第21話 月夜の侵攻・2
斥候の行軍よりはずいぶんと遅いものの、麓までの大移動は夜更けに間に合った。
一面の砂の景色が終わり、霊峰の裾野へと一団は到達した。
その頃にはユリカをはじめとして皆が疲れ切っていた。
いつか来るこの日のために鍛錬を続けていた戦士達は流石といったところで、あっという間に二つの天幕を組み直し、女達を休ませた。
そこで身支度を再び整えてから、さらに次の行程に入るようだった。
ユリカももう一つ上の野営地まではついて行くことになっている。
拒むこともできただろうが、谷に近づくことができるし、不本意に巻き込まれたこの事態を見守らねばならないという気持ちもあった。
「おばあちゃん、わたし、行くね。衣装は……きっと、後でもらいに来るから」
女達の天幕の隅で、漏れ入ってくる朝日をたよりになおも刺繍を続けるサナイに挨拶をすると、老媼は振り向きもせずに応えた。
「あの坊主は鬼子だな。やっぱり、親譲りの鬼が出てきた」
「鬼子……、ディーハのこと?」
「違う。母親は族長の娘シャダだが、東のバハルめに陣取られたときに父親知れずの子を孕まされた。あの子は、ヨナの子を産んだつもりになっていたようだが」
「ヨナ?」
「シャダの許嫁だった。水都に行って帰ってこんかった」
「水都って……」
知らない名前が次々と耳に入って混乱するユリカ。
何とか整理すると、族長の娘であるシャダの子が鬼子と言われている。断言する材料はなかったが、おそらく現族長グイドのことを指していると思われた。
幻の中に生きているサナイは、それ以上語ろうとはしなかった。
黙々とユリカのための花嫁衣装を仕上げている。
「じゃあ……行くね」
「お前さんには明け空の月がある。上を向いていきな」
唐突に、思いも寄らぬ言葉が耳に舞い込んできた。
明け空の月。
それはユリカの掌にある、三日月形の傷痕の名だった。谷だけの呼び名だと思っていたそれを久しぶりに耳にして、ユリカは慌てて振り返る。
「おばあちゃん、なんで、その名前」
回り込んで問いただそうとする前に、ユインに肩を掴まれた。
半ば強引に天幕から出され、既に出立の用意の整っている戦士達の一団の先頭の方へと連れて行かれてしまった。
先頭の集団にはクルトがいた。
流す血が毒だと知らされているため、自刃することができないよう拘束され、若い戦士の背に背負子で縛り付けられている。
砂の地平から顔を出した太陽が昇り始めている。
白んだ空が次第に青みを帯びていくところだった。
グイドやミラの姿は見えなかった。
先発隊の方で既に登山を開始しているとのことだった。他人を害することを決意して行動する戦士達は、黙々と行動しているもののどこか緊張の色があった。
ディーハもおらず、ユリカは黙って指図に従うほかなかった。
◆◆◆
やがて、本隊も登山を開始した。
野営地までの道はそれほど長くはない。途中何度かユインに引っ張ってもらったものの、足が疲労で砕ける前に何とかユリカも野営地の窪地にまで十数日ぶりに戻ってきた。
黒い天幕が素早くくみ上げられ、窪地は再び砂里の野営地と化していた。
多少なりとも知った場所が見えると、強烈な里心に襲われる。
新しい出来事ばかりで束の間忘れていたそれは、あっという間にユリカの全身を支配した。
ルンノに戻り、狭い谷の中で前のようにのんびりと暮らしたい。天人も魔女も、何もかも知らなかった頃に戻りたい。
胸がズキズキと痛む。そうしてぽつんと立ち尽くし泣きそうになっていると、いつの間にかディーハが側にきていた。
「これが終わったら、谷に戻してあげる。といっても、嬉しくないか」
「……」
ユリカは僅かに顎を下げて頷く。
行商人の装いをしていたときとは打って変わって、今のディーハは戦士として勇ましい出で立ちをしていた。
行き先さえ知らなければすらりとしたその勇姿に見惚れてしまいかねないほどだった。
しかし、今から彼は砂里の戦士の一員として水都を攻めるのだ。
天人を害し、水都を乗っ取り、天人どころかルンノの支配者として君臨する民となるつもりなのだ。
少しの間、沈黙する。やがてディーハがおずおずと言った。
「一緒に……来る? 水都のこと結構知りたがってたろ」
「それは、そうだけど……」
水都を見てみたい気持ちはもちろんある。
だが水都まではここからはるか上まで険しい行程を登り切る必要があるし、もちろん天人達が傷つけられ蹂躙される様を見たいわけではない。
「というか、一緒に来て欲しい……おれが誰も傷つけないところを見ていて欲しい」
「どうだか。水都の女の人を見たら、どうせすぐにわたしなんか放り出すくせに」
すると、どこをどう解釈したのか承諾だと思い込んだディーハが目尻を下げて嬉しそうに笑った。
「じゃあ、おれが水都の美女になびかないところもちゃんと見といてくれ」
「…………、うん」
そこまで言われると、呆れて頷かざるを得なくなる。
ほんの短い間交わっただけの縁だが、それはいつしか何よりも強くユリカの心に絡みついていた。
虜囚としての暮らしで心が折れなかったのは、ひとえに彼をはじめとする皆の心配りがあったからだ。
ユリカは縛られた両手をゆっくりとディーハの差し出した掌に委ねた。
砂里のやさしい人たち。長らく谷に水を分け与えてくれた水都の天人達。
どちらの肩を持つべきか、その判断を最後の最後まで先延ばしにしたまま、ユリカは頭上を見上げた。
霊峰は今日も変わらず気高くそびえている。
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