第26話 天水

 乾きの世界を放浪した末、決死の登頂の末に見つけ出した、蒼き湖。

 ――そこはまるで、無限に水の湧き出す奇跡の泉のようだった。


 人々は歓喜し、その水を飲んだ。

 するとどうだ、それまでの疲れも、放浪の間に負った傷も、全てが癒えてしまったのだ。


 それは、まさに奇跡の水だった。

 天水と名付け、彼らはそこに住むことを決め、岩を削り積み上げて自分達の住処を築いていった。


 そうして数年をかけて精巧な白い街が造り上げられた。

 そこに疲れはなかった。喉が渇けば天水を飲み、汗をかけば天水を浴びる。

 そうすればそれまでの疲れも乾きも飢えも、何もかもが癒やされるのだ。


 街中に天水が流れるよう水路を張り巡らせ、彼らはただ天水だけを口にしながら生きていた。肉も虫も、もう必要ではなかった。


 乾きの世界で水を求めていた頃とは打って変わって、彼らはただ幸せに満ちて心を自由に色んなことに使うことができるようになった。


 子は健やかに、そして速やかに成長した。

 皆揃って美しい容貌をして、新世代の人々には、生まれる前から奇跡が身体に馴染んでいるように思われた。


 そうしてただ幸せだけを享受する日々は、しかし長続きはしなかった。


 ――水都と名付けられたその街で、最初の死者が出た。


 かつては死者を地に埋めていた彼らは、ここでも同じようにして仲間を弔った。

 けれど、それから死者が相次いだ。


 皆、病気でもなく、ただ衰弱し魂が抜けたように死んだ。


 そして残された者達による死者への弔いが間に合わなくなった頃、埋めずに安置していた骸が朽ちないことに誰かが気がついてしまった。

 既に埋めていたものも掘り返し、同じように何一つとして朽ちていないことを知った。


 そこでようやく彼らは悟った。天水の異常性を。


 天水だけをただ飲んで彼らは生きていた。

 天水によって傷を癒やし天水によって病気知らずだった。

 これほど豊かな水場だというのに動物が飲みにこない時点で不自然さを覚えるべきだった。だが、自分達だけのための水を見つけたという歓喜がそれらをすべて覆い隠してしまっていたのだ。


 このままでは死が生の速度を追い越してしまう。

 せっかく築き上げた美しい都が朽ちない死者の墓所になってしまう。

 

 彼らは解決の糸口を探った。

 やがて、少しずつ天水の全容が明らかになった。


 より早く死んだのは上流の者だった。

 いちはやく水源に近いところに陣取って湧きたての水をたらふく飲んでいた者だった。そうして死者の出た場所と、水源からの距離は一致した。


 そうして、ついに彼らは真相にたどり着いた――


 ◆◆◆


「彼らは幾人もの同胞を見送りながら、天水の真実を明かした。

 それは――人間に触れた後の水の方が、死ににくいということだったわ。

 より多くの人間が触れて余った水は、癒やしの力こそ薄れているものの、その分早死にの効果はあまり現れない」


 皆が、固唾を呑んでミラを見つめていた。


 ユリカは、自分の立っている地面がぐらぐらと揺らいでいるような感覚を覚えていた。

 彼女が語る水都や天人の世界の話が、次第になぜかユリカの方に近づいてきているような気がした。


 ディーハは強く肩を抱いてくれていたが、彼の手も僅かに震えていた。


「天水は、傷を癒やし飢えを満たす奇跡の水だけど、人間をより早く死に至らしめるという点においては、猛毒だった。

 それでも、もう水都の人々はそこを離れていくことなどできないほど、天水に依存をしていた。

 生まれて以来天水だけを糧としていた子は思いも寄らぬ早さで大人になった。

 親は子が大人になる前に死んだ。

 そうして、水源を見つけて三十年ほどが経った頃、もう水源を見つけた者は皆命を終えて、水都で生まれた子すらも死に始めていた。

 そんなときに、人々はついに決断をした」


 ミラはゆっくりと、わざとらしいほどの速度でグイドをはじめとする周囲の人間を見渡した。


「このままでは、自分達は元の人間とは違う生物になってしまう。

 そんな危機感に突き動かされて、彼らは一族のさらなる存続を願って、そのとき生きていた全ての民の手を傷つけた」


「手……」


 ユリカにも同じく深く刻まれた三日月状の傷痕がある。


「そう。明け空の月。

 わざと深く傷を負わせて、その手を天水に浸させた。そうして治りの遅い者と早い者に人々は別れた。


 天水を用いても傷が治りにくい者は、つまり天水の毒も多少は及びにくいと考えて、治りが遅く傷痕が残った者はこの水都を選んだ。

 次に、全く傷が残らず、天水の影響を受けやすい者たちは、水都を出て、霊峰を降りる決意をした。


 そこに居て天水に触れていれば、瞬く間に死に至ってしまうから、天水を諦め、水都を諦め、同胞に別れを告げて山を下りた。

 そして再びの流浪と幾多の犠牲の上に、砂漠に水の湧き出る場所を探り当て、生きながらえる環境を自ら切り開いていった」


 ミラが砂里の民、とくにグイドを見ながらそう言った。


「それが、砂里」


 そこまで語られると流石に気づいていたようだが、改めて宣告されるとどこからともなく感嘆の吐息が漏れ、唱和した。


「そして、もう一組。天水にある程度の耐性はあったものの水都で住むことを厭った者達は、少しだけ下ったところで、毒の薄まった天水を使うことにした。分かるわね?」


 話を向けられたユリカは頷く。


「……ルンノの、谷」


 天人の使った後の水を使う村。

 そんなものはユリカの住まうルンノ以外にない。


「そうして、水都に残った人々は短い生をめいっぱい使って、天水の毒を引き受けながら死んでいった。

 いつか、少しでも毒が薄れるように、その暁に、ちりぢりになった同胞がいつか再び集うことができるように。

 明け空の月という、天水への耐性試験の証のもとに」


 ミラは三日月がくっきりと残る掌を示した後、それを上に掲げた。

 壁の上方には、明け方の空にそれでも消えずに残っている三日月のようなかたちが刻まれていた。


「あ……」


 ユリカはようやく思い出す。

 その壁の意匠が、天の三日月を頂くように絡み合った弦の形が、何に似ていたかを。


 それは、エンマの祖母サナイがユリカのために用意してくれていた花嫁衣装の刺繍だった。

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