第6話 侵入者

 夜半。ユリカは宵闇に紛れて家を出た。

 

 開閉の際に戸が軋んだが、聞き咎められることはなかった。

 もしかしたら気づかれてはいるかもしれないが、ユリカのその行動を止める気配はなかった。


 月の明かりを頼りに、ユリカは走った。冷たい風を浴びながらも必死で崖沿いを進み、息を切らしながら貯水池へとたどり着く。

 

「クルト!」


 目当ての人物は水門の横にくずおれていた。


 駆け寄ったユリカが抱き起こすと、麗しい天人の少年の身体はひどく冷たかった。かすかに睫が震えていることから生きていることだけは分かったが、相当衰弱しているように見えた。


「これ、村に置いてあった天水。赤ちゃんが産まれたときとか、皆が大怪我したときに特別に飲むようにしてるものだけど……」


 そう言って、村長の家で厳重に保管してあった小瓶を口元に差し出すと、虚ろな表情の中に疑わしげな色を示すが、やがて諦めたようにそれに口をつけ、飲み下した。


「これも。ちゃんと食べて。このままじゃ死んじゃう」


 自身の上着を被せた後、携えていた籠からありったけの果物を出すユリカ。

 ナイフで手早く皮を剥いて細かく刻み、口にねじこむ。


 血の気を失い白すぎる顔をしたクルトは、やがてもそもそと口を動かし、口内のものを嚥下した。


「まずい……」


 小さくかすれた呟きだったが、ユリカは安堵し苦笑する。


「減らず口が叩けるなら、何とかなりそうね」


 奇跡の水が効いたらしく、しばらくするとクルトの顔色が少しずつ元に戻ってきた。

 自力で起き上がることができるようになってから、ユリカは彼を壁際に凭れさせ、ランプを灯してから改めて向き直った。


「クルト……わたし、水都に喚ばれた。たぶん、魔女として」

「!」


 ユリカの言葉でクルトは驚いて身を乗り出す。バランスを崩して前のめりになるクルトを支えるユリカ。彼の身体は酷く細く、軽かった。


「どうして、君が……」

「昔も一度喚ばれたことがあるらしいの。そのときはお父さんが断ったんだけど……。たぶん今度は、そのミラっていう魔女が居なくなったからその代わりなんだと思う」

「評議会のやつら、なりふり構わなくなってきたな……」


 忌々しげに呟くクルト。


「それで、君は行くつもりなのか」


 顔を上げたクルトにそう問われ、ユリカは少し躊躇った末に頷いた。


「拒んだら村のみんなに類が及ぶぞって言われちゃった」

「なんて卑怯な……」


 わななくクルト。

 当初はいけすかない少年のように見えていた彼は、今となってはユリカの今後の事情を一番理解し、慮ってくれている人物かもしれなかった。


「村に水が貰えなくなったらいけないから……七日後に水都に上がることになったの。

 ……クルトは、どうする?」

「魔女ミラと……セドリク先生を探す。彼らが見つかれば評議会の暴走も収まるはずだ」

「でも、あてはあるの?」


 クルトは悔しそうに首を振る。


 そうして崖間の貯水池に静寂が訪れる。何とかして言葉を紡ごうとするものの、ユリカの唇は動いてくれなかった。


 そんなとき――


「そのセドリクって天人に会わせてやろうか?」


 不意にそんな言葉が舞い込んできた。


「ひっ……」


 ユリカは文字通り飛び上がる。


 いびつに脈動する胸を押さえながら振り向くと、貯水池の入り口、崖の合間に一人の男が立っていた。


「あなたは、どうして……!」

「確か、前にも言ったはずだよ。お仕事、って」


 身構えるというより立ち尽くしてしまったユリカに向かって、行商人の男ディーハは、目尻を下げて不敵に笑って見せた。


 ◆◆◆

 

 許可を得た村の者と天人以外が踏み入ることを禁じられている貯水池に、日に焼けた行商人の姉弟は厚かましく入ってくる。


「な、何をするつもりなの」


 驚きでろくに抵抗できないユリカの横をすり抜け、クルトの二の腕を掴み引き上げた。

 ユリカが解こうと掴みかかるが、敢えなく押し返される始末だった。

 そして侵入者は奥の貯水池を眺め、ヒュウと口笛を鳴らす。


「これが天水の澱ってやつ? 綺麗な水じゃないか」

「天人さまにへつらっておこぼれで果物作ってのうのうと生きてるってわけね。ずいぶん幸せそうだこと」


「あなた達、どうしてここのことを」


 昼間の出来事の後、天人を拝むことがてきて良かった、これで帰りますねと揃って谷を出て行ったはずの二人は、村に居たときのような人好きする容貌をしてはいなかった。


 目尻を下げて人なつこく笑う弟も、しっかり者の気の強そうな姉も、今はやけに強い瞳をしていた。

 身のこなしも鋭く、まるで別人のようだった。


「姐さん、どっちがいい?」

「軽い方」

「えーと、」


 ユインの即答から、ディーハは力なく抵抗しているクルトの両脇を支えながらひょいと持ち上げる。


「こっち、どうぞ」


 言いながら、抱え上げたクルトをユインに軽々と投げるように渡す。

 人間一人を投げつけられたというのに、クルトを抱き留めたユインは眉も動かさずに衰弱しているクルトを縄で縛り上げて肩に抱え上げた。


 次いでユリカも同じように縛られ、ディーハの背に括り付けられる。


 もちろんユリカは抵抗したのだが、ディーハの方が二枚も三枚も上手だった。「やめて」「放して」等々腕を掴まれた時点で振りほどこうと暴れても、ディーハの腕はびくともしなかったのだ。


 村に行商人として訪れていたときはあまり体格の見えないゆったりとした旅装をしていたが、今は動きやすい格好をしており、よく鍛えられた長躯は行商人ではないことを示していた。


 ディーハが地面に置かれていたユリカのランプを拾い上げ、吹き消した。闇があたりを包んだ後、侵入者の二人は貯水池の空間から身を乗り出した。

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