第7話 ファンタゴールデンアップル!

■一九八九年七月


「ほう……。九十九点かのう」

 店長の言葉に沢村は驚いた。

 いつものようにちゃぶ台を挟んで店長と沢村が座っている。

「えっ! 九十九点ですか? ほぼ満点じゃないですか!」

「ほぼ満点だのう」

「逆に残り一点は何なんでしょうか?」

 店長は天井を見上げて目をつむり、しばし考えているような表情をしてから目を開き、ゆっくりと言った。

「わからんのう」

「わからんですか……」

 この点数はもちろんうれしいが、完璧な味だと思っていたので、あと何が足りないのか皆目見当がつかない。

「俺も考えてみるよ」と店長はまじめ顔である。

「ありがとうございます。残り一点、がんばります」

 

 今日は休業日なので、いつものように店長はパチンコに行く準備をしている。

 しかし、店長が靴を履いて立ち上がったかと思うと、腰を手で押さえて、そのまま立ちすくんでいる。

「大丈夫ですか?」と店長に駆け寄って手を添えた。

「う、うん大丈夫大丈夫。いつもの事さね……」

 店長はゆっくり畳に座り込んだ。

「病院に行った方がよくないですか?」

「いんや、ちょっと休めば大丈夫」

「でも……」

 心配になったが、ずっと立ちっぱなしの仕事なので腰痛は避けて通れないのかもしれないとも思った。

 突然、ドアのノック音が数回聞こえた。

「おじいちゃーん」

 美香の声である。休業日でシャッターは閉まっているため、勝手口でもあるドアをノックしているのだ。

「おう、美香か?」と店長が立ち上がろうとしたので、「私が出ますよ」と沢村が厨房を通ってドアを開けた。

 美香がランドセルをしょった姿で入ってきた。

「美香ちゃんいらっしゃい」と沢村が声を掛ける。

「おじいちゃん、こんにちは」と沢村を華麗にスルーする。

「美香ちゃん、よく来たね」と店長はゆっくり立ち上がり笑顔で迎えた。

「おじいちゃん、ラーメンちょうだい!」

「今日はもう学校終わったのかい?」

「そうよ。午前のみだったの」

「はは、ちょっと待ってな……」と店長は歩こうとするが、腰に手をあてて少し考えている表情をした。

「そうだ、今日は弟子おじさんに作ってもらおうかの。スープから全部作ったものを」

「えっ!」と美香と沢村は同時に声を発した。

「美香ちゃんに味見をしてもらおうじゃないの」店長はひょうひょうと語る。

「スープも作ったの? 大丈夫なのかしら……」

「店長……、いきなり実戦ですか?」沢村は恐る恐る聞いた。

「いつかはやるんだから、やってみんさい」

「……はい!」


 沢村は覚悟を決め、ラーメン作りに入った。

 冷蔵庫からメンマやチャーシューなどの具材を出し、湯を沸かす。今朝作ったタレとダシを温めなおし、生姜しぼり汁も用意する。麺を茹で、犬の絵が描かれたどんぶりにスープを入れ、麺を入れる。チャーシュー、ねぎの細切り、メンマを入れ、生姜しぼり汁をさっとかける。

 その様子を店長は側で見ていた。

 完成したラーメンを一目見て、店長は「うん」とうなづいた。

 美香は部屋のちゃぶ台の前に座ってテレビを見ている。

「おまちどうさま」と沢村はラーメンを盆に乗せて部屋に入り、ちゃぶ台に置いた。

 美香はラーメンに顔を近づける。

「いただくわ」

 一口スープを飲むと、何かを考えているかのように少し間が開いたが、続けて麺もすすり始めた。

 その後、一言もしゃべらずに食べ続け、スープも全て飲み干した。

 沢村は緊張しつつ聞いた。

「ど、どうでしょうか……」

「いまひとつね」

 沢村は愕然としたが、店長がにやりとしているのが見えた。

「そうですか、がんばります……」

「ごちそうさま」

「また味見してくれるかな」

「うん、いいよ。じゃぁまたね、おじいちゃん」

「あいよ。またおいで」

 美香が帰って行った後、ぼそりと店長が言う。

「美香の『いまひとつ』が出たから、合格も近いぞ」

「えっ、そうなんですか? 確か『まぁまぁ』が合格でしたよね」

「『いまひとつ』の次が『まぁまぁ』なんよ」

「分かりにくいです……」

「はは、『いまひとつ』記念に今夜も飲むかい」


 いつものように部屋で店長と沢村が飲み始めたが、合格があと一歩のところまで来た事もありテンションが上がり、沢村はまたもや飲みすぎていた。店長も結構なペースで飲んでいる。

