第7話 砂里の野営地

 風が強い。月光の下、低空の霧雲がやけに早く山肌を滑っていく。


「死にたくなかったら、暴れないで」


 そう言って、クルトを肩で担いでいるというのにまるで重さでも感じていないかのようなユインは、崖に向かって足を踏み出し、直後、音もなく姿を消した。


「怖かったら、背中にくっついて」


 言いながらユリカを背負い直すディーハ。ユリカは目の前で起きた出来事がにわかには信じられず、呆然としてしまっていた。


「あと口は閉じといた方が良い、噛む」


 言うや否や、ディーハもユインと同じように気軽に、まるでちょっとした石でも飛び越えるくらいの軽さで、山肌へと躍り出た。


「ひっ……」


 一瞬の浮遊感の後、急激な負荷が断続して訪れる。


 ディーハは何度も軽く飛びながら、崖にも等しい霊峰の山肌を滑り降りていた。

 予期せぬ方向に断続的に振り回され、ユリカは負ぶさるように縛られている手でディーハの首にしがみついた。


「そうそう、役得役得……じゃなかった良い子良い子」


 鼻の下を伸ばしているような怪しい声。ユリカは思わず抗弁する。


「な、なによ役得って……」

「言葉の通りだけど?」


 ユリカを背負いながらも、ディーハは危なげなく滑降を続けていた。

 特殊な靴でも履いているのか、荒い砂地を滑るようにして勢いよく下っていったのだ。


 ユリカは次第にディーハのその背の広さと暖かさが気恥ずかしくなってくる。

 男の黒い髪がなびいてユリカの頬をかすめる。

 こんな状況なのに、心のどこかでどきどきしてしまっている自分に気づき、ユリカは自己嫌悪に陥ってしまう。


 霊峰の山肌は乾いた岩と砂でできている。

 緑の気配は乏しく、水気もない。


 このまま麓にまで降りるのかと思いきや、ディーハとユインが立ち止まったのは中腹より少し下った程度の場所だった。


 いつもなら高みから眺めるだけの麓がやけに近く見える。


 人の営みの明かりは見あたらず、ただ星月の明かりでぼんやりとくすんだ裾野が広がっているのが見えるだけだった。

 二人が向かったのは、そこから少し斜面を真っ直ぐに進み、小さな尾根を越えた向こう側だった。


「わぁ……」


 思わず声を漏らすユリカ。聞きつけたディーハがふふんと笑った。


「ようこそ、砂里さりの野営地へ」

「砂里……」


 僅かに窪んだ土地があり、そこにはいくつかの黒い天幕が張られていた。


 それぞれ部屋一つ分くらいの大きさで、外には明かりはなかったが、天幕の合間から柔らかい光が僅かに漏れ出ていた。ルンノの谷からは見えない位置で、こんなところに人が暮らしているとは思いもしなかった。


