第8話 美香の失踪!
■一九八九年九月
スープ作りは行き詰っていた。
味はほぼ満点だと言うのだが、何かが足りない。その何かは店長も分からないという。
今朝も開店前にスープの味見を店長にお願いした。
「うん、俺のと同じ味だねぇ」
「ってことは百点でしょうか?」
「うーん、そういうことではないんだろうねぇ……」
「そうなんでしょうねぇ……」
店長は天井を見上げて顎に手をあてている。何かを考えているようだ。
これは気長にやるしかないと思った。
「開店準備しますね」
「ああ」
仕込みの準備を終え、シャッターを上げた。青空が広がっている。まだ暑い日が続いており、熱気が店内に入ってくる。
その時、男性が店の前に駆け込んで来た。三十代くらいだろうか。息を切らし、店内を覗き込んでいる。
「み……、美香は来てませんか?」
「え、美香ちゃんですか? 来てないです……」と答えるしかなかった。
店長が出てきてその男性に声を掛ける。
「清彦かい、どうした?」
おそらく店長の息子さんだろう。美香のパパということか。シルバーのメガネをしているせいかもしれないが知的な印象を受ける。
清彦は息を整えてから店長に言う。
「今朝、美香が家を出て行ってしまって……」
「今日は日曜だろう? 遊びにでも行ったんじゃないのかい?」
清彦は何か言い淀んでいるように黙っている。
「どうした? 何かあったんかい?」
店長が聞くと、清彦はゆっくりと口を開いた。
「いや……、今朝、り、離婚の話をして……」
店長の顔が変わった。
「離婚て……。本当なのかい?」
清彦はしばし俯いていたが顔を上げる。
「妻も秋葉原近辺を探し回っていて……」
沢村は部屋に上がり、調理服を脱いだ。
「探しに行きます。店長は店にいてください。何か分かったら電話します」
沢村はそう言うと、店から駆け出していた。
沢村は走りながら確信していた。美香がいる場所を。
昌平橋のたもとの広場に美香はいた。椅子に座って神田川を眺めている。
「今日はカルガモいないね」と隣の椅子に座る。
美香はゆっくりと沢村の方を向いてからまた川の方を見る。
「別れたんだわきっと」
沢村は余計な事を言ってしまったかと思った。
「さっきね。美香ちゃんのパパが店に来たよ。美香ちゃんを探してるって。ママもね」
美香は黙っている。沢村は続ける。
「パパもママも心配していると思うよ」
美香は前を向いたまま叫んだ。
「心配なんてするわけないじゃない! 私の事なんてどーでもいいんだから!」
美香の両目から涙があふれてくる。
「リコンするんだって、リコン!」
沢村は言葉を出せずにいる。
「リコンするなら何で結婚したのよ!」
それを言われるとご両親も辛いだろうなと沢村は思った。
「私は絶対結婚なんてしないから!」
美香は頬を濡らしてうつむく。
「一人にさせて……」
沢村は立ち上がり周囲を見回す。少し先の歩道に電話ボックスがあるのが見えた。
電話ボックスまで走り、店に電話を掛ける。店長が電話に出たので、美香を見つけた事を伝えた。
広場に戻り、また美香の隣に座る。
「一人にしてって言ったでしょ」
「美香ちゃんの事が心配だからここにいるよ」
「お店はどうするの? 今日は営業日でしょ」
「臨時休業だって店長が言ってたよ。美香ちゃんの無事を確認するためにね」
美香は黙ってうつむいていたが、ふぅと息をはいて沢村を見る。
「のど乾いちゃったんだけど、お金貸してもらえる?」
「もちろん、ジュースをごちそうするよ。何がいい?」
「ファンタのゴールデングレープがいいわ」
「あー、そんなのもあった気がするね。ちょっと待ってて」
以前ゴールデンアップルを買った自動販売機には無かった。そのため、周囲を見回してはいくつかの自動販売機を巡り、ようやくゴールデングレープ味の缶ジュースを購入した。
美香に手渡すと「ありがとう」と言って飲み始める。沢村も隣に座り同じ缶ジュースを飲み始めた。
神田川に白い水鳥が一羽泳いでいるのが見えた。
「あの白い鳥なんだろうね」
「ゆりかもめよ」
「そうなんだ。よく知ってるね」
その後、特に何を話すでもなく、二人とも神田川を眺めながらジュースを飲んだ。
ゆりかもめが水面から飛び立って行った。
沢村は美香と一緒に店に戻った。店長は安堵の表情を浮かべた。
清彦は沢村に感謝の意を告げ、美香を連れて家に帰って行った。
店長は部屋の畳に座り込み、ゆっくりと話した。
「嫁さんが美香の親権者となるそうだ。今の家で一緒に暮らすらしい……」
沢村は厨房に立ったまま店長の話を聞いている。
「父親の……清彦さんは?」
「……清彦は家を出て、どこか別の所に住むらしい」
「そうですか……」
店長はゆっくりと立ち上がり、階段へと向かう。
「今日はもう休ませてもらうよ……」
