫なの?」
「ま、できる限り頑張るつもりだよ」
ユリカもクルト先輩もそれぞれ頑張ってるんだからさ、特に先輩に負けるわけにはいかないし、と聞こえないような小声で呟いてから、ディーハはこくりと頷いた。
ユリカはその横顔を眺める。
かつて自分は何でもない、何の発言権もないとどこか自棄気味に言っていた彼がしっかりと未来を見据え始めたのが頼もしく思えてきた。
そんなとき、ディーハが不意に横目でユリカを見やってきた。
視線が絡み、思わず息を呑む。
「ところで――婆ちゃんさ、おまえの嫁はいつになったらこれを取りに来るんだって怒ってたよ。あの綺麗な刺繍の服」
「!」
唐突に話の方向を変えられ、ユリカは思わず言葉に詰まる。
「……だって、あれは、その……おばあちゃんがちょっと勘違いした結果というか」
「じゃあ、いらない?」
いつの間にか、酔っぱらって阿呆面をしていたはずのディーハの顔がとても真剣なものになっていた。
琥珀色の瞳が真っ直ぐに心の中身まで見据えているようで、ユリカは思わず身じろぎをする。
「おれは、見たいよ。あれを着て、おれの隣で、お花の冠をして、世界で一番、とびきり可愛いおれのお嫁さんになったユリカ」
「……っ」
瞬間、ぴり、とユリカの全身が痺れた。
たくさんの言い訳があった。
自分は砂里の人間ではない。
戦士でもない。ただの村娘だ。
天水が効かない以外は特別なことができるわけでもない。
もしかしたら、今後水都で澱の魔女の役をすることになるかもしれない。
好みのご飯を作ってあげられないかもしれない。
いざ一緒に暮らしてみればうまくいかないかもしれない。
それに、族長としてのあなたの伴侶にふさわしくないかもしれない。
それでも――
「うん。わたしもディーハのお嫁さんに、なりたい」
ただ、言葉が自然と口から出た。
途端、しなやかな腕が伸びてきて搦め捕られ、気づけばユリカはディーハに抱き寄せられていた。
「ごめん、こういうとき、何か気取ったことでも言えればいいんだけど」
熱を帯びたディーハの腕の中。低い声が震えていた。
互いの心臓が驚くほど早く鳴っている。互いの熱が混ざり合う。
苦しいほどに抱きすくめられ、ユリカはその背に手を添えて、彼に身を任せた。
何度も自分を支え守り救ってくれた力強い腕は、もはや最初からそうあるべきだったかと思えるほど、ユリカの身体をしっかりと包んでくれている。
「嬉しくて、何も言えない」
「うん。わたしも、どうすればいいのか分からない」
ナンナの結婚の際は、ナンナが花婿にとても情熱的に求婚したのだと聞いている。
なんでも、谷に来る際に足を挫いたナンナを、放牧に来ていた花婿が見つけ、助けて介抱してくれたのだという。
そこから惚れ込んだナンナが猛烈な勢いで押して、今日に至るとのことだった。
いきさつを聞いているだけで周りがあてられてしまうほどだった。それに比べるとこちらの二人は情熱だの衝動だのにはほど遠いものではった。
それでも、幸せだった。十分すぎるほど満たされ、心が溶け合っていた。
思えば、ユリカとディーハの間の情熱も衝動も、この一連の出来事の中で既に経ていたのかもしれない。
お互いに信頼しあって命を預けるくらいのことは、既に済んでいるのだから。
「ま、こういうのもおれららしいかもね」
「ほんとに、ね」
「こんど、花嫁衣装を貰いに行こう。一緒に」
「うん」
月下、静かな水辺にて。
かすかな宴の音を遠くに聴きながら、ユリカとディーハは二人だけの蜜月を過ごした。
遠くない未来、谷で、砂里で。再び賑やかな宴が催されることになることだろう。
澱の魔女と魔女の檻 もしくろ @mosikuro
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます