第15話 沈む
エンマの天幕に戻ろうとすると、入り口の脇にユインが立っていた。
ユリカ達と目が合うとふいと視線を逸らされた。嫌な予感がした。ユリカはディーハの腕から逃れ、飛び込むようにエンマの天幕に入り――
「殺してやる……ッ」
必死の形相でナイフを握りしめて族長グイドに向けているクルトを目の当たりにする。
「クルト!?」
驚愕で立ち尽くすユリカの横をディーハがすり抜け、あっという間にクルトを張り倒す。
そしてナイフをもぎ取ってクルトを拘束しようとするが、当のグイドがそれを制した。
「彼は正当な権利を行使しただけだ。やめなさい」
ディーハがゆっくりと手を緩めると、窒息しかかっていたクルトが咳き込みながら起き上がる。
「クルト……大丈夫?」
駆け寄ったユリカの手を振り払い、クルトはなおもグイドを睨む。
「私一人を討っても君の願いは成就はしない。もっと、前向きな話をしよう。我々の時間は、前にしか進まないのだから」
「戯言を……っ」
「君の先生が臨終の床にある。最後に言葉を交わす必要はないかね」
「――!」
とたん、クルトがぴたりと制止する。
少しの間、地面と自分の手を眺めた末、やがて若き天人は顔を上げ、頷いた。
天幕に老婆一人を残し、ユリカとクルトは族長に伴われてミラ達の居る天幕へと向かった。
クルトは道すがら何度も立ち止まり地面を睨んでいたが、やがて何か覚悟を決めた顔で天幕へと潜った。
先日見たとおりの光景が残っているようだった。仰向けに横たわる天人の男と、側に座って手を握る澱の魔女。二人は、静かにただ佇んでいた。
「……先生」
呟き、クルトもセドリクの側に膝をつく。
「……、クル、ト」
かすかに目を開けたセドリクが、かすれきった声を出す。
美しい容貌だが頬は窪み肌は蒼白をしている。やせ細り、手の先は骨の形をそのまま見せているようだった。
「おまえ、には……悪いことを、した」
かつて怒りにまかせて飛びかかった相手に、しかしクルトは鎮痛な面持ちで囁く。
「先生を尊敬していました。落ちこぼれていた僕を拾い上げ世話してくれた恩は忘れません。
今言えるのは、それだけです」
底に怒りを押し隠し、クルトはただ死に赴く者に敬意だけを向けた。
それが分かっているのだろう、セドリクもその建前を受け取り口の端を歪めて僅かに笑った。
「ミラ」
「ここに居るわ」
次いで、セドリクは反対側のミラに目を向ける。既に瞳に光がない。
「……どうか、自由に」
「ええ」
「思うままに、生きて欲しい。私の、大事な――、」
「分かったわ。ありがとう、セドリク」
ミラが微笑みかけると、セドリクは安心したようにゆっくりと目を閉ざす。
そして、長い息をついてから、すっと全身の力が抜けていった。
腹が不自然なまでに窪んだのを見て、それまで堪えていたクルトが震えながら嗚咽を漏らす。
ミラもしばらく目を伏せていたが、やがてセドリクの胸に掌を置いてから、離れて立ったまま成り行きを見ていたグイド達の方を向く。
「まだ、ここは少しだけ動いている。けれど、きっともう目を覚ますことはないわ。このまま沈んで、彼の命は終わる」
クルトのしゃくりあげる音が響く。
ミラはもう一度慈しむようにセドリクの躯を見ながら言った。
「前向きな話がしたいのは分かっているけれど、今日はこのまま彼を見送らせて」
「承知した、奥方。では、明日また伺わせていただく」
グイドは慇懃な仕草でミラに向かって頭を下げて見せた。
何もできずに立ち尽くしていたユリカは、そのグイドが最初から最後まで髭を蓄えた口元から笑みを崩さなかったのを見ていた。
最後にちらりと横目で見られ、その洞のような黒い眼差しに思わず総毛立つ。
「では失礼する」
ユインを伴ってグイドはさっさと出て行ってしまった。
最後まで死にゆく者への言葉がなかったことに、ユリカは後で気づかされた。
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