「はい」
店長はゆっくりと階段を上がっていく。
沢村も何かずっしりと肩が重くなったような気がした。
次の日の休業日。店長はどこにも出かけず、寝てばかりだった。
沢村も、ぼうっとテレビを見て一日を過ごした。
営業日。店長はいつも通りに仕込み、準備をしている。しかし、どこか覇気がないというか、動きに機敏さがないという印象を感じていた。
店長が調理担当の時、客から言われてしまった。
「おやじさん、なんか味落ちてない?」
「えっ、そうですかい?」と店長はややひきつったような表情をする。
その客は沢村の方をちらりと見て続けた。
「もしかして今日、お弟子さんがスープも仕込んだの?」
沢村はとっさに答えていた。
「あーすみません、修行が足りてないですね……」
「まぁそこまで悪くはないよ。がんばってな」
「ありがとうございます」
店長は苦笑いをしながら、沢村に申し訳なさそうな顔を見せた。
その直後、店長は苦痛の表情を浮かべ、腰に手をあてて屈みこんだ。
沢村が駆け寄り店長の背中に手をかける。
「大丈夫ですか?」
「いつもの腰痛だよ……」
「休んでてください。店は私一人で大丈夫です」
店長はちょっと考えているようだったが、うなづいた。
「すまんの」
店長は部屋へ上がっていった。
沢村はスープを味見した。若干味が薄めかもしれない。
冷蔵庫に寝かせているスープを取り出し、調理の合間に補充するように味を整えた。
その後は味に苦言を言ってくる客は特にいなかった。
■一九八九年十月
美香の両親が離婚となってから、ひと月ほどが経った。あれ以来美香は店にも顔を出していない。家電量販店のゲーム売り場でも、昌平橋の広場でも遭遇することは無かった。
店長は相変わらず意気消沈した状態が続いている。スープの仕込みでは沢村が味見をして確認しては、手を加えたりもしていた。ちょっと逆の立場になってしまった感がある。
沢村のスープ作りは一旦中断していた。この状況では進めるのは難しい気がするからである。打開策も見い出せていない。
ある日の営業中、沢村は調理担当で、店長は奥でどんぶり洗いをしていた。
「おまちどうさま」とラーメンを出したとき、ふと視界の端に女の子が見えた気がした。
視線をその方向に向けると、道路の向こう側の街灯に隠れるようにして、美香がこちらの方を見ていた。
沢村と目が合ったと思った瞬間、美香は走り去った。
「店長! こっちお願いします」と思わず駆け出して店を出て行く。
「お、どうした?」と店長は唖然としつつも、客から食券を受け取った。
他の客らも沢村を目で追っていた。
美香がこんなにも速く走れるとは知らなかった。
五十メートルほど前を走っており、その距離が縮まらない。こっちは五十を超えたおっさんだから仕方がないと思うことにした。ふと自分が調理服のままであることに気づいた。はたから見たら食い逃げ犯を追いかけている図である。
美香は秋葉原駅の方へ向かっている。時折沢村の方を振り返っては走り続ける。沢村はそろそろ限界が来て顔を苦痛に歪ませる。美香はそんな沢村の顔を見て可哀そうと思ったのか、ついに足を止めた。
そこは、ちょうど秋葉原公園の前であった。
秋葉原公園のベンチに沢村と美香は並んで座った。沢村はまだ息が苦しい状態だった。
「ちょっと、缶ジュース買わせて。何がいい?」
「マウンテンデュー……」
公園すぐ側の自動販売機でアクエリアスとマウンテンデューを買った。
ベンチに戻り、二人は缶ジュースを飲んで一息ついた。
「ふぅ……、それにしても美香ちゃんは走るの速いね」
「かけっこでは大体一位だから……」
「そう、すごいね」
美香は黙って缶ジュースを飲んでいる。
「さっきは、店長……、おじいちゃんに会いに来たのかい?」
美香は頭を左右に振って違うという意思表示をした。
「おじいちゃんのラーメンを食べに来たんじゃないの?」
「違う!」
いきおいで美香は缶ジュースを落としてしまい、ジュースが土の地面に流れ出ている。公園にいた人々がこちらを見たりした。
美香の目から涙があふれてくる。
「だめだって……、会っちゃだめだって。おじいちゃんには。もう……」
「……ママに言われたのかい?」
「うん……」
両親が離婚した場合、その子供が先方の親族と会ってはいけないという決まりは無いだろうが、それはそれぞれの事情によって様々であろう。離婚原因などにもよるのかもしれない。
「だから、遠くから見ていたんだね……」
美香はさらに涙を流した。
「もうおじいちゃんのラーメンも食べちゃだめだって! だめだって!」
美香にとってそれがどれほど辛く悲しいか、沢村は分かる気がした。もちろん、あのおいしいラーメンを食べられなくなるという事はもっともだが、店長との時間がどれほど美香にとって幸せな事だったのか。
