第30話 澱の道

「じゃあ、成功したら、きっと、お礼しに来るよ。また会いたいな」

「そうね。また、明け空の月の下で」


 そう言葉を交わした後、使命を負った者達は方々へと散会した。

 水都は明かりが乏しく人気もない。月光がやけに強く石畳を照らしている。


 水音だけが響く中、水都の隅に据えられている小さな魔女の家を出て、ユリカとディーハは水都のすぐ外、澱泉と呼ばれる場所へと密やかに赴いた。


「ここが……」


 澱とは名ばかりの、天人の献身によって毒を清められた何より貴重な水がそこに溜まっていた。


 霊廟と同じく岩盤を掘り込んで人工的に池を作り出したらしい。

 縁は石が隙間なく積み上げられており、その片隅に水門らしき装置が窺えた。


 山肌を撫でる風で、水面にはさざ波がひっきりなしに往来している。


「……ほんと、綺麗な水だなあ。あるとこにはあるもんだ」


 ディーハが呟く。

 砂混じりの水で暮らしてきた彼からすれば信じられないほどの至宝なのかもしれない。これこそが砂里の民が欲するものなのだ。


 水門まで来たユリカは、背後のディーハを仰ぐ。


「一応訊くけど……あんた、泳げる?」

「オヨゲルって何?」


 首を傾げるディーハ。ユリカは嘆息する。


「訊いたわたしが馬鹿だったわ。残ってクルトを守ってあげて」

「うそうそ、知ってるよ。おれくらいになると砂でも泳げるし」

「……」


 怪訝な目で見上げると、しかしディーハはおふざけの雰囲気を取り払い、笑いかけてきた。


「一緒に行くよ。おれは、ユリカと一緒に居たい」


「!」


 その声が、言葉が、ユリカの全身を震わせた。

 僅かに目尻の下がったその端正な容貌は、真っ直ぐにユリカに向けられ、そして親愛の情を示していた。


「――、ありがとう」


 本当はすごく不安で、来て欲しいと思っていた。

 しかし、危険を冒すことまで頼むことはできないと思っていた。

 だが、たとえ属する集団が違っても、一人と一人ならこんなにも強く絆を結ぶことができるのだ。


 ユリカは一瞬だけ、ディーハの背に手を回して抱きついた。

 その後嬉しそうにもっととねだるディーハを引きはがし、ユリカは水門に立つ。


「これ、気休めみたいなものだけど……」


 ユリカが差し出したのはクルトから借りてあった革の袋だった。

 天水を入れて外出する際に使うものだが、逆に今回は空気を入れて持って行くのだ。


「水門を開いたら、ここの下の穴が広がって、澱が流れるみたい。その先も水路の太さは変わらないとは思うけど……」

「よく分からないけど一緒に流れていけばいいわけだな」


 全く分かっていない様子のディーハが気軽に頷く。

 ちょうどその頃、さざ波が強くなり、小さな音をたてて縁に当たるようになってきた。クルトとナンナが水門を開き町中の澱を流し始めたのだろう。


「じゃあ、開けるね」


 ユリカが複雑な形をした水門の鍵を埋め込み、輪をゆっくりと回していく。

 やがて縁がせり上がり、澄んだ水の中でぽっかりと隙間が開いたのが見えた。

 ごうごうと低い音が響き、空気が震え始める。


 ユリカは何かに引っかかるといけないため、砂里で与えられていたゆったりとした服を一枚脱いで肌着のみになる。

 

 ディーハが妙に嬉しそうに見てくるのでとりあえず脛を蹴っておく。


「水の中では息ができないって知ってる?」

「今知った」

「…………」


 二人で、泉の縁に腰掛ける。

 革袋を紐で手首に繋ぎ浮き代わりにしてから、静かに水に身体を浸す。

 だがその瞬間、足下にあった見えない流れに巻き込まれるユリカ。


「っと……」


 とっさにディーハに引き寄せられ、何とか体勢を整え直す。

 異物の混じっていない澄んだ水は、一見凪いでいるように見えても既に内部で荒れ狂い勢いを増して流れ出していた。


「じゃあ……いこう」

「うん」


 そして、ユリカは大きく息を吸って、縁から手を離し、再び強い流れに身を任せた。


 ゴウ、と強い音がして、手を繋いだ二人は澱と共に流され、暗い水中に飲み込まれていった。

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