第6話 スープ修行とUFOキャッチャー!
秋葉原駅から外に出て、ふらふらと何気なく秋葉原の街を歩いていると、昌平橋という橋に差し掛かった。
橋のたもとにちょっとした広場があり、神田川を眺めるように椅子が並んでいる。
沢村は椅子に腰かけ、神田川を眺めた。対岸に赤レンガ造りの建物もあり、ちょっとした風流さを感じられるところだなと思った。向かって左方向に万世橋が見える。この風景は三十年後もあまり変わっていないのかもしれない。
三十年後の未来に戻れたとして、果たしてどうであろうか。
惰性で生きているだけな気もするし、その先もたかが知れている。
かつて好きだった世界に今自分はいる。この世界で生きていくのも良いのかもしれない。そう考えると、少し気が楽になった。
数日後の休憩時間の時、また美香が店にやって来た。
「おじいちゃんは?」
厨房で仕込みの追加をしていた沢村が応える。
「やぁいらっしゃい。おじいちゃん、まだ戻って来てないんだ」
「パチンコかしら」
「たぶんそうだと思うけど」
「弟子おじさんはラーメン作れるの?」
「うん、調理はできるよ」
美香は少し考えていたが、沢村をまっすぐに見て言った。
「ラーメンちょうだい」
美香はカウンターの真ん中の席に座る。
「かしこまりました。少々お待ちください」
沢村はいつも通りに調理を進めた。やや麺の量を少なめにし、犬のイラストの小ぶりなどんぶりにスープを入れ、時間ぴったりに茹で上がった麺を入れ、適度な量のメンマ、チャーシュー、ねぎの細切りを乗せ、生姜のしぼり汁も適量かけて完成した。
「おまちどうさま」と美香専用ラーメンを出した。
「いただくわ」と香りを嗅いで、ちょっと笑顔になる。
ラーメンを食べ始めた美香は、時折顔を上げ沢村を見たりしながらも一言もしゃべらずに食べきった。スープも飲み干した。
「ふぅん、まぁまぁね」とコップの水を飲む。
「そ、そうですか。ありがとう」と全部食べきってくれたことに一安心していた。
うれしくなって美香に言う。
「今度また作らせてくれるかな?」
美香は沢村を見てから厨房の寸胴鍋などを眺めて言った。
「スープを作れてこそ一人前なんじゃないの?」
その言葉に心臓が止まった思いがした。
美香は引きつった笑みを浮かべる沢村を見て続けた。
「ま、おじいちゃんの味を出すなんてできないと思うけど」
沢村はやっと息をして気を取り戻す。
「そ、そうだね。がんばってみるよ」
美香が帰った直後、ちょうど店長が戻って来た。いつもと違い手に袋を持っていない。
「お帰りなさい。今日はパチンコ行かなかったんですか?」
店長は肩を落とし悔しそうな表情をしている。
「まったく出んかったんよ。ツキも無くなってきたかのう」
「さきほど美香ちゃんが来てたんですよ」
「そうだったんか。あー、早く戻っておればよかったのう」
「私がラーメンを作って出しました。ちゃんとあのどんぶりで」
「そうか、そりゃあよかった」
「まぁまぁと言われてしまいましたけど……」と苦笑いを浮かべる。
店長はふっと笑顔になって言った。
「美香のまぁまぁは合格って事なんよ」
「そうなんですか?」
店長は部屋に入って行き、調理服に着替えて厨房に戻って来た。
沢村は、店長の方を向いてゆっくりと話す。
「店長、スープ作りを教えて欲しいんです」
「そうか、分かったよ」
「ありがとうございます!」と頭を下げた。
店長はうなづいた。
「いつ言ってくるかと思ってたんよ」
沢村は頭を上げながら続ける。
「私はこの店でずっと働きたいです。だから、店長のラーメンを自分で作れるようになりたいです」
店長はちょっとうれしそうな表情をしている。
「そうしてくれると俺も助かるよ。でもな……」
「でも?」と不安になった。
「時間はかかると思うよ」
「はい!」
そう答えたところで、客が来はじめた。営業再開時間になっていた。
「いらっしゃいませ」と客を迎えた。
■一九八九年三月
少し寒さが和らいできた頃、沢村はスープ作りに挑む日々を送っていた。
店長が習得用に寸胴を用意してくれた。作る量を少なくしているが、本物と同じようにダシとタレを仕込んでスープを作っては店長に味見をしてもらう。しかし、当然のように合格には至っていない。百点で合格という事で、先日もらった点数は四十五点だった。半分にも至っていないという。調理やチャーシューなどの仕込みとは習得の桁が違うと改めて気づいた。
