澱の魔女と魔女の檻

もしくろ

第1話 ルンノの谷の少女

 

 いつも通りの少しひんやりした朝。寝室から渋々抜け出したユリカは隣室を覗き込んで声をかけた。


「おはよ、父さん。腰の調子は?」

「おお、ユリカ。そろそろ水門を開ける時間だ。悪いが代わりに行ってきてくれまいか」

「えぇ……やだ」


 寝起きで元気にはねる豊かな赤毛を何とか撫でつけているユリカは、村長である父親からの要望を即座に拒む。だが相手の方が一枚上手だった。


「おまえは、この父に力仕事をさせようというのか……なんと薄情な娘に育ってしまったのだろう、オヨヨヨ……」

「およよよって何よ、わざとらしいんだから。行けばいいんでしょ、行けば」


 ユリカの父カドーロが腰を傷めたのはつい先日のこと。谷から脱走しかかった子山羊を捕まえて抱き上げた際にやらかしたのだった。自宅の寝床にて俯せのまま大仰に泣き真似をする小太りの中年男はいろんな意味で可哀想に見えてしまう。


「……お大事に!」


 ユリカは渋々、あくまで渋々であるという態度を見せてから、父親から水門の鍵を受け取り、おざなりに身支度をして家を出た。


 扉をくぐって外に出て、まず目に入るのは豊かな緑。そして清浄な青空と、ふわりと近くを泳ぐ気高い雲。


 ユリカは深呼吸をしてから、歩き始める。指に提げた鍵をくるくると弄びながら、自然と歩みは軽やかになる。 家でベッドに籠もっているのも好きだが、朝のこの空気を浴びるのも大好きだった。


「ユリカちゃん、おはよう。水門のお手伝い? 偉いわね。頑張って」


 道すがら、また脱走したらしき子山羊を抱えた村人に声をかけられた。

 元気いっぱいの子山羊はピィピィメェメェと鳴いていた。


「おはようございます。行ってきます」


 嫌々やっているとはいえ、家族と無関係の人にまでそれを見せつけるほどユリカは幼くなかった。それに、褒められると気分はやはり悪くはない。

 ユリカは上を向いて、胸を張って歩く。

 山羊の鳴き声が谷間に響く。鳥が頭上を横切る。谷はいつも穏やかで美しい。



 この世界は、水の恵みに見放されていた。

 泉は涸れ川は干上がり、人々は限られた水場で乾きに怯えながら身を寄せ合って生きている。


 ユリカの住む谷間のルンノの村は、世界を東西に分ける白い霊峰の中腹にある。

 谷には十数軒の木造の建物が散在しているが、村人より山羊の頭数の方が多いくらいだった。


 世界の状況に反して、谷には水路がくまなく巡っており、さらさらと清い水が絶えず流れている。

 その水で村の樹木は青々と茂り、山羊は良質な乳を出す。


 奇跡のように水に恵まれたこの村は、しかしただ無条件にその恵みを享受しているわけではなかった。


「う……やっぱり、ちょっと怖いな」


 村の端、谷の終わりまで来たユリカは霊峰の稜線を見やって思わずふらりと平衡感覚を失う。慌てて背後に下がって息を整えた。

 後ろには穏やかな緑があるというのに、谷を少しでも出ると砂と乾きの世界が待ち構えている。


 霊峰の山肌は遠くから見るとひたすら白く清く美しいと言われている。

 だが谷から出たこともないユリカにしてみれば砂と岩で築かれた死の坂にしか見えない。

 一歩でも踏み外すとどうなるか分からない。


 ここに来ると、勝手知ったるユリカですらも僅かに緊張する。少しだけ足を止め、深呼吸をするユリカ。


「さて、行きますかぁ……」


 皆を潤すおいしいお水のためには自分が水門を開かねばならないのだ。

 谷を抜けた先に目当ての水門がある。ユリカは気合いを入れ直し、鍵を握りしめ、崖の中に僅かに突き出ている岩の道へと一歩を踏み出した。


 ◆◆◆


天人てんじんなんて、」


 ユリカは水門のある場所へとたどり着いた。

 そこは山肌がぽっかりとくりぬかれたように広がっている空間だった。神聖な祭壇のように光が差している下に、静謐な水を湛えた泉がある。


 それこそが、ルンノを潤す水源だった。


 しかしこの乾きの時代に水に困ることなく豊かに暮らせるそれらは自然の恵みなどではなく――天頂の街、水都すいとからのだった。


 泉を回り込んだユリカは水門に鍵をはめ込み、大きな把手をぐるぐると回す。

 やがて泉に面していた石の扉がゆっくりとせり上がっていき、さらさらと音をたてて貯水が流れ出していく。

 ここから流れ出た水が、谷へと流れ込みいくつかに分岐し、畑を潤し村人達の糧となっていくのだ。


「天人なんて……」


 霊峰には、ルンノの他にもう一つ、水都という街がある。


 ルンノよりもさらに上方に山肌を削って作られた美しい都市で、そこには天人と呼ばれる精霊のごとく美しい人々が住んでいる。


 水都には尽きることのない豊かで清い、奇跡のような水源があるという。

 天水というその水を飲むといつまでも美しく若くいることができるのだという。

 実際、ユリカが目にしたことのある天人は、同じ生き物だと思えないくらい麗しかった。


 清らかな水は少しずつ嵩を減らしていく。反対に、ユリカのやりきれない思いは募っていく。

 霊峰の天水を源とするこの水は、しかし正確には天水ではない。


 ――水都を、天人を経由した後の、言ってしまえば排水だった。


 奇跡の水である天水を欲しいままにして水都にて美しく生きている天人。

 欲しいままに浴び、飲んだ後、流れ落ちた水は水都から流れ去っていく


 ――それこそが、ユリカをはじめとしてルンノの民が使っている水なのだ。


 水都、天水、天人、そして、そのお古のお水。

 生きていくために欠かせないもので、完全に依存していることが分かっていても、やはり水都や天人への感情は複雑にならざるを得なかった。


 とくにユリカには他にももう一つ原因がある。

 水門を開ききった後、掌に残る三日月型の古い傷痕を見下ろす。言いようのない嫌悪感と焦燥感が湧出し、ついにユリカは強く拳を握った。


「天人なんて、大っ嫌い!」


 そう言い放って、八つ当たりのように水門の開閉装置を蹴飛ばした瞬間、


「くっ……」


 思いも寄らぬところから、声がした。


「!?」


 飛び上がるほど驚いたユリカ。

 頼るものもなく縮こまって正体の知れない何かに怯えていると、やがて、声のしたところからゆっくりとか細い人影が姿を現した。

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