「いやー、ラーメン作りってほんっと深いですね」

「はは、何べんも作っているうちに出来るもんさ」

「店長、この店はずっと続けるんですよね?」

「うん? そりゃ続けられるうちは続けるけど、先の事は分からんね」

「先の事……」

 ふと考えた。この店が閉店したのは自分が大学を卒業した次の年のはずだ。つまり一九九一年。今から一年半以上先ということになる。

 どうして閉店にいたったかは分かりもしない。しかし、もし店を継ぐ人間がいなかったとすれば、自分がこの時代に来たことによって状況が変わるかもしれない。つまり、自分がこの店を継げば閉店などしない未来が開けるかもしれないのだ。

 缶ビールをぐいっと飲んだ。

「未来が変わるかも……」と赤い顔でつぶやく。

「未来? お前さん先の事が分かるんかい?」

「あ、はは、そうです。実は私、未来の事が分かるんです。三十年くらい先までですが」

「ああ、こないだやってたバックトーザ何とかってやつか?」

「駅の近くに秋葉原公園ってありますよね。木が結構あるじゃないですか」

「ああ、あそこは元々運河だったんよ」

「え、そうだったんですか。あー、だから地面が少し沈んだ所にあるんですね」

「そうそう。俺もよくあそこで休んでる」

「三十年後には、木々も無くなって広場になってます」

「そうなんか? 無くしちまうなんて無粋なことするねぇ」と店長も缶ビールを飲む。

「ただ、公園の真ん中あたりにあった木が一本残されてるんですよ」

「へぇ、なんか寂しい感じがするねぇ」

「まぁ、私はひょんな事でこの三十年前の時代に来てしまったんですよ」

「確かにお前さん、どこか浮世離れしちょるもんな。未来では技術もすごいんじゃろう?」

「そうですね。いいもの見せますよ」

 沢村は押し入れを開けてリュックの中からスマホを取り出す。

「これはスマホといって、持ち運べる電話です」

 スマホを見せると、店長は目を見開いた。

「なんじゃ、この薄っぺらい板が電話なんかい?」

「写真も撮れるんです。記念写真撮りましょうよ」

 自撮りモードにして店長の横に並んでスマホを構える。

「なんじゃ、俺が映っとるぞ」

「いきますよ。はいチーズ」とボタンを押してシャッター音が響いた。

「ほら撮れました」

 スマホの画面を店長に見せた。二人とも赤い顔をしており、沢村は笑顔だが店長は目を見開いている。

「いやーすごいなぁ。フィルムはどこに入れるんね?」

「フィルムいらないんですよ。未来ですから」

「未来はすごいのう。ラーメンどころじゃないんじゃないかい?」

「いえいえ、ラーメンは全く廃れません。むしろ盛り上がってます」

「そうかい。未来もいいもんだの……」

 店長は眠そうな表情で今にも倒れそうである。沢村にもどっと眠気が襲ってきた。

「でも未来に戻れないんですぅ……」

 二人ともその場で眠りに入ってしまった。


 翌朝、目をさますと、部屋には空き缶が散乱し、ちゃぶ台の上にはつまみ類がそのまま残っていた。

 ちゃぶ台の反対側に店長が寝ているのが見える。二人とも寝落ちしてしまったようだ。それにしても頭痛がひどい。

 ふと目の前の畳の上にスマホが転がっているのが見えた。そうだ、酔っ払った勢いでスマホを店長に見せてしまったのだ。こういう事はしてはいけないはずなのに、失敗した。

「うーん……」と店長が目を覚まし、体を起こそうとしている。

 まずい。咄嗟にスマホを取り、座布団の下にもぐらせた。

 店長は座りながら頭を押さえている。

「痛た……。こりゃあ二日酔いじゃなぁ」

「おはようございます」

「お前さんも二日酔いかい?」

「はい、まぁ……。ところで、昨夜どんな話しましたかね?」

「うん? えーっと……。なんか思い出せんのう。どんな話をしたんかい?」

「あーいえ、私も思い出せないんですよ。はは」

「飲みすぎはよくないのう」

「そうですね」

 沢村はほっとした。


■一九八九年八月


 九十九点から残り一点が遠い。

 スープ作りに何度も挑んでいるが、店長は首を縦に振らない。せめて首を左右に振ってくれるといいのだが、いつも斜めにかしげてしまうのだ。何が足りないかと聞いても、分からないと言う。これは難題である。


