第18話 砂の蠢動
ユリカが汲んできた砂混じりのその濁った水は、しばらくの間安置して砂を沈めて上澄みを使っていくとのことだった。
天人どころかユリカの谷ですら同じものを見れば使うに値せずと流してしまいかねないそれを、砂里の民はみな宝物のように大事に天幕に置いてある。
女達が水浴びをした次は馬で、最後に男達が水の恩恵にあずかることになっているらしいが、既にその頃には湧水は止まってしまっていたらしい。
「前までなら皆が水を使い終えても湧きは止まらなかったんだ」
夜中の水浴びに参加できなかった双子の髪を湿らせた布で拭ってやりながら、ディーハはどこか寂しそうにそう言っていた。
最初は干した果物くらいしか食べられなかったユリカは、次第に砂里の食べ物に慣れていった。
自分に割り当てられた貴重な生の果物を天人であるクルトに回すためという意図もあったが、サナイの作る穀物粥はやさしい味がして、ユリカの口にも自然に馴染んでいった。
砂里は砂漠周辺の街と交易をしているとのことだった。
他の行商人の護衛の他に、ユインとディーハがルンノに来たときのように女達の作った細工物などと引き替えに食物などを得ているらしく、砂だけの無毛の地ではあったが思いのほか食生活に不便はなかった。
クルトも生きることを諦めておらず、双子の介助がなくとも自ら食物を摂取するまでに回復していた。
最初こそ混乱し暴れようとしていた彼だが、捕虜の身となって大人しくしているのは、彼なりの考えが――おそらくは族長グイドを害するという目的があってのことなのだろう。
おさげの双子、アニとユニは、クルトの世話を焼いたりユリカとませた会話を試みたりと捕虜という暮らしを忘れさせてくれるありがたい存在だった。
今日は朝からどちらがクルトの嫁になるかでつかみ合いのケンカをしていた。その最中に、
「そういうときは決闘するんだ。勝てばこっちのもんだて」
――などとサナイが余計な入れ知恵をしてしまったため、双子がクルトをめぐって決闘するとまで言い出し、荷物を取りに帰宅したエンマが頭を抱えていた。
いい気味だと笑おうとしていたクルトだったが、結局仲直りした双子に捕まりオモチャにされて封殺されてしまっていた。
そんな、不自然の上に何かを覆い被せて作り出した団らんは、昼頃訪れた族長からの使者により破られた。
◆◆◆
ユインに伴われ、ユリカとクルト、そしてエンマとディーハがミラの待つ天幕へと赴いた。
砂里が水都を攻める。
そんな状況において部外者に近いユリカだったが、ルンノの長の子であることは知られており、人質の他に水都と麓の事情を知る者として利用価値を見いだされてしまったようだ。
「昨晩、そのまま静かに眠ったわ」
天幕の隅、布で包まれ安置された遺骸の脇に、ミラが佇んでいた。
天人の骸はけして腐らず美しいまま永遠に形を保たれるのだという。
「さて、揃ったか。では、はじめさせてもらおう」
中央に堂々と立った族長グイドは低く艶やかな声で、語り始めた。
「我が里が危機にあることはあなた方も知っているとおりだ。
我らは古来よりこの砂の海の中で水の湧出す地点を把握し、乾きの時代を生き延びてきた。
だが三十年ほど前、東のバハルの王、狼主ルガザールが目に見える全ての世界を我が物にすべく砂漠にまで攻めてきた」
まるで、おとぎ話のように。グイドは滔々と続ける。
「砂里は一時的にだがその支配下に置かれた。砂里の者から情報を聞き出し、各所の湧水点を中継地にされ、バハルの版図は霊峰の麓にまで届きかけた。
ルガザールが宮廷内で謀殺され、結局バハルはこの砂漠から手を引いたが、本来ならばしばらく使わず置いておくはずの場所まで酷使されたためか、湧水点に水が戻ることはなかった。
それ以来生きている湧水点は減り続け、今やこの一カ所を残すのみとなった。
愛する民を潤すため、乾きに殺させないために、私は水都を手中に収めたいと思っている」
