第14話 最後の反対派

 

 双子がお友達の天幕に遊びに行ったきり戻って来ないため、一応サナイにクルトの見張りを頼んでから、ディーハはユリカを伴って天幕から出た。


 たとえクルトが逃げ出しても、遠くに見える霊峰を目指して進むことはできるだろうが、たどり着くことは距離的に不可能だった。

 また、サナイを人質にする可能性については、かつてはサナイがユイン並の女戦士だったことを念押ししてある。


 さらにあれこれと逃げ出さないように言いつのり、「アニとユニが泣いちゃうから」と言ったところでクルトが根負けして出て行かないことを約束したのだった。


 そうしてユリカに目立たないよう外套を被せてから、ディーハはユリカの手を引いて最後の反対派、マフトマの天幕へと赴いた。


「こんちは、マフトマさん」


 そこは、エンマの天幕以上に侘しい空間だった。


 痩せた老夫婦が褪せた敷布の上に小さく佇んでいるのみ。

 先ほどディーハがマフトマの話の中でサナイを見た理由がすぐに分かった。彼らは同世代の戦士だったようだ。


 老夫婦の片割れ、深い皺の奥に静かな瞳をした老翁がマフトマだった。


「この子、おれのお嫁さん」

「違うけど」


 へらへらと笑いながら肩を抱かれたが、すぐさま振り払うユリカ。

 夫婦の前に行き、膝を突いて目線を合わせる。


「あの……ユリカといいます、山の、ルンノの村の者です」

「それはそれは、遠くからよく来なすった」


 差し出された手を握ると、老人はユリカの掌の傷痕をなぞって感心したように溜息をついた。


「良いことをもたらすおまじないですなあ」


 サナイも同じようなことを言っていた。

 生まれ出た赤子が幸せに生きられるための印なのだと。


 谷や水都ではむしろ呪いの証のようなそれを、ありがたそうになぞられるのは色んな意味でくすぐったかった。


 そうしてしばらくの間老夫婦にもてはやされていたが、もどかしくなったユリカがやんわりと手を引いて話を始める。


「マフトマさんは……どうして、水都を攻める話に反対をなさっているんですか?」

「知れたこと」


 老翁は苦笑した。しわくちゃの顔に、寂しい色が一杯になる。


「もう連れ合いともども長くない身だて。砂で死ねたらそれが本望」

「死…………って」

「ひとさまの水を奪って、それを飲んで生きるくらいなら、ここで乾いて死ぬ方がずっと良い」


 すると横からディーハが静かに言葉を継いだ。


「……水が涸れそうなんだ。

 砂里はいくつも水が湧き出るところを知ってるけど、それのどれもが今涸れてる。

 最後に残ったここも、だいぶ不安定でいつ涸れるか分からない。

 だから、水都の水を獲ろうって話になった」


「むろん、若い衆が子らの未来のためにやっとるのは分かるが、それでもわしらのように反対する面子も居ないと、砂里が砂里でなくなるだろうよ。

 奪って乗っ取って、それじゃあどこかの乱暴な狼主と変わらんじゃあないか」


 老人は傍らに置いてある古い剣を見やる。


「今日か明日か、あの若造が決闘をしにくるだろうな。目に物言わせてくれるわ」


 口で言っている言葉と裏腹に、マフトマ翁の表情は諦観のそれをしていた。奥方は何も言わず、ただ彼の肩に寄り添っている。


 どうしようもなく、胸が痛んだ。ユリカは何も言えなくなった。


「おまえがうちの倅だったなら、賛成していたかもな。

 我が子が支族の長として残るというならな。

 だがお前は自由の子だ。砂里が嫌ならどこへなりとも行ける。だから、儂はここに残って干からびて死にたい」


「おれもマフトマさんとこの子供だったら嬉しかったな」

「嫁さんを大事にしろよ」


 それはまるで、今生の別れのようだった。


 その後少しの言葉を交わしてから、ユリカはディーハに伴われてマフトマの天幕を辞した。


 砂里の中での天幕の位置からしても、マフトマは砂里の中で相当軽んじられていることが窺えた。

 子をもうけることができず周囲から妾を勧められたが、全て突っぱねて夫人と添い遂げるという暮らしぶりは、砂里としては蔑みの対象にすらなるらしい。

 滅びと背中合わせの世界で生きている彼らにしてみれば、子孫を残すということは優先事項であり、不義ですらも場合によっては歓迎されることもあるのだという。


 とぼとぼと帰路につく途中、ユリカは居ても立っても居られなくなり、天幕の輪から外れて砂漠に駆け出す。


「あ、ちょっと、ユリカちゃん」


 当然ディーハが追いすがってくるが、構うことなく眼前の砂の丘を登る。それを乗り越えたあたりで、ディーハに二の腕を掴まれた。


「駄目だ、これ以上行ったら本当の追っ手がかかる」


 ちらりと背後を肩越しにみたディーハが囁く。

 おそらく他の戦士達からも見られているのだろう。それでもユリカは構うことなく前に進もうとするが、ディーハに強く引き寄せられる。


「もう、やだ」


 熱い砂に膝をつき、首を何度も横に振る。

 乾きすぎた世界で、涙は出なかった。


「わたしも、あんた達の事情なんて、知りたくない。これ以上知って、分かりたくなんか、ない」


 嗚咽を堪え、ユリカは歯を食いしばる。


 水都を攻めるという無慈悲な戦士達なら、いくらでも憎み糾弾できる。

 だが、妻を、子を生かすために水を求めている人々を、生来水に困ったことのないユリカが大上段から責めることなど、できなかった。


 水が無くなるということにどれだけの苦悩と恐怖があるのか、ユリカには分からない。その分からないということ自体が恥ずかしく、情けなかった。


「……そうだな、ごめん」


 途中で脱げた外套を被せ直し、ディーハはユリカを横抱きにして抱え上げた。

 そして砂の丘を下り、様子を窺っていた他の砂里の戦士に何でもないと会釈してからエンマの天幕へと戻った。


 道すがら、ミラとセドリクの居る天幕の横を通る。

 見張りが立っており中の様子を窺うことはできない。彼らがいったい何を考え、何を族長に明かしたのか、知る術はなかった。

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