スープ作り習得は閉店後や休業日などを使って行っていた。やみくもに食材を使ってしまうのも申し訳ないので、その分は賃金から引いてくださいと頼んだのだが、店長は笑って気にするなと言った。店長も子供の頃、父親の仕込みを見てはこっそり自分で仕込みを試していたそうだ。実はそのことを父親は知っていたのだが何も言わなかったという。
店長はあまり細かな事までは教えてくれない。やはり見て盗むという事が重要なのかもしれない。
今日は休業日なので、沢村は早朝からスープの仕込みを始めた。
ダシを作り始める。寸胴に湯を沸かし、血を抜いたゲンコツ、鶏ガラモミジを入れる。アクを丁寧に取る。中火にして丸鶏を入れ、玉ねぎ、にんにく、生姜を入れた。ダシに入れる生姜は匂い消しが主な用途となる。長ねぎを入れ、弱火にする。
タレも作り始める。鍋に淡口醤油、すりおろした生姜、日本酒、みりん、塩、にんにく、昆布を入れ、火を付ける。このすりおろした生姜は加熱しタレに溶け込ませ、体を温める効果も出すためだ。
ダシにサバ節を投入し、しばらく煮込む。
昼頃、店長が二階から下りてきた。
「おはようございます店長。味見をお願いします」
「あー、うん」とちゃぶ台の前に座る。
沢村はスープを入れたお椀をちゃぶ台に置く。
店長はお椀を持ち、香りを確認した。表情は変化しないので何とも分からない。
スープを一口すすった。目線を左右に動かしながら味を確認している。こちらも表情が変化しないので何とも分からない。
お椀をちゃぶ台に置き店長が言う。
「少し近づいたね」
「本当ですか。何点でしょうか?」
「四十八点かのう」
愕然としたが、前回より三点上がっているから良しとするしかない。
店長の味と全く同じであるとはいえない事は自分でも分かっていたが、そこまで低い点数とは思っていなかった。
「アク取りはやっているかい?」
「はい。入念にやっているつもりですが。もっと意識してみます」
わずかな違いを見出そうと、毎日店長の仕込みを観察する日々を送っていく。
■一九八九年四月
この時代に来て以来、買い物をした時に感じていた違和感にやっと気づいた。消費税がなかったのだ。
四月一日から三%の消費税が導入された。今思うとむしろ安く感じるが、この当時は結構大きな事で、導入前にまとめ買いなどする人もいた。
「そんなん取れないよ」と店長は言い、消費税はもらわず値段は据え置きでいくとのことだった。
客からも歓迎されていた。沢村も思い返してみると、値段が上がった記憶は無かったのでありがたい事だなと思った。
スープの点数は五十五点まで上がっていたが、まだまだである。
休業日、たまには息を抜いたらどうだと店長に言われ、スープ作りは休んでまた秋葉原を散歩した。たまには他の街にも行ってみようとも思ったが、まだまだこの街を見ていたい思いもある。とはいえ、大体同じような場所に行っている気もする。
この時代に来てからまだ行っていなかった家電量販店に入り、エスカレータでゲーム売り場のフロアに行ってみる。
ここも試遊コーナーがあり、男子高校生や、スーツ姿のサラリーマン風の男がゲームで遊んでいた。
ふと端にある画面を見ると、『スペースハリアー2』が映っている。ゲーム機はメガドライブだ。しかし、さきほどからすぐ被弾してゲームオーバーになっては最初からプレイを繰り返している。もしかしてと思いプレイヤーを見ると、やっぱり美香だった。口を尖らせている。
とりあえず助言をしてみる。
「円を描くように動かしてみて」
美香は一回沢村を見たがすぐに画面を見る。指示通りに円を描き続けるように自機を操作し、敵弾に当たらずに進行できている。中ボス戦に入った途端、連続して被弾しゲームオーバーとなってしまった。
「やってみて!」と美香は口を尖らせてコントローラを沢村に渡す。
沢村はプレイをしながら美香と話す。
「この店にも来ているのかい?」
「そうよ。いろんなとこに行ってる」
「家にはゲーム機は無いの?」
「買ってくれないもん。ゲームするとバカになるって」
