第10話 砂里

 どこまでも続く砂漠をどこまでも進むと思いきや、目的地の砂里の本隊は砂漠に入り少し進んだところにあった。


「これが……砂里」


 波のように盛り上がる砂の丘陵を一つ乗り越えると、その先に天幕の群れが佇んでいた。

 野営地のような布を被せただけの簡易のものではなく、骨組みがあり建物のようにしっかりと空間を作り出している。


 整然と行動していた砂里の戦士達が、帰るべき場所を視認して少し気を緩めたようだった。

 ユリカ達のそりを曳いている馬を導いていたエンマも、心なしか足取りが弾んでいた。


 砂里の本拠に到着した後、ユリカはクルトと再び離された。


「クルトに乱暴なことをしないで。本当に弱ってるの」


 クルトをどこかへ連れて行くエンマにそう言ってみたものの、彼はユリカを一瞥しただけでそのまま行ってしまった。


 砂漠に十数個の天幕が集まっている中、戦士達はエンマの号令で散会し、それぞれの家たる天幕に戻っていった。


 ユリカはユインに連れられ、中央に近い天幕の一つに通された。


 砂地に布を敷き、一つの大きな木柱を杭のように中央に立てている天幕の中。

 柱には鎖が繋がっており、二人の人物がその先の枷に捕えられているのが見えた。


 中年ほどの男女だった。

 黒い髪をした女と、白髪の男。

 砂里の民でないことは一目で分かった。

 両者ともに肌は白く、若々しさはなかったものの麗しい容貌をしていて、天人の特徴を備えているように見えた。


「あとで、あの坊やも来るから手当でもしてやって。私らが触っても毒になりそうだしね」


 ユリカも同じように柱に繋いだ後、ユインは冷ややかな眼差しで男を見下ろしてから出て行った。


 天幕の内が静まりかえる。

 天幕が風で鈍くはためく中、男の嘆息のような息づかいがやけに響いていた。

 白髪の男は横たわり、女はその横に付き添っている。

 年老いた天人ふたりの駆け落ち――その言葉が不意に浮かび上がる。


「あなたが……ミラ、さん?」


 小さく呼びかけると、女が顔を上げて小さく頷いた。


 美しい女だった。

 長い黒髪がさらさらと揺れる。父親のカドーロと同じくらいの年頃だろうか、クルトによると相当老いているとのことだったが、それほどの年齢には思えない。

 黒い瞳とその奥の深淵のような光は、魔女の名にふさわしいようにも見えた。


「あなたは、谷の子?」

「はい。村長カドーロの娘、ユリカです」

「そう」


 それだけで、水都の魔女ミラは再び白髪の男――おそらくセドリクなのだろう――に目を落とす。


「攫われてきたの?」


「谷に、クルトが来ました。

 あなた達を探しに。うちの村の水門のところに隠れていて、わたしが見つけたんです。

 話を聞くと、魔女ミラとセドリク先生という人を探しているって。

 でも、クルトは……その後砂里の人たちに捕まって、わたしと一緒に、ここに連れてこられました」


 心境を整理するかのように、一気に語るユリカ。

 つくづく奇妙なことばかりが続いていて心の大半が麻痺しているような気がした。


 つい二日前まで、天人のなりそこないの村娘として水都と天人に要らぬ恨みを抱きながら退屈で幸せな暮らしをしていたのに、今やなぜか砂里の天幕の中に囚われている。

 

 どうすることが最適解なのか、判断がつかなくなっていた。


「わたしは、水都から召喚状を出されました。次の新月までに上がって魔女になるようにって」


 それでも、ミラは眉一つ動かさなかった。

 ただ横たわりどこか苦しそうにしているセドリクの腕に手を触れ、そっと摩っていた。


 あなた方も攫われてしまったんですね、クルトが心配していたんですよ。そう言おうとユリカが口を開いた瞬間――


 天幕に最後の虜囚が運び込まれてきた。


 エンマに抱えられて入ってきたクルトは、布敷きの地面に下ろされた途端ぐらりと揺れる。


「クルト!」


 だがユリカが支える前に、憔悴しきって真っ白な顔色をしているクルトは、どこに残していたのか分からない強さでセドリクに飛びかかった。


 突然の出来事に周囲が何もできずにいると、クルトはセドリクの襟首を掴み、必死の形相で彼を揺さぶる。


「なぜ!」


 やがて拳を握りしめるクルト。


 音楽と詩を愛でると噂されている麗しい天人に似合わない光景。

 傍らのミラは止めるかと思いきや、ただもの悲しげな目をするだけだった。

 ユリカが何とか引きはがすと、なおもクルトは悲痛に叫んだ。


「なぜ、水都を売るような真似をしたのですか!