まだ小学一年生の女の子にとって、こんな辛いことがあっていいのだろうか。
沢村は何かふつふつと体の奥が熱くなってくるのが分かり、アクエリアスを一気に飲み干した。
「ラーメン食べられるよ」
「えっ?」と沢村の方を見る。
「店長のラーメンじゃなく、俺のラーメンなら食べたっていいよね?」
美香はきょとんとしている。
「俺に会うのは問題ないわけだし」
「スープ作り、合格したの?」
「いやぁ、まだだけど。もうすぐさ」
「本当に?」
「本当。……だと思うよ」と、ちょっと弱腰になった。
「あ、缶ジュースこぼれちゃったね。また買ってあげるよ。何がいい?」
「うーんと……、アンバサ!」
そんなのもあった気がすると思ったが、自動販売機をいくつか巡ってやっとアンバサを見つけたのだった。
美香に笑顔が戻ったのが何よりだと沢村は思った。
■一九八九年十一月
沢村はスープ作りに没頭していた。
ずっと胸につかえていたものが分かったような気がした。店長の味を完全にコピーすることだけを考えていたが、仮に完全にコピーできたとしてもそれでいいのだろうか。かつて、店長が父親の味に手を加えて店長の味にしたように、沢村自身の自分の味にしないといけないのではないだろうか。
食材の比率や生姜の量などを変えて試すことを繰り返していた。でも結局は元々の比率が一番いいことに気づく。しかし、何かが足りないような気がした。
かつて、自分でラーメンを作るといえば、よくインスタントの袋麺を作って食べていた。それこそ中学生くらいのときから実家で作っていたし、社会人になってもアパートでよく作って食べていた。その時かかさず加えていたものがあったではないか。それを少し加えるだけで味に深みが増していた。
しかし、それはとても安易でなんの芸もない。自分でもそう思う。でも、おいしいならばそれでいいではないか。自分が好きな味になるのなら。
休業日、沢村は早朝から厨房でスープ作りを始めた。店長の味を完全に再現し、そこにそれを投入した。麺も茹で、一杯のラーメンとして完成させた。まずスープを一口飲んでから麺をすすった。沢村ははっとした。忘れかけていた懐かしさのようなものを感じる。
これが自分の味だと思った。
店長が階段を下りて来た。少し元気を取り戻してきており、沢村もほっとしていた。
「店長、これから味見をお願いできますか?」
「うん? ここんとこ無かったからあきらめたのかと思ってたんよ」
「これがダメだったら、あきらめようと思っています」
「そうかい」
「今回はスープだけじゃなく、完成したラーメンを食べてもらっていいでしょうか?」
「いいよ。朝飯にさせてもらうよ」
「ではちょっとお待ちください」
店長は部屋のちゃぶ台前に座り、新聞を読み始めた。
沢村は厨房で調理を始める。麺を茹で、温めたスープに入れ、チャーシュー、ねぎの細切り、メンマを入れる。最後に生姜しぼり汁をかけ、沢村のラーメンが完成した。
沢村はラーメンをちゃぶ台に置いた。
「よろしくお願いします」と店長の対面に座った。
「いただくよ」
店長は新聞を脇へ置き、割り箸を割った。
店長はまず香りを嗅いだ。ちょっと首をかしげる。次にれんげでスープを一口飲んだ。動作が一瞬止まり、何か考えているような表情となった。さらに麺をすすっては首をかしげる。でも箸は止まらず食べ続け、スープも残さずに完食した。
沢村は恐る恐る聞いた。
「ど、どうでしょうか?」
店長はコップの水を飲み干し、空になったコップをちゃぶ台にトンと置く。
店長は沢村の方をじっと見る。沢村は緊張した。怒らせてしまったのかもしれない。
すると店長はにやりとした。
「何か入れたね?」
沢村はぎくっとして答えた。
「あはは……、分かります?」
店長は厨房の方を見た。
「見せてもらえるかい?」
「あー、はい」と立ち上がる。
調理台の隅にそれは置いてある。元々この店には無かったものなので、先日こっそり買っておいたのであった。
沢村は厨房に来てそれを手に取った。部屋から出てくる店長の方を振り返る。
「さすがですね店長、入れたのは……」
沢村は店長の異変に気付いた。店長は腰に手をあて、背中を丸めている。これまで見たこともないような苦痛の表情をしている。
「だ、大丈夫ですか店長!」
駆け寄るも先に、店長はその場に崩れるように倒れた。
「店長!」
沢村は店長の体に手をあてた。しかし、目をつむり倒れたまま動かない。
「店長!」
店長の体を揺さぶったが思い止まった。動かしてはいけない。沢村は立ち上がり電話の側まで行き受話器を取った。一一九番へ掛けた。
(つづく)
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