第37話 それぞれのあとさき

 一つの水源を巡る、一つの民による争いごとはそうして一幕を終えた。


 砂里とルンノは長同士による決闘の末に和解をした。


 その後水都にも使者を送り、三者が協議を重ね、新しい体制が慌ただしく整えられていくこととなった。

 とはいえいったん分かたれていた血の流れが何事もなかったかのようによりあわされるというわけにはいかない。


 だが問題点、解決すべき点が見えただけでも、一族としての未来はきっと暗くはなかった。


 ◆◆◆


 水都。

 突然の侵略者により蹂躙され、魔女により真実を明かされ、未だ混迷の最中にある天上の街にて。


 平穏な日々を突然破り踏み入ってきた野蛮な砂漠の民はその日のうちに撤収した。

 残された水都の住民達はただ困惑し、嘆き悲しむことしかできなかった。


 未来永劫続くはずだった水都の平穏がこれほどにも呆気なく決壊させられると思い知らされ外からの侵略に怯えた。

 水都の最高機関であるはずの評議会の一員が砂里の凶刃にて命を落とし、残された構成員も狼狽しまともな方針を出せずにいた。

 

 無理もないことだった。薬でもあり毒でもある天水を糧としている彼らだが、実際のところ経験の浅いほんの若輩者であり、めまぐるしく生を燃やして、精神が成熟する頃には、既に死の足音が聞こえるところに居るのだ。

 

 代わりに水都の進むべき路への舵を取ったのは、魔女だった。


 天人が天水の毒を引き受ける濾材のような存在であったことを、魔女は評議会の口を借りて少しずつ明かしていった。

 そして霊峰を下り谷の村に住まう道もあるのだと、彼らは歓迎する用意があるのだとも告げた。


 谷と砂里の総意は既に決まっている。

 もし天人が毒を引き受ける役を全て放棄し、天水がそのまま流れ落ちたとしてもその運命を従容として受け入れると。

 

 それでも、水都を出ると決めた者はほとんど居なかった。

 たとえ短くともこの水の都でただ平穏だけに浸かって生きていきたい、今更外の世界に出る勇気などないという者ばかりだった。

 

