第9話 砂の世界へ
フゴ、と息が詰まって、ユリカは急激に覚醒した。
「ふぇ……!?」
見慣れぬ光景が目に入る。
灌木が点在しているが、水気は乏しく乾いた風が吹いている。
口を開けて寝たのか、喉が酷く渇いた。目もかすんで痛む。
暫時困惑するが、やがてディーハの背に負われていることを思い出す。
けほけほと空咳をすると、眼前のディーハがくすくすと笑った。密着している背から振動が伝わってくる。
「寝ていいとは言ったけど、まさかイビキまでかくとは。大物だ」
「……」
背負われている身で何も言うこともできず、ユリカは苦し紛れに話題を逸らす。
「……クルトは?」
「あっち。ここからは、馬だ。きみも」
ディーハが身振りで前方を示した。
黙々と歩く砂里の民の隊列が見えた。先頭の方に三頭の馬が従っている。
もともと麓で放していたのを回収でもしたのだろうか。足の太い荷役向けの種のようで、木製のそりを着けて砂里の斥候達の荷物と天人の捕虜クルトを載せて曳いているようだった。
野営地を撤収した後、二十人弱の砂里の民は日陰で静かに休んでから、日が傾いてきた頃、下山に向けて迅速に隊列を組み行動を開始した。
麓から谷まで長年少しずつ踏み固められてきた安全な道などお構いなしに、戦士達は真っ直ぐに山を下っていった。
途中まではユリカも歩かされていたのだが、やがて足に限界が来てディーハの背を借りる羽目になったのだ。
離ればなれになっていたクルトは他の天幕に置かれていたらしく、こちらは砂里まで虜囚としてそれなりに丁重に扱われていたようだった。
下山の際も背負子のようなものに乗せられているのが見えた。
それでもけして回復しているわけではなく、疲弊し衰弱したまま命だけは繋がっているといった状態だった。
いっそう白くなった顔色に不安が募る。
「あれだけ騒がしいと、将来きみと結婚する男は大変だろうなあ」
「あ、あんたにそんな心配される筋合いはないわ」
唐突にそんなことを、声が上擦ってしまう。互いの身体が接触していることを意識してしまい、落ち着かない。
砂里の戦士はユリカの想像以上に頑強だった。
天人とは逆の意味で、自分と同じ生き物だとは思えないほどだった。
人一人を背負っているというのに、ディーハは疲れた様子もなく行軍に従っている。
既に山を下りて相当の距離を歩いている。
風が弱ければ谷の近くからも見下ろすことのできるラミレ砂漠は、実際に降りたってみると果てしなく広大で、ぐるりと見渡すだけで方向感覚が狂う。
そんな中で砂里の民は星をたよりに行軍しているようだった。
「……でも、どうしてわたしによくしてくれるの」
「きれいな子だから。ルンノで見かけたときから、きれいだなーと思ってた」
「そう……」
それが単純に見目の美しさを示しているわけではないことは、日頃容姿を褒められることに慣れていないユリカでも何となく分かった。
美しさだけを論点にするならば、ユリカなどよりともに斥候をしていたユインの方が全てにおいて格段に綺麗だと断言できるくらいだ。
おそらくは、自分と違う世界で自分にないものを持っている、そこが羨ましくまぶしく見える、そういった意味合いなのだろう――かつてユリカが天人に抱いていた印象と同じように。
小走りで先頭まで到達したディーハが、そりにユリカを下ろす。
横で丸くなっているクルトは僅かに顔を上げ、ユリカを視認するが、気息奄々としており、やがて再び眠りに落ちるように瞼を閉ざした。
「クルト、大丈夫……?」
ユリカがその指先にそっと触れると、ひどく冷たい。
重要な捕虜だが、死んだら死んだでそれまで、といった程度の扱いのようだ。
ユリカはクルトに寄り添い、できるだけ彼の身体を温めてやれるように位置取った。
ユリカもクルトも今は縛めを解かれ枷もされていない。
隙を見て逃げたとしても逃げ切れることができるはずないし、自力で水都に戻ることなど不可能なのが明らかなためだ。
「わたしが綺麗なんて言ってたら、天人の女の人達を見ると目が潰れるかもね」
「それは楽しみだ」
ユリカが虚勢のようにそう言うと、去り際のディーハはからからと笑った。
それはそれで、ユリカには少し面白くなかった。
隊列は静かに着実に進んでいく。
霊峰の加護が完全に失われ、僅かに生えていた草も姿を消して砂が一面を占めている。どこまでも続く砂の地平線と、それを覆う漆黒の夜の空。
「砂の、世界」
呟き、感嘆する。
霊峰の谷間、世界の乾きから隠れて密やかに満たされて暮らしていたユリカには、全ての光景が初めて見るものだった。
そりから身を乗り出して手を差し入れてみたくなるほど、砂の大地は美しいほどにただ乾いて整っている。
砂漠の星天は、谷から見るのと変わらず綺麗だった。
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