第8話 砂里の野営地・2
翌日。ユリカの複雑極まる心中をよそに、嫌みなほど晴れ渡った美しい日だった。
不毛な山肌の窪地に突如現れた砂里の民の野営地。
捕虜の身になったユリカは、天幕の柱に縛り付けられていた。
眠れるはずもなかった。天幕の縁から覗く朝の光は眩いが、ユリカは緊張と睡眠不足で朦朧としていた。
そんな中、砂里の民が何やら慌ただしく準備をしているのが天幕ごしに聞こえてきた。何かのかけ声や、指図する声。
その中にディーハの声も聞こえた気がした。
その後ユリカの天幕にも砂里の戦士達が訪れ、数人がかりで天幕が手際よく解体されていった。布はまとめられ、柱は揃られて窪地の目立たないところに留め置かれた。
両腕の拘束だけになり、縛り付けられていた柱が男達にかつがれて行くのを見送るうち、ふいにあたりに人の目が少なくなった気がした。
今なら、逃げ出せるかもしれない。そう思ってユリカが立ち上がりかけると、
「おはよ」
突然背後から肩を叩かれる。
「ひゃ……」
びくりとして見上げると、ユリカをここまで連れてきた若い砂里の男、ディーハが身をかがめて笑っていた。
肩に置いた手は軽いように見えるが、実際にはびくともしないほどの力を込められていた。
動くなと暗に命じられているようだった。逃亡の芽を完全に摘まれてしまった。
「いったん砂里に戻って、本隊と合流するよ」
本隊という言葉がひどく物騒だった。
ユリカが顔を顰めていると、それを察したディーハが慰めるように付け足す。
「きみの谷は、たぶん大丈夫……だと思う」
昨夜聞いたときよりも不安な言葉が加わっていた。
乾いた世界で奇跡のように緑を誇るルンノ。
林檎を育て山羊を飼い、山に挟まれた狭い世界で幸せに満ちた暮らしをしている人々。
皆、日々を穏やかに過ごしている。
そんなところに、この屈強な戦士達が武器を携えて攻め入ってきたら。きっと簡単に蹂躙されてしまうだろう。
「大丈夫って……」
もちろん直接言及された水都のことも心配ではあったが、ユリカは水都がどのようなものか知り得ないので想像力がうまく働かなかった。
「……お父さん、心配してるだろうな」
小さく呟くと、余計に心がぎゅっと締め付けられる。
水都への召喚状を受け取ったその晩から姿を消したとなると、逃げてしまったと思われかねない。
水都から咎を受けて水を止められてしまっては小さな村などひとたまりもない。
六日後にはその期限がきてしまう。
だがこの砂里の戦士達はその水都に攻め入るなどと言っている。
つい先日までのどかな村娘として気ままに生きていたというのに、突然複雑すぎる事情の中に放り込まれてしまった。
自分がどうすべきか、何をするのが最善か、いくら考えても結論が出ない。
逃げだそうにもこうしてすかさず押さえつけられる始末。
そもそもうまくこの場を抜け出すことができたところで、正直なところ谷までを無事に戻る自信もない。
ユリカは、唇を噛んで周囲の成り行きを見守ることしかできなかった。
あれよあれよという間に、砂里の野営地はまるで最初から何もなかったかのように片付けられ、ただの窪地に戻った。
その場に座り込み何もできずそれらを見ていると、不意に他の戦士達と共に作業に従事していたユインが近づいてきた。
その手には、木の椀が握られていた。
「飲みな」
張りのある声だった。
行商人を装っていたときよりもずっと、強く生気に満ちているようだった。
「うちらの水で一番マシな上澄みを持ってきてやった」
椀には僅かに濁った水があった。
一瞬躊躇うユリカ。少なくとも、自分の村では飲用に値するとは言えないような代物だった。
水を目の前にすると、昨晩から飲まず食わずで喉が酷く渇いていたことを思い出す。
こんな色の水が飲めるのだろうか。毒が入っているかもしれない……
そんなことを考えてしまったが、すぐに先日自分がクルトに向かってやらかした行動と同じようなものだと思い至り、ユリカは覚悟を決めてそれを受け取った。
そして、値踏みするような目で見ているユインの前で椀に口をつけようとしたとき――
ひょいと再び手が伸びてきて、椀が奪われた。
「え?」
ただの意地悪かと一瞬思ってしまったユリカだが、すぐさま赤いものが差し出されたことに気づく。
「あ……」
「やるよ」
それは、ルンノの林檎だった。
今年はまだ林檎の収穫には至っていないが、毎年村の外れの氷室の中で保存しており、味はいささか落ちるものの年中それらを食べることができる。
きっと、行商と偽って村を訪れている間に手に入れたのだろう。
かすかに香るそれを受け取ってぽかんとしていると、ユインは奪った椀を仰いで一気に中身を飲み干した。
「それなら、食べられるだろ。嫌な顔でもしたらこっちを頭からかけてやろうと思ってたんだけど」
「……ありがとう」
ユインは、他でもないクルトに怪我をさせた女だ。それでも物を貰えば礼を言うという生来の性質がでてしまった。
敵のような相手に素直に礼を言ったのがおかしかったのか、ユインはあきれ顔で肩をすくめていた。
ちっぽけな誇りより空腹と生存本能が勝った。
「……いただきます」
小さく呟いて、ユリカは縛られた両手で村の果実を口に運んだ。齧ると果汁が滲み出し、口中に広がる。
物心ついて以来ずっと馴染んでいる味だった。
こんな状況だというのに甘くて酸っぱくて、とてもおいしくて、なぜだかとても泣きたくなった。
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