第2話 砂里の青年・水都の少年


「ただいま。水門、開けてきたよ」


「おかえり、ユリカ。ありがとうな。しばらく水門は開けたままで良いから」

「はいはい」


 夕刻。自宅に戻ると、相変わらず寝台で負担のないよう俯せで寝転んでいる村長カドーロがユリカの気も知らずに暢気に迎えてくれた。


「もう面倒だから鍵は持っとくわよ」

「無くさないようになぁ」

「こうしておけばいいでしょ」


 そこらにあった革紐を鍵と結びつけ、首に提げて見せると、カドーロはうんうんと頷いた。


「おまえが水門の仕事をしてくれて、本当に助かっているよ。本当に、ユリカは良い子だ」

「……はいはい」


 カドーロが寝室から身動きとれないことをいいことにユリカが隣の厨房でごそごそと食べ物を漁って籠に詰めていると、物音を聞きつけたらしき父親の声が届く。


「どうした? まだどこかに行くつもりか?」

「…………、いま、麓の商人がキルレさんのところに来てるでしょ。面白い話してくれるっていうから、夕飯はあっちで食べてくる」


 既に日は沈みかけている。

 直射の日光が入らなくなると、谷はあっという間に暗くなる。年頃の娘を持つ父親としては当然の気遣いではあったが、今のユリカには大きなお世話すぎて、こっそり舌を出した。


「父さんのはここに置いておくから」

「分かった。明かりを持って行きなさい。そんなに暗くなる前に帰ってくるんだよ。怪我にはくれぐれも気をつけなさい」

「はあい」


 水門に再び向かうというユリカの意図を悟られたわけでは無さそうだった。

 これ以上流れを逆立てない方がいいことは分かっていたので、ユリカは素直にランプをひっつかみ、籠を抱えて家を出た。

 

 とっさにああ言ってしまった以上、全く顔を出さなければ不自然な気もしたので、ユリカは薄暮の谷の中、隣家であるキルレ家を尋ねておくことにした。


 ◆◆◆


 キルレは村長である父カドーロの補佐のような仕事をしてくれている人物だった。


 たまに麓の方から行商などを行いに、物好きな商人がはるばる山を登ってくることがある。そんなときはこのキルレ氏が自宅に招きもてなすことになっている。


 だが、水だけは足りているものの、豊かなわけではない村なのでたいして商売にはならず、ほんの数日の逗留で引き返し山を下りていくことがほとんどだった。

 また、商売を口実に伝説の水都を拝みに来て、ここから先の果てしない行程を知り、水だけを抱えて諦めて帰るという者も少なくはない。


「こんばんは、キルレさん」

「あら、いらっしゃいユリカちゃん。お夕飯、食べていく?」

「いえ、家で食べます」


 迎え入れてくれた夫人にそう言いながら、ユリカは食べ物を詰めた籠を何となく後ろに隠す。


 奥の客間から賑やかな笑い声が聞こえてきた。

 若い男と女、そしてキルレ氏が卓を囲んで楽しそうに言葉を交わしているところだった。


「――すると、奥方はそのまま出て行きなすったのですかね」

「いやそれがまた滑稽なんですが、この奥方が実は亭主以上の酒好きで、結局残りは奥方が飲み干して、翌朝亭主が目を覚ますと今度は隣で高いびきの奥方を目の当たりにしてしまうっていう有様で」

「は、それはひどい話だ」


 身体を揺らしてひとしきり笑った後、薄い色の髪の下に頭皮が透けて見えてしまうキルレがユリカに気づき、手招きをしてきた。


「おいで、ユリカちゃん。商人さん達の話を聞きにきたのだろう」

「あ、はい。でもお父さんの世話があるから、少しだけ」


 ユリカは籠とランプをそこらに置いてから、招かれるままに宅につく。

 夫人が腕によりをかけたらしく、果実酒に加えて珍しく肉の料理も並んでいた。客人に最大限のもてなしをしているようだった。


 砂里さりの装飾品を仕入れて仕事しにきたという旅の行商人の二人は、若い姉弟のようだった。

 色んな街を渡り歩いているとのことで、彼らは旅装の上からでも分かるほど、よく日に焼け逞しい身体をしていた。

 生命のしなやかな力強さを感じさせる美しさがあった。天人の儚いそれとは対照的なものだった。


 二人は姉がユイン、弟がディーハと名乗っていた。キルレ夫妻のもてなしを受けて商売抜きに良好な関係を築いているように見えた。


「こちらはユリカちゃん。村長のカドーロの娘さんだ。今カドーロは体調が思わしくないので、彼女が実質村長のようなものだよ」

「キルレさん、そんなことないのに」

「どうも、麗しい村長さん。お近づきのしるしにこちらを」


 弟の方、ディーハが懐を漁った後にごく自然にユリカの手を取り、精悍な顔に甘ったるい表情を載せてユリカを見つめながらその手首に腕輪を通した。

 ユリカの髪の色と同じ赤色の小さな宝玉のついた、白い糸で編まれた可愛らしいものだった。


「こ、こんなもの、もらえません」


 そう言われるのが分かっていたのか、ディーハはユリカの手を離さず、引き抜こうとするのを阻止してきた。


「貰っていただけないと、困ります」


 男の手の存外に温かく強い感触に戸惑い、ユリカは結局それを受け取ってしまう羽目になった。

 