 すっかり手が止まってしまったので、休業日に店にいてもしょうがないと思い、また秋葉原の街に出た。

 もう八月になっており、かなり暑い。セミの声も結構聞こえる。

 ふらふらと彷徨っている内に、また昌平橋に差し掛かった。ふと広場の方を見て驚いた。

 椅子に美香が座っており、神田川を眺めている。ややうつむき気味で、どこか寂しそうに見える。

 美香に近づいて声を掛けた。

「美香ちゃん?」

 美香はゆっくりと顔を沢村の方に向けた。笑顔になるわけでもなく、どこか遠い目をしている。

「弟子おじさん?」

「ランドセルしょってないけど、学校は?」

「夏休み」

「あ、そっか。そうだよね。ここにはよく来るの?」

「……たまにね」

 セミの鳴き声が遠くで聞こえる。

「それにしても暑いね」

 周囲を見渡すと、近くにドリンクの自動販売機があるのが見えた。

「缶ジュースでも買ってくるよ。何がいい?」

「ファンタのゴールデンアップル」

 その名称を聞いて懐かしくなった。自動販売機に向かい商品を見ると、ファンタのゴールデンアップル味があった。小学生の頃何度か飲んだ記憶がある。

「はい」とゴールデンアップルの缶ジュースを美香に手渡し、隣の椅子に腰かけた。

「ありがとう……」と飲み始める。

 沢村も同じくゴールデンアップルの缶ジュースを飲む。青りんご風の味が冷たくさわやかでおいしい。

 神田川を見ると、カルガモが二羽ゆっくりと泳いでいるのが見えた。

「カルガモだね。つがいかな」

「うん……」

「考え事かい?」

 美香はジュースを飲むのをやめ、ふぅとため息をついた。

「ママとパパ、仲悪いのが直らなくて……」

「そっかぁ……。でもね、夫婦喧嘩ってのはよくあることでもあるよ」

 美香は下を向いて目をぎゅっとつむる。

「もうだめかもしれない……」

 二羽のカルガモは万世橋の方へゆっくりと泳いでいく。

「時間がたてば仲直りするかもしれないよ」と缶ジュースを飲む。

 美香は沢村の方を見る。

「弟子おじさんは結婚してるの? 子供はいるの?」

 沢村は思わずジュースを吹き出しそうになる。

「げほっ。いや、結婚してないし、子供もいないよ」

「じゃ、なんでそんなこと分かるの?」

「あー、まぁそれなりにね……」

 美香はあきらめたように立ち上がった。

「もう帰るわ」

「送ってくよ」

 美香の後ろに付いていくように沢村も歩く。美香はやや俯きながらゆっくりと歩く。

 暑さで汗も出てきた。美香も暑いだろう。ちょうどゲームセンターが目に入った。

「ちょっと寄っていくかい? 涼しいよ」

 ゲームセンターの中は冷房が効いていて生き返った気分になる。美香も気持ちよさそうにしている。

「ねぇ、これやってみたい」

 美香が指さしたのは『ワニワニパニック』である。飛び出してくるワニを実際にハンマーで叩くという体を使うゲームである。

「オッケー」と百円玉を投入する。

 ワニが次々と出てくるのを美香はハンマーでうまいこと叩いていく。

「うまいね。やったことあるの?」

「ううん、はじめて」

 途中から、激しくあちこちのワニが出てくるようになり、美香は追いつかない。

「あーもう!」

 ゲームオーバーとなり、成績はいまいちな結果となった。

「はじめてにしちゃ上出来だよ」

「もう一回いい?」

「いいよ」

 次のプレイで美香はかなり上達した。激しいモードでも激しくワニを退治していく。

 いつしか笑顔でワーワー言いながら叩いている。

 成績はかなり上位な結果となった。

「やったー!」

 小学生らしい笑顔を見せたので、沢村は少しほっとした。

 ゲームセンターを出て秋葉原駅近くまで歩く。後は大丈夫ということで美香を見送った。

 美香は沢村を見て笑顔で手を振った。


 店に戻る際、ふれあい橋がある場所を覗いてみると、工事は終わっているようで既に通れるようになっていた。橋の中央まで来て欄干に手をかけ神田川を眺めた。

 この風景は三十年後もあまり変わっていないようにも見える。一瞬、実は過去の世界になんて来てないんじゃないかと思った。しかし、後ろを通り過ぎた女性数人の「でもアッシー君がさー」という会話が聞こえたとたんそんな考えは吹き飛んだ。


(つづく)

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