沢村はショックで敵弾をくらう。
「はは、まぁ、やりすぎるのもね……」
「弟子おじさんはどうしてゲームが上手いの? ゲーム機持ってるの?」
「あー、持ってたけど今は無いというか……」
「ここどうするの?」
中ボス戦に入っていた。
「ここもまずは弾を避ける事をまずやって、この敵の頭を狙えばいいよ」
沢村は中ボスを倒した後、コントローラを美香に渡す。
「まだ家に帰らなくてもいいのかい?」
美香はコントローラを操作しながら言う。
「家に誰もいないもの」
「そうかい。パパとママの様子はどうだい?」
「相変わらず仲が悪いみたい。夜中にケンカばっかり」
「そう……。仲良くなるといいね」
「ねぇここはどうするの?」
「あー、柱とかの障害物を避ける事に集中してみて」
「分かった」
その後、別のゲームなども一緒に遊んだりして、美香は家に帰って行った。
■一九八九年五月
市場が閉場してしまったが、配達してもらう形で野菜類の仕入れは継続できていた。
まだ市場の建物自体は残っているらしい。
「六十五点かのう」
徐々にではあるが点数が上がって来た。一般的には六十点は及第点だと思うので、おおむね合格の範疇に入ったと言えるのではないか。
休業日の朝。いつものように、ちゃぶ台を挟んで店長と沢村が座っている。
沢村はちょっとほっとしつつも、まだまだ先は長そうだと思った。
「雑味は減ってきたのう」
「はい、アクはしっかり取っています」
「煮込み時間は大丈夫かい?」
「はい、火加減と煮込み時間も正しくやっているとは思うんですが……」
「気温も考えてみてな」
「あ、確かにそうですね。暖かくなってきましたし」
自分の観察が甘かったと思った。仕込みは毎日見ているが、この店で働き始めた頃、冬の真っただ中に測った時間を引きずっていた。今はもっと暖かくなっている。店長は毎日、その日の気温によって煮込み時間を微妙に変えていたのだ。
ちょっとぞっとしてきた。
沢村はこの日の午後、また気晴らしに秋葉原の街に出た。
何気なくゲームセンターの前までくると、入口脇に置いてあるUFOキャッチャーを背伸びして覗いている小学生らしき女の子が目に入った。美香である。
沢村が近づいて見てみると、美香は景品である犬のぬいぐるみをじっと見つめている。
「やってみたいかい?」と声を掛ける。
美香はぱっと沢村の方を向いて驚いたような表情をすると、ちょっと笑顔になった。
「でも、やったことない」
「やってごらん」
百円玉を二枚投入した、三回できるようだ。
「えっえっ、難しそう」
美香は緊張した面持ちで横移動ボタンを押した。アームが移動していくが、犬のぬいぐるみを通り越してしまう。
「あっ」
「ボタンを離すと止まるよ」
美香がボタンを離し、アームが停止する。
「次は奥方向だね」
美香が次のボタンを押すとアームが奥方向に移動する。いろんなぬいぐるみがある場所でアームは停止し、つかみ取る動作に入った。クマのぬいぐるみがわずかに引っかかったが、すぐ外れて何もつかんでいないアームが元の位置に戻った。
「まだできるよ」
「うん」
美香は再度ボタンを押し横方向にアームが移動した。犬のぬいぐるみの位置でピタリと停止した。次に奥方向に移動し、犬のぬいぐるみの上方で止まった。これはいけるかもしれないと思ったが、アームは犬のぬいぐるみを持ち上げはしたが、ぬいぐるみが傾いていき落ちてしまった。
「あーもう!」美香はいらだっている。
「美香ちゃんうまいよ。落ち着いてみて」
「でも落ちちゃう!」
「ぬいぐるみの重心をつかむといいんだけど、頭に近いほうのおなかあたりだね」
「やってみる」
美香は一回深呼吸してから挑んだ。横方向はさきほどと同様にピタリと止め、奥方向では重心と思わしき位置にもピタリと止めた。アームが犬のぬいぐるみをつかみ、持ち上げた。落ちていない。そこから排出口へアームが移動する。ゆらゆらと揺れるのでいつ落ちてしまうか緊張の時間だったが無事排出口まで到達し、ぼとんという音がした。
美香は犬のぬいぐるみを取り出し、満面の笑顔となった。
「やったぁ!」
「初めてで取れちゃうなんてすごいよ」
美香は笑顔でぬいぐるみを抱きかかえている。
「弟子おじさんが教えてくれたからだね。ありがとう」
