温泉は温泉卵を作るには不向きだけど……
水井さん達が居なくなり、代わりに千賀さんと林さんの特訓が始まった。
もちろん教官は雪で補佐と通訳に岳が同行している。
林さんは東京に行ったり来たりと忙しい人だけど二人共もうマロには余裕で一人で勝てるようになり、今は三輪さんを含めて入院生活で落ちた筋肉の鍛え直しと11階の温泉に向かう事を訓練としている。
ほぼ垂直の崖登りはそれなりに全身運動で鍛えるにはちょうどいいと千賀さんは言う。
左手ないのにね。
そんなハンデもものとも言うことなく利き手と足の使い方だけで登るコツを見つけたようだ。
雪の『壁走り』ではなく『俊足』をコツに、でもないが
「片手になって威力が半減になった分足技を磨かないとな」
体格が大体似ている橘さん相手に蹴りの練習は橘さんがレベル差で何とか耐えている様子。
これが訓練をしてきた人とその熟練度の差か。
岳が試しにって参加したけどあっと言う間に倒されてダウン。
分かっているが理屈じゃないんだよなと20近くのレベルの差がある俺では動きがスローモーションのように見えるので相手にはならないものの、逆に言えば雪が千賀さんの足技をひょいひょいとくぐりぬけて挑発する遊びを覚えてしまった。
ほら、そんな事しているから『挑発』何てスキル付いちゃったじゃん。
これで敵を集め放題、怒らせ放題だねといつの間にか称号が白の悪魔となっていた。
ちょっと誰?
うちの白い妖精を白い悪魔なんて呼ぶ奴。
こんなにもかわいいのに悪魔だなんて……
雪さんは小悪魔だーって言うのに。
1日1本ルールのちゅーるをねだりに来る時のすりすりとすり寄られてついつい2本あげたくなる気持ちを抑えるのがそろそろ限界なんだけどと悶える俺を気持ち悪そうに見る林さんとはまだまだ雪の良さをお教えしてあげなくてはと思うも
「そう言えば林さん、なんだか顔の火傷の赤味、薄くなってきてませんか?」
良くなってよかったですねと言うも林さんは顔を歪めて
「良くなってるんだよ」
一人納得できないと言うように言い返してくれた。
何がいけないのかと火傷なんて熱したフライパンにふとした表紙に触れてしまった時ぐらいの経験しかない俺としては医科・歯科幹部自衛官の林さん並みの知識なんてかけらもないので治りが早くて良かったじゃんと思っていた程度。だけど知識あるからの異様さに気付いたのだろう。
「この規模の火傷になると本来なら後何度か皮膚移植をしたり、無菌室に居なくてはいけないのだよ。本来ならまだまだ感染しやすい状態だからな」
なんて疲れたような瞳で居間のテーブルでダンジョン入り口の警備にあたっている林さんはPCで何か書類を作りながら昼夜逆転している俺の朝食に付き合ってくれていた。話し相手として。
水井さん達が帰って行ったからいつでも入り放題になったダンジョンなので時間とかをまた気にしない生活になったとたん昼夜逆転の生活に戻ってしまったのはどうでもいい話。それよりも
「ちょ、感染ってそれ危ないんじゃないっすか?」
なんて慌ててしまえば林さんは
「東京に行くたびに抗生物質は貰っているから大丈夫だ。
俺一人いなくなっても悲しむ家族もいないと思ったらせめて残りの人生楽しもうと思って千賀さんについてきたが、水井達が温泉のお湯が傷とかよく効くから試してみてくれって、五右衛門風呂に温泉のお湯を運んで来てくれてな」
目を細めて笑う。
ものすごく穏やかな表情の瞳はどこか湖水の水面のごとく揺らいでいた。
口で語るよりも分かりやすい視線に俺もつられるように笑みを浮かべてしまう。
「全員で何往復もして冷めきったお湯を薪を割って沸かし直して。
ったく、怪我人に温泉のお湯は不衛生だろうって本来なら注意しなくてはいけないのだが、正直あの時はかなりキツイ痛み止めで耐えていたからもうどうにでもなれって思っていた時でもあったからな」
「すみません。
全然そんな気配を感じ取れなくって騒いでいてすみません」
思わず謝ってしまうも林さんは楽しそうに笑い声をあげて
「なに、一人でうじうじしているのがばかばかしくなって、正直気が紛れて助かった」
「お役に立てたようで……」
なんて言いながらも小さくなってしまうのは他に返す言葉を見つけられないからだろうか。
「まあ、正直激しい運動は無理だったが……
あの温泉の湯がこんなにも効果があるとは思わなかった」
「……」
「ああ、気にしなくていい。情報の共有はさせていただくが、君たちがまだ未発見な事なら仕方がないからな」
「仕方、ないですよね……」
なんてそっと視線を反らせば林さんは楽しそうに少し声のトーンが上がり
「あの湯に浸かったとたん体の疲れが一気に引いた。
そして不意に顔にかかった水しぶきが、皮膚の傷みを和らげてくれた。
ほんの少しだったがすぐに分かった。
モルヒネを使って抑えていた痛みだ。それがただの傷み程度に治まったのだから気付かずにはいられないだろう。
その湯で顔を洗えば痛みは引くわ赤味も薄くなるわ……
このような物を世間一般に公表できないのはすぐに理解したよ。
劇薬すぎる。
黙っていてくれてありがとう」
と言う顔はこんなにもすぐよくなるものがあると医者がいらなくなる。今まで沢山の研究者が作り上げた知識が無に返る、そんな危険なものだと言う。
「なんて言いながらも俺も千賀もあの温泉の効能に恩恵を受けた身で言えるものではないが、それでも肉体的な回復に役立ってとても助けられた」
肉体的、そんな限定的な言葉にやはり心までは治療される事はなかったのだろう。
そんな簡単に直るものならむしろそっちの方がヤバいよと突っ込みたかったものの、基本怪我はせず、ただ崖を上った後の温泉に浸かって気持ちいいとしか思ってなかった俺には全く理解できなかった効能を今の今まで知らなくって申し訳ありませんと心の中で平謝りをするのだった。
「おかげで今となれば一日一度千賀と湯治に向かうつもりでトレーニングに出かけてる」
「汗を流しに行くのか汗をかきに行くのかわかりませんね」
なんてなるべく軽いノリになるように言えば林さんは笑い
「因みに温泉を飲んだら薬で荒れた胃も治ったし……」
そう言って意味ありげに口を吊り上げて
「虫歯も治った。
さすがに自分の歯の治療は無理だから助かったよ」
「言われてみれば俺も口内炎治ってたかも?」
大体すぐ潰すから気にも留めないが……
「君たちは野菜を食べなさい。肉に対して野菜が全く釣り合っておらん」
「すみません。まだまだ胃袋が肉を所望する若さなので」
きりっとした顔で仕方がないのですと無理な事を告げれば林さんは笑いながら一枚のプリントアウトしたものを俺に渡してくれた。
この人俺と話をしながらしっかり仕事をする出来る人なんだよなーと尊敬はするけど有能すぎて下手な事喋れないと冷や汗をかきながらも渡されたプリントを見て林さんなんて意識から消えた。
「え?やっとトイレ作りに来てくれるの?道路の拡張工事と崖の防壁工事、ガードレールも作ってもらえるの?!」
ぃやっほーい!
思わずと言うようにガッツボーズを決める。
そんな俺を笑う林さんだけど表情が少し曇っている事を俺は気づかなかった。
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