 天幕の近くまで行ってからユインが指笛を鳴らすと、天幕の一つから男が出てきて彼らを迎え入れた。


「言われた通り、天人を連れてきた。もう一人は、谷の長の娘。水都に召喚されるんだと」


 言いながら、ユインは肩に抱えていたクルトをすとんと投げ落とす。


 天幕の中は風が遮られ明かりがあるものの、床には何も敷かれていない。縛られたまま無様に落ちたクルトが苦しげに呻く。


「クルト!」


 クルトよりは若干紳士的に下ろされたユリカは身動きできないながらも何とかクルトの方ににじり寄る。

 見ると、地面の砂利に押しつけられたせいか腕や頬に細かい傷がいくつできており、血が滲み始めていた。クルトの顔は血の気を失って真っ青になっている。


 つい昨日まで夢に見るほど羨み妬んでいた天人だが、こうなってはそんな気持ちも吹き飛んでしまう。

 ユリカはクルトを背にしてユイン達をきっと睨み上げる。


「あんた達、何のつもりなの」

「後ろの天人に用がある」


 短く応えたのは、ユイン達を天幕の中に引き入れた男だった。

 ユインやディーハよりも年かさで、はっきりと、戦士と分かるような逞しい身体をしていた。


「砂里が、天人に何の用があるのよ」


 ユリカはなおも食いつく。実際のところは虚勢を張っておかないと恐怖で押し潰されそうになっていたのだが。


 砂里は、山脈の東側に広がる砂漠に古くから根付き、砂と共に生きている民の総称だった。


 東の果てまで広がるという砂漠は一見不毛の地であるかのように見えるが、ごくまれに水の湧出す地点が現れる。

 砂里はそれらを逃さず把握し場所を移しながら、この乾きの時代を生き抜いている。そう語っていたのは他でもない行商人としてのディーハだった。


 ディーハとユイン、そしてもう一人の男が日に焼けて逞しいのも砂里の民であるというのなら納得のいく話だった。

 彼らは水の在処を知っているとされ、それを奪おうとする輩と戦いながら生存を勝ち抜く戦士達の支族の集合体なのだ。


「言わずとも分かるだろう」


 男は足でユリカを押しのけ、痛みと元よりの衰弱で身体を丸めて喘いでいるクルトの側に屈んだ。


「名はクルト、か。お前に正したいことがいくつかある。一緒に来てもらう」


 そう言って、今度は男が軽々とクルトを担ぎ上げた。


「エンマさん、おれらは休んでいい?」

「ご苦労だったな。近いうちに下へ戻る。気を抜くなよ」


 男はディーハ達の上役のようだった。

 行商人を装いユリカ達を謀った二人はエンマという戦士の男に会釈してから天幕を出て行こうとする。

 だがその直前でディーハが足を止め、振り返った。そして顎でユリカを指し示し、言った。


「その子どうします? 絞める?」


 絞める。言外に示された意味を理解したユリカが鼻白んで戦慄いていると、男は薄明かりの中でユリカをしばらく見下ろした後、嘆息した。


「留めておけ。少なくとも俺達よりはこれの世話ができるだろう」

「了解っと。おいで、ユリカちゃん」


 そう言ってさしのべられたディーハの手を、ユリカは怖くなって取ることはできなかった。

 その反応が分かっていたのか、ディーハは苦笑してユリカを横抱きにして天幕を後にした。


「怖かった? ごめんな」

「……」


 外に出ると、再び強い風が襲いかかってくる。

 ディーハは優しい声で話しかけてくるものの、ユリカは喉が詰まって何も返事ができなかった。


 砂里の人間がなぜこんなことをするのか。

 そしてこれからどうするつもりなのか。


 詰問したいのに、恐怖で萎縮した喉は声を発することができない。


「じゃ、姐さんお疲れ様。しんどいでしょ、ゆっくり休んで下さいよ」


 他方へ向かおうとするユインは振り向きもせず、手を軽く上げてから去って行った。

 その後、ユリカを抱えたディーハは、野営地をさらに奥へと進んだ。


 窪地に設けられた砂里の野営地は、急ごしらえのようなものでもなく風に踊らされることもなくしっかりと根付いているようだった。

 ディーハが向かったのは奥の一つだった。


「どうした、それも天人か」


 見張りなのか、外で剣を佩いて立っていた男がディーハに呼びかけてきた。

 ディーハはひょいとユリカを抱え直し、男に見せるように示す。


「戦利品」

「は、どうせエフェメラみたいになるんじゃねえの」

「かもな」


 ディーハとユリカは天幕に入った。


 明かりが灯っており、一つの大きな木柱を杭のように中央に立て、広い布を被せ空間を確保している。風で揺れているものの、吹き飛ぶような不安定さはなかった。


 それでも、得体の知れない男と薄暗い空間の中で二人きりというのは気分のいいものではなかった。

 地面には、厚手の布が敷かれている。ユリカはそこに下ろされたが、縄を解いてくれる様子はなかった。


「あの場で騒がれたら面倒だから連れてきちゃったけど、きみは……多分、谷に帰れるよ。終わったら、きっと」

「何が終わったらなの」


 ディーハはそれに応えようとしなかった。嫌な予感だけが増していく。

 ユリカは追いすがるように質問を重ねる。


「エフェメラって、何」

「……おれらの里の水場に居た虫だよ。夜にゆったりと飛ぶのがすごく綺麗なんだ」

「それが、何なの」


 ディーハは少し言いにくそうにもごもごとしてから、小さな声を発した。


「水場から捕まえて持って帰ると、すぐに死ぬ。

 次の日の朝には、もう虫かごの底で干からびてる」


 絶句するユリカ。

 次の朝には死んでいるかもな。この男は仲間に声をかけられてそんな意味の返事をしたのだ。


「天人は、水都から離すとすぐに弱ってくるから、エフェメラみたいだって言われてる」

「……クルトは」

「元々弱ってたみたいだし、どうだろうな」

「何で……なんで、そんな酷いことをするの」


 ユリカが去ろうとするディーハの服を掴んで追及すると、ディーハは少しだけ視線を泳がせた末、ぽつりと呟いた。


「水都を、陥とすんだ」

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