こんなにもうれしがってくれて、沢村もどこか救われたような思いがした。
■一九八九年六月
休業日。ちゃぶ台を挟んで店長と沢村が座っている。
スープを飲み干してから店長が言った。
「八十点は行っとると思うよ」
店長の言葉に沢村は舞い上がった。
「ありがとうございます!」
「いや、合格じゃないからのう」
「でもうれしいです。点数が上がってくるのは」
店長はにこりとしてから言った。
「食材の下処理を見直してみるのもよいかもしれんよ」
「下処理……、わかりました。ありがとうございます」
ゲンコツや鶏ガラの下処理がまだ甘いのかもしれない。ゲンコツは髄の中の血を取り除き、鶏ガラも内臓を取り除きしっかり洗う必要がある、そうしないと臭みが出てしまう。以後、注意してみようと思う。
今日は美香と約束をしていた。前回UFOキャッチャーの前で会ったときに、美香から言われたのだ。今度ゲームボーイのテトリスが発売されるから試遊したいと。二人で対戦ができるし、いつも行っているゲームフロアの試遊コーナーで遊べるようになるって事を店員から聞いていたらしい。
とはいえ、細かな時間まで決めていたわけではないので、いるかどうか分からなかった。
最初に美香に遭遇した家電量販店のゲーム売り場に行ってみる。試遊コーナーを見てみると、学生服姿の男子中学生二人がゲームボーイで対戦プレイをしている。覗いてみるとテトリスだった。ゲームボーイ同士を通信ケーブルで繋ぐと対戦プレイができるという当時では画期的なシステムだった。
わいわい言いながらプレイしている二人のすぐ後ろに美香がいた。二人を睨んでいる。
「美香ちゃん。待った?」
「あ、ううん、待ってるのはこっちよ」と中学生二人を指さす。
「はは、順番だからね」
「ここに書いてあるでしょ。一回五分までで交代してくださいって」
「そういうルールみたいだね」
「でもね。もう十分経っているの。十分!」最後の方は大きい声となった。
その声を聞いてか、男子中学生二人はゲームボーイを置いてそそくさと去って行った。
美香はゲームボーイを手に取った。
「対戦やってみて」
ゲームボーイを手に取った。美香とテトリスの対戦モードをプレイし始める。モノクロでシンプルな画面はどこか懐かしい。
しかし、美香のプレイはめちゃめちゃですぐ自滅してしまう。
「美香ちゃん、テトリスやったことあるの?」
「ないわ」
沢村は手を止め、どう説明しようか考えた。
「横一列にブロックが並ぶと消えるから」
「うん」
「ボタンを押すとブロックが回転するから」
「うん」
ようやく一列消すことができた。
「それは左端に置くといいよ」
「うん」
なかなか飲み込みがよく、一度に二列消す事ができた。
「へぇ、なかなかうまいよ」
「そう?」と少し笑顔になる。
後ろから「まだかなぁ」という小さな声が聞こえた。ちゃんと時計を見ていなかったが、かれこれもう五分は過ぎているはずだ。
「美香ちゃん、交代の時間だよ」
「えっ……、そう」
ゲームを終了させてその場から離れた。
「またやるわ」と列の最後尾に美香が並ぶ。
「そうかい?」と苦笑いで付き合う。
「ゲームボーイ買ってもらっている子増えているのよ」
「あーやっぱりそうなんだね。スーパーファミコン持ってる子も多いかい?」
「スーパー? ファミコンでしょ?」
「あっ……、そうそうファミコン」
「うん、ファミコン家にある子は多いと思う。あたしの家にはないけど」
あぶなかった。スーパーファミコンはまだ発売されていないようだ。いつだったっけと思ったが、ググる事もできない。
その後、テトリスをプレイしては並び、プレイしては並びを五回ほど繰り返した。
美香の上達には驚かされた。最後の方は沢村も手を緩めず対戦している感じになった。
ゲームを楽しんでいる美香は笑顔を見せていたが、家に帰っていく際、ふと寂しそうな表情になったのを沢村は見た。
後ろ姿に向かって黙って手を振る事しかできなかった。
美香のランドセルに犬のぬいぐるみがぶら下げてあるのが見えた。UFOキャッチャーで取ったぬいぐるみである。
(つづく)
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