 応えて、こたえて下さい――先生!」


 その呼びかけが届いたのか、やがて骸のように横たわっていたセドリクが僅かに身じろぎをした。

 ミラが手を貸しゆっくりと上体を起こす。


 白い髪をした、ユリカより10か15ほど齢を重ねたくらいの男だった。

 血の気を失った頬はひどく白く、眼窩はくぼみ、美しい色の瞳は、しかし世界を呪うかのような光を抱いていた。

 

 何度か咳き込んだ後、セドリクはかすれた声を発する。


「あんな虚構と欺瞞の塊など、滅びれば良い。これまで驕慢を尽くした報いだ。蹂躙され、征服され、自らの血に溺れれば良い」


 ぞっとする響きが天幕に満ちた。まるで呪いのようだった。


「なんてことを……」


 わなわなと震え呟くクルト。

 なおもユリカの腕を振り払いセドリクに掴みかかろうとするクルトを、エンマがようやく制止させた。

 流石に抵抗できずに子猫のように抱え上げられた。


「同室は無理なようだな」


 それからちらりとユリカを見やってきた。

 来るかと問われたので、是非もなく頷き立ち上がる。そしてクルトに駆け寄ろうとしたが――


「おぶっ」


 失念していた鎖にはばまれて盛大に転倒する。

 とたん、ぷ、とエンマが噴き出す。


 布の下は砂なのでさほど痛みはないが、顔から思い切り転んだため色んなショックでしばらく起き上がれないユリカ。

 何とか身を起こすと、頭上でなおもエンマが笑いを堪えて肩を震わせていた。

 抗議の眼差しで見上げると、朗らかな顔で「失敬」と詫びられる始末だった。


 先ほどまでの緊迫した雰囲気が一気に霧散したようだった。

 結局枷を外されたユリカは別の天幕に招かれることとなった。


 ◆◆◆


 そこはエンマの支族の住まいだった。


 内側は色とりどりの布で飾られ、虜囚用のものとは異なり、棚のような家具や寝具なども据えられている。

 吊された明かりが柔らかい光を放ち、無尽の砂の上に居るとは思えないほど快適な空間になっていた。


 エンマの祖母という老婆が二人を迎えてくれた。


 他に幼い双子の子供が二人のみ。広い天幕であと数人は十分許容できそうだし、調度を見る限り実際に多人数で使うことを想定されているようだが、今その天幕に居るのはそれだけだった。


「よう来なすった。ほんにきれいなお嬢さん方じゃ」


 日に焼けシミにまみれしわくちゃの顔をした、優しそうな老婆だった。

 ユリカを見るなり孫がようやっと嫁を連れてきたと歓喜していたが、すかさずエンマが「ディーハのだ」と訂正し、さらにユリカが「違います」とさらに否定する。


「お客さんが来たのなら、良い物を作らないとねえ」

「婆ちゃん、客じゃなくて捕虜だ」

「そうかいそうかい、腕によりをかけないとねえ」

「…………」


 夜も深いというのに、老婆はおもむろに立ち上がり奥の調理台へと向かおうとする。


「あ、あの、わたしたち食事は済んでますから……」


 ユリカが慌てて言うと、老婆はしばらく挙動を停止してから、やがてゆっくりと元の場所に座って丸くなった。


「祖母は若干もうろくしているが、危ういことはない。

 あの子等は別の家によこしておく」


「やだ、お客さんと寝る」

「うん、お客さんと寝る」


 女児の双子は寝入りを起こされて不機嫌だった。だが何を気に入ったのかユリカとクルトに一人ずつがっちりとしがみつく。


「分かっているとは思うが、くれぐれも、彼らを人質にして逃げ出すことは考えるな。

 道も分からんだろうし、迷い干からびて死にたいなら一人で死ね。

 あと、俺が居ないときはディーハをここに置いておく」


「あの悪戯坊主に先を越されるなんて、お前はいつになったら嫁を連れてくるんだ。

 この前祭りに誘ってくれた娘さんとはどうなったんだい」

「……20年も前の話を」


 こちらの会話が分かっているのかいないのか、老婆は的確に茶々を挟んでよこした。

 そしてエンマは気まずそうにしている。


 それは、どこにでもある家庭の光景だった。

 だが、けして和んで笑っていい状況ではない。ここは砂里で、彼らは天人と水都に害を及ぼすつもりの人々なのだ。


 どういう顔をしていればいいのか分からなくなって、ユリカは俯く。

 金髪を双子にいいようにされていたクルトの方も、やんわりと振り払って部屋の隅まで這いずって逃げて蹲っている。


「そんな顔をしなさんな。幸せが砂に逃げるよ」


 不意に、老婆が側に来てユリカの手に触れた。


「上を向いて、空を見て」


 柔らかくて、温かい手だった。砂の世界で長く生きてきた歴史を思わせるいくつもの皺とシミ。それらすらも、勲章のようだった。


「そうすれば、きっと幸せな花嫁になれる」

「いえ、花嫁ではないんですけど……」


 どういう顔をすればいいか結局分からないまま、とりあえずユリカは溜息をひとつついて、老婆の手の導くままに天を仰いだ。

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