第31話 谷への帰還
澱は冷たかった。
狭まっている水門を抜けると暗い洞穴に流し込まれた。
上下も分からないほどの強い流れで息ができない。
何も見えない中で轟音に抗い声すら上げることもできず、ユリカは水都とルンノを繋ぐ最短の道、澱の水路を進んでいった。
「――ッ」
上下左右に振り回され、手足が千切れそうになる。
ただひたすら強く暗い奔流に弄ばれ、無謀な思いつきをしたことを今更後悔する。
真っ直ぐ同じ角度で下っているわけではなく、時折曲がりくねり、傾斜の緩いところでは水が溜まり息などできなくなる。
浮きのつもりで持ってきた革袋などとうに千切れ無くなっている。近くに居たはずのディーハの存在すら確認できない。
身を起こして水面から顔を上げることもかなわず息がついに続かなくなり、ユリカは溺れ、意識を手放した。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「――カ。ユリカ、」
いつの間にか轟音が止んでいる。
背を軽く叩かれ、ユリカは咳き込みながら覚醒した。
そこは、よく見知った場所だった。
暗闇に慣れた目に、ぼんやりとだが辺りの光景が視認できた。そこはいつもよりも大幅に水位の増した、村の貯水池だった。
ディーハが引きずり上げてくれたらしく、ユリカはその脇に寝かされていた。
ゆっくりと上体を起こす。見知った場所だというのに、どこか現実感が乏しい。
「………………、生きてる……?」
「ああ、生きてる」
その言葉で、ユリカは大きく息をつく。
身体から力が抜け、ディーハに寄りかかる。
思わず縋り、強く抱き締めてもらうと、失った温もりが少しずつ戻ってくるようだった。
背を抱くディーハの腕が何よりありがたく感じた。
生きているという実感が少しずつ湧出してくる。それと同時に、溺れている間のことを思い出す。
澱と共に流されている間、水深が深く息のできない流れの中でユリカが息ができずもがいていると、強く腕を引っ張られた。
流れに負けないほど力強く引き寄せられ、ディーハが肺の空気を分け与えてくれたのだ。
後頭部を強く抱かれ、唇を押しつけられ、歯の間から空気を送り込まれた。
そのときは無我夢中でそれどころではなかったのだが、その行為は紛れもなく口付けに準ずるもので――思い出すとひどく恥ずかしくなってくる。
「こ、こんなことしてる場合じゃないわ、村へ!」
よろよろと立ち上がり、ユリカは貯水池の割れ目から身を乗り出した。耳を澄ませるが風の音しかしない。
月の位置からすると、時間はそれほど経っていないようだった。
先回りには成功したようだ。崖沿いの道を何とか渡り終えると、ユリカは十数日ぶりにルンノ村へと舞い戻った。
「帰ってきた……」
静かな谷を見渡し、ユリカはひとまずの安堵をする。
だが気を抜くことはできなかった。ディーハを伴い急いで果実畑を抜け、草むらを踏みながら自宅へと向かう。
夜半のため明かりが灯っている家は少なかったが、ユリカの自宅、村長カドーロの家の隙間からは光が漏れ出していた。
「きれいな村だ」
「……うん」
天人の温情により下賜された下水だと思っていたそれは、本当は彼ら自身により濾過され清められた一番尊い水だった。
それを用いてルンノの民は穏やかで豊かな暮らしをしていたのだ。
自分がいかに恵まれた生き方をしていたのかを思い知って、ユリカは恥じ入る。
不満ばかりを持って父に反発していたことも、あらぬ恨みを持って天人を憎んでいたことも。
家に戻ると、カドーロが文字通り飛び上がった。
魔女として召喚されることになった日に忽然と姿を消した娘がびしょ濡れで、しかも人さらいの容疑者と一緒に戻ってきたのだ。
「父さん、今からここに砂里が攻めてくる。殺されたりはしないはずだけど、もし戦ったりしたら危ないから、村の皆に報せないといけない。それに用意を……」
「落ち着きなさい、ユリカ」
「でも、早くしないと」
濡れそぼったユリカを、カドーロは構うことなく抱き締めた後、改めて見つめてきた。
「人に従ってもらいたいなら、ちゃんと説明しないといけない。おまえならできるはずだ。私の娘なのだから」
「お父さん、今は急ぎます。おれから話を――」
後ろのディーハが身を乗り出すと、カドーロがぴしゃりと言い放つ。
「君に父と呼ばれる筋合いはない。ユリカを攫ったのは君なんだな!?」
「いやそれは……」
「もう、話がややこしくなるから黙って!」
結局ユリカの怒号で仕切り直すことになった。
ひとまず服を着替えてからキルレ夫妻も呼び、ユリカはこれまであったことの始終を彼らに話して訊かせた。
水都を抜け出し村に潜んでいた天人のこと。
その天人とともに砂里の斥候に攫われたこと。
砂里が水都に攻める計画を立てており内通者も存在していたこと。
そして、砂里での暮らしと、水都への侵攻のこと。
水都において魔女ミラに明かされた真実、そして砂里の長の決断。
「父さんは、本当のことを知ってたの?」
「いや……そういえば、砂里の人々が訪れた際は手厚くもてなすようにと父から言われたことはあったかな……」
「そう……」
「しかし、かつて同じ血を分けた民だったとはいえ、攻め込んでくるとなると……」
狼狽えるカドーロ。額に汗が浮かんでいる。
キルレ夫妻も顔を見合わせた後、眉根を寄せるだけで何も言おうとしなかった。
「血に毒があるっていう天人は誰も傷つけられずに閉じ込められるだけで済んだ。
多分、この後も水都で暮らさせられるんだと思う。でも、わたし達は……」
二百年。世代を積み重ねるうち、いつの間にか失われていた真実。
毒を引き受ける者達、遠くに去った者達、それらに比して、毒の抜けた水を得て最も安寧に近い生き方をした者達。
ルンノの民がそれを忘れていたという事実は相応の報いを受けるべき罪なのかもしれない。
「砂里の戦士は強いよ。だから、戦って勝ったりすることは考えない方がいい。
どこか確実に通る地点に罠を置いたり、道を塞いだりできればいいけど。
そういや、バハルのやつらなんかは斥候とかを一人とっ捕まえて皮を剥いで門の前に吊すとかして攻めてくる敵の士気を下げたとかいうね」
そこで一同の視線がディーハに集まる。
「今の聞かなかったことにして」
「……ばか」
頭を抱えるユリカ。
カドーロはそんなユリカとディーハの様子を見やってから、彼の顔を覗き込んだ。
「きみは、砂里の戦士だったんだな。いいのか、こんなことをして」
ディーハは少しだけ考えてから、返事をする。
「流石にあっちと戦えって言われてもできないけど、ユリカやお父さん達が傷つくのも見たくないから、できるだけのことはしましょう」
「次もう一度お父さんと言ったら剥いで吊すぞ」
「剥がないでくださいよう」
「……ばかが二人になった」
ユリカは大きく溜息をついた。
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