「どうして、他の街に仲間に入れてもらって住んでみようとか……他のどこかを探してみようとか、思わないの」
思わず口に出てしまった。
皆がユリカに目を向ける中、グイドはとくに感情を乱すこともなく静かに応える。
「水都が一番陥としやすいからだ、お嬢さん。何なら攻めるのは君の村でも良いが」
「――っ」
絶句するユリカに、なおもグイドは言いつのる。
「そちらも元より候補には挙がっている。
より豊かな水源を保持している方を選んだだけだ。水都そのものは未だ拝んではいないが、斥候をやった際に客人を招くことができたのでな。
さて、客人。何か言うことは?」
グイドに話を向けられたミラは、セドリクの遺骸に手を置いて、静かに応えた。
「元々この子が眠るまで待っていただけよ。こうなったからには、あなたたちの好きにすれば良い」
「ミラ、何を!」
「ただし」
クルトが抗議する前に、ミラは強い言葉でそれを遮る。
「以前から言ってあるけれど、天人はあなた達とは身体のつくりが違う。
傷つければ簡単に死んでしまうだろうけど、その血は毒に近いわ。一滴も血を流させず、それでも陥とすことができるというのなら、すれば良い。
きっとこれは、水都にとってもあなた方にとってもいい機会だわ。
この子も、山に上げて霊廟におさめなければいけない。毒を保ったままこの地に弔うわけにはいかない」
「では、水都を無血で制圧した暁には、あなたが水の秘蹟の源を明かしてくれるのだな」
水都は無尽蔵に湧出する天水を思うままに利用しているが、その水源のことは水都の内でも極秘にされているらしく、クルトなども知らないとのことだった。
水が豊かだという水都を目指す者は少なくなかったが、これまでどこかの集団が大挙して攻め入ることを企てるということはなかった。
当の天人達以外に正確な位置を知る者が居ないのと、霊峰の険しさ、そして未知への畏れのようなものが人々の足を重くさせていたのだ。
だが、グイドは逆にそれこそを求め、戦士を率いて水都へと赴こうとしている。
「水都には長きにわたって秘してきたものがあるわ。
歴代の魔女だけがその扱いを知っている。この子が次代の魔女らしいけれど、このままじゃ何も教えないままになってしまうわね」
ミラがちらりとユリカを見やるが、未だ決心もついていないユリカは何も返事ができなかった。
見渡して反論が出てこないことを確認したグイドが満足げに頷く。
「では、決まりだ。エンマ」
全ての戦士へ招集をかけさせるべく指示を出そうとしたところで、
「あの、マフトマさんは……?」
おずおずと挙手し、ディーハが発言する。
僅かな沈黙の後、グイドは返事をした。
「昨晩のうちに亡くなっていた。
朝、決闘を申し込もうと天幕に尋ねたのだが、夫婦で水も飲まずものも食べず、寄り添って眠りについておられた」
「そんな……」
「おまえはよくしてもらっていたのだな。
夜に砂流しをするから後で弔いに行きなさい。あとの長は皆、私の案に従う旨を誓った。もう遮るものは、何もない」
「…………」
ユリカは背筋に雪塊を押し当てられたようなおぞましい寒気を覚えた。
ユインが昨晩水を持って行ったと言っていたことが、やけに重くユリカの胸にのしかかった。そのときは無事で、その後亡くなったのか、もしくは――
ユインの方を見ることができない。
青ざめ戦慄くユリカの肩を、ディーハが抱き寄せた。
水場の近くで耳をすませていたという彼もユインの言葉を聞いていたはずだ。横顔を見ると、今は動くなと示しているようだった。
その腕の力強さは、今だけはありがたかった。
そうして、ついに水都に攻め入る大義名分を手に入れた砂里の族長は、侵略者としての扉を開けるかのように、側近達を従えて天幕から出て眩い光の中に消えていった。
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