 腕輪をしたまましずしずと腕を引っ込めるユリカを見て、ディーハという男は目尻を下げてにっこりと笑う。


 気恥ずかしくて、ユリカはその後ディーハとユインの顔をまともに見ることができなかった。

 社交辞令、形式的なものだとは分かっていても好意のようなものを向けられては動揺せずにはいられなかった。


 その後再びディーハが東方の笑い話などを披露し、ユインも時折口を挟んだりして楽しい時間が続いた。


 砂漠を流浪する戦士達の戦いぶりや、ユリカ達が見たことのない海についてなど、年若い商人の口から語られる話に皆で聞き入った。

 もっと長居をして外の世界の話を聞きたかったものの、本来の目的への焦燥感がつのり、ユリカは中座をしてキルレ宅を辞すことにした。


「すみません、もう帰ります」


 ぺこりと頭を下げてから、返事を待たずにユリカは逃げるようにキルレの家を辞した。


 ◆


 既に外は暗い。しばらく小走りで進み、星の明かりに目が慣れてきた頃ようやくぼんやりとおおまかな風景が視認できるようになってくる。


 ランプを使わずに崖の道を進むのは危険だったが、この際仕方がなかった。

 首に提げた鍵の感触を確かめてから、ユリカは意を決して水門への道に足を踏み入れた。


 暗いというだけで身体がふらつき、風にあおられて足が竦む。


 そんな中で何とか一歩ずつ必死で進んでいるユリカは、キルレ家から出た直後にユインが先に休むと言って笑顔で客間に引っ込んだ後、密やかにキルレ家を抜け出し、ユリカの行方を観察していたことに気づくことはできなかった。


 ◆◆◆


 決死の思いで崖を回り込み密やかに水門の前まで来たユリカは、そこでようやくランプに火を入れる。

 効果があるかは知れないが、光が外に漏れないように覆いを被せ、周囲を見渡した。


 小さな炎が玄室のような空間を照らし出す。湿気は少なく水面は静かに震えているが、既に水都からの水の流れは止まっているようだった。


「いる?」

「……ん」


 小さな返事があった。水門の開閉装置の後ろに座り込んでいた人影が、ゆっくりと動く。


「遅くなってごめん。とりあえず、食べ物を持ってきたけど」

「……」


 応答するのはか細い声をした少年だった。少しだけ身を乗り出してユリカに顔を見せた後は疲れた様子で再び蹲ってしまった。


「天人様のお口に合うかどうかは分からないけどね」


 言いながら、ユリカは少年を見下ろす。


 金糸の髪に宝玉の瞳、透き通る肌をして現実味のないほどの美しい天人だった。だが、どこか神経質さを感じさせるその容貌には疲れが色濃く浮き出ていた。


「果物なら食べられるんじゃない?」


 言いながらユリカは籠から出した林檎を手早く切って少年の前に差し出す。だが少年はまるで汚いモノでも見るかのように目を細めた。

 ユリカは低く唸る。


「食べなきゃ飢えと渇きで死ぬわよ」

「…………」


 やがて少年は不本意きわまりないという顔で、白い歯を見せ、まずそうにルンノの林檎を囓った。そしてもそもそと咀嚼した後、ゆっくりと首を横に振る。


「味が濃すぎる……」

「いちいちうるさいわね」


 咀嚼から嚥下まで、あくまで嫌そうに振る舞う少年に、脅すように思わず一歩を踏み出すユリカ。

 水ならその場にいくらでもあるが、彼らにとって目の前に貯まっているのは排水なので、ユリカは煮沸済みの飲用水を瓶に入れて持ってきたが、やはり少年の方はそっぽを向いてしまった。

 かねてから複雑だったユリカの感情は、ここに来てさらに絡まり合い難しくなっていく。


「……」

 ユリカは思わず嘆息する。


 昼間、水都からのお恵みの水を谷に流すために水門を開けたユリカが見つけたのは、その奥に隠れていた天人の少年だった。


 見たところちょうどユリカと同じくらいの年頃をしており、見つかった当初、ひどく思い詰めた顔をして小さくなっていたので騒ぎ立てることもせず、ユリカはこうやってこっそりと食糧を持ってきてやったのだった。


「――それじゃ、聞かせてよね。どうして、天人様がこんなところにいるの?」

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