 まれに、我が子を谷へと降ろしたいという相談をしにくる夫婦がいるくらいで、たいていの天人は天人として生きて死ぬことしか望んでいないようでもあった。

 逆に不治の病を抱えた砂里の者が水都に上がることを希望することもあり、水都に住む者の総数に変化はほとんど無かった。


 水都において短く美しく安らかな生き方をするか、谷や砂里で苦楽を受けながら長く生きるか。

 それは正解などない、総意の出せない選択肢だった。


 ◆◆◆


 一人の男がちっぽけな明かりを頼りに、霊廟の中を歩んでいた。

 男は宵闇を利用して密やかに水都に入り、天人が近寄らないその施設へと単身で入り込んでいた。


 霊峰の身中にある永遠の玄室。

 最奥には全ての同胞の父祖たる三人と、彼らが再会を誓った月のレリーフがある。

 だが、男の目当てはそこではなく、もっと手前のとある天人の遺骸だった。


 やがて奥にも一つの明かりが視認できる。

 男は真っ直ぐにそこへと向かい、やがて互いの光が合わさり、周囲が強く照らし出された。


「お久しぶり。そろそろ来ると思っていたわ」


 黒い髪が炎の明かりで揺らめく。

 白い服を好む天人の中において黒い服を好んで着るのはこの女性一人だった。


 魔女ミラ。そして、彼女と対峙したのは――


「ひとつ、確認したいことがある」


 男は低く唸る。

 二百年分の天人の遺骸が並ぶ壁面。

 そんな中で一つだけ空位となっている窪みがあった。その下には先日息を引き取った天人の男、セドリクが変わらぬ姿で眠っている。


「この男の名を、言え」


 男はその隣で横たえられている男性の遺骸を指し示した。


 黒い髪をして、日に焼けた肌をしており、おおよそ天人とは思いがたい外見ではあったが、やはり欠片も朽ちずに残っている。


「その人の名前は、ヨナ。私の――夫よ」


 その言葉で、砂里の長、ヨナの息子であるグイドは纏っている空気を変える。

 ひどく冷たく鋭い雰囲気になるが、ミラは構うことなく続ける。


「その下が、義妹のアイナ。


 そして――この子が、私とヨナの息子、セドリクよ」


 グイドが冷ややかに睨む前で、気軽に、まるで生きている家族を紹介するかのようにミラは言った。


 ヨナと呼ばれた遺骸の一段下におさめられている遺骸も、同じように天人ではなく砂里の民のような外見をしていた。か細い娘だった。

 美しい顔をしているが痩せており、胸の上で祈るように組まれている指は細い。


「これが裏切者のヨナか」


 唾棄しそうなほどの憎々しげな顔をして、グイドはヨナの遺骸を見下ろす。


「三十年前だったかしらね。

 一人の砂里の男が、病気の妹を背負って水都にまで登ってきたわ。

 熱病で助からない妹を何とか癒やして欲しい、ここにある奇跡の水で治して欲しい……って。とても必死そうな顔をして」


 ミラはヨナの遺骸の腕をそっと撫でた。


「自分はどうなってもいいから、妹に天水を与えてくれって頼まれた。

 私は天水は病を治すだけのものではないって説明したけれど、病で苦しんで死ぬより安らかになれるのならばそれで構わないと言われ、私は妹さんに天水を飲ませた。


 やがて妹さんは、アイナはすっかり元気になったわ。ただ、肺の弱い娘で砂漠の空気には耐えられないだろうから、そのまま水都で暮らすことになった。

 アイナの病が癒えるまでのつもりで水都に逗留していたヨナも、結局はそのまま残ることになった」


「貴様と番ったからか」


「……ええ、そうね。その頃には、ヨナと私は愛し合っていた。離れがたくなっていた。

 彼は砂里に親の決めた許嫁を残してきたと言っていたけど、それでも、ここに残って、天水で短くなった人生を、私と過ごすことを決めた。


 そうしてアイナを見送って……その後で生まれたのがこの子、セドリク。


 砂里の人間の子を産むなんて忌まわしいって、評議会にさんざん責められたわ。それから二世代くらい回って、今水都で魔女を厭う空気を作ってしまったのは、私の一番の咎。次の魔女の役には、苦労ばかりかけることになるわ。


 ……この子も、産んですぐに引き離されて修学寮に入ったけれど、いつの間にか私が母親であることを知ってしまって。知らずに生きてくれた方が、幸せなままで眠ることができたかもしれないのに」


 砂里の男との忌み子である自分を産んだために蔑まれる存在となった母親を呪縛から解放すべく、天命の前についに行動をした天人の男は、その結果を見る前に永遠の眠りについた。


 母親を連れて決死の覚悟で水都を脱した際に、水都を偵察しにきていた砂里の斥候と遭遇してしまったことは彼にとって僥倖だったのか奇禍だったのか、それは誰にも分からない。


 だが、静かに眠るセドリクは痩せているものの満たされ安らかな顔をしている。


「これが貴様の連れ合いでなくヨナの息子と分かっていれば、この手で弑したものを」


 天人の成長速度を知らなかったグイドは刺すような視線で天人と化した砂里の男、そしてその息子を睨む。


「ふふ……だからこの子が眠るまで待って貰っていたのよ。

 あなたがヨナの子だなんて言っているから。きっと、あなたがこうすると……分かっていたから」


 ぽたり、ぽたり、と血の雫が霊廟の床面に落ちていく。

 白い石に小さな赤い花が咲くように、それは次々と滴下されていく。


「貴様は母の仇」


「ええ……これはあなたの、正当な権利の行使だわ」


 ミラの脇腹から、赤黒い血がとめどなくこぼれ落ちていく。

 そこには、グイドがたった今族長の刃で穿った深く不可逆の傷穴がある。


「あなたに似た人を知っているわ。

 剣技に長け、民の心をとても上手に掴み、しかし政よりも戦を何より好むバハルの英雄。……征服王、狼主ルガザール」


 立っていることすらできなくなり、ゆっくりと崩れて膝をつくミラ。


「我が砂里がバハルに蹂躙された際、我が母シャダは征服者に陵辱され父親知らずの子を孕んだ。

 許嫁のヨナが去ってすぐ後のことで、母は心を病んだ末、腹に宿ったのはヨナの子であると信じ込み、そう標榜した。

 己はヨナとシャダの子として、幻の中に生きる母親に育てられた」


 ミラはぐったりと脱力し、壁面にもたれかかっていた。


「ヨナが残っていれば、母が陵辱され己のような鬼子を産むことはなかった。

 ヨナが戻れば、母が夢の世界に入ってしまうことはなかった」


 グイドが吐き捨てるが、既にミラは死の淵にあり、既に彼の言葉を解していないようだった。

 黒髪の魔女は、夫と息子、そして義妹が眠る場所に縋りながら、うわごとのように言った。


「これで、気は済んだでしょう? もう、水都をいじめないであげて、ね」


 ゆっくりと長く息を吐いた後、ミラは動かなくなった。


 それをしばらく見下ろした後、一人ぼっちの男は踵を返して霊廟を出て行った。

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