第3話 修行開始!

 沢村は暗い森の中を一人彷徨っていた。右を見ても左を見ても木々が覆い茂っており、森を抜けられない。

 完全に迷子になったらしい。もう何時間歩いているのだろう。足がへとへとになり地面にへたり込んでしまう。恐ろしいまでの寂しさが襲ってきて頭を抱える。

 もうこれまでかと思ったとき、ふと人の声が聞こえた。前を見ると、森の先にわずかに光が差し込んでいるのが見えた。

 立ち上がりその光へと駆け出した。また声が聞こえた。間違いない、自分を呼んでいる声だ。沢村は光に飛び込んだ。


「おいあんた、何しとるん?」

 眩しい光の中に黒いシルエットが見える。そのシルエットは人の形のようだ。

 沢村はがばっと上半身を起こした。ちゅんちゅんと雀のさえずりが聞こえる。狭いところに自分がいることに気づく。

 目の前に初老の男性が立ってこちらを見ている。どこか見覚えがある。

「こんなとこで寝とったんかい?」

 その男性がそう言うので、確かに自分は寝ていたんだなという事を認識した。しかし誰なのだろうか。

「ありゃ、泣いとったお客さんかい?」初老の男性は顔を近づけた。

 沢村を全てを理解した。そうだ、ここで寝てしまったのだった。目の前にいるのは『いずも亭』の店長だ。

「よう分からんけど、飲みつぶれでもしたのかい? 風邪ひくよ」店長は不思議そうな顔をしている。

「す、すみません。すぐどきますので……」ばたばたと段ボールや新聞紙をまとめ始める。

 店長は立てかけてある箒とちりとりを取り、店の前を掃除し始めた。沢村はぼうっとしながら店長の背中を眺める事しかできなかったが、ふいに我に返り、立ち上がった。

「お店のお手伝いをさせてもらえないでしょうか?」

「うちは雇ってないんよ」店長は背を向けたまま言う。

「『いずも亭』のラーメンが大好きで、いつも食べてました!」

 店長は掃除の手を止め、沢村の方を振り返りその顔をじっと見つめた。

「それにしちゃ見ない顔だねぇ。そんなに来てたかい?」

「えっと、来てます来てます。普段はもっと若々しいんです」

 店長は首をかしげ、掃除を続行しようとする。しかし、ぴたりと動作が止まり、腰に手をあてた。

沢村は咄嗟に店長の側に駆け寄った。

「大丈夫ですか?」

「うーん、大丈夫。たまに腰がな……」

「貸してください」と店長から箒とちりとりを受け取り、店の前の掃除を始める。

「すまんの」

 店長は側に置いてある空の醤油缶の上に腰を下ろす。

「ゴミはここでいいでしょうか?」

「ああ」

 ちりとりに集めたタバコの吸い殻などを、店の脇にあるごみ箱に入れる。

「仕事はしていないのかい?」

「はい。実はリストラされてしまって……、家賃滞納でアパートを追い出されたんです」嘘も方便と割り切った。

「りすとらって何だい?」店長はきょとんとしている。

「ああ、えっと、首ですクビ」

「そうかい、それは難儀だねぇ」

「昨日いただいたラーメンが最後の晩餐です」

 何を言っているのか自分でも良くわからないが、事実と言っても間違いではないだろう。

 店長はわずかに笑みをもらしたように見えたが、腰に手をあてると何か考えているような表情をした。

 そしてゆっくりと立ち上がり、店の方に歩き出す。

「とりあえず入るかい?」

「は、はいっ!」

 店の左側にも人一人が通れるくらいの通路があり、少し奥に勝手口のようなドアがある。店長はドアを開け店の中に入っていき、沢村もそれに続く。

 そこは厨房だった。カウンター越しにシャッターが下りているのが見える。棚に置いてある小さな時計が目に入った。朝の五時前である。

 店長は厨房奥にある引き戸を開けた。

 引き戸の先はまず靴を脱ぐ場所になっており、一段上がったところは四畳半程度の畳敷きの部屋になっていた。ちゃぶ台と座布団。十三インチほどのブラウン管テレビ。灯油式のストーブには火が入っている。向かって右側には二階に上がる階段があった。

 店長は部屋に上がり、ハンガーに掛けてある白い調理服に着替えた。

「そこで休んでな。手伝ってもらいたい時に声かけっから」

「えっ、あ、ありがとうございます!」と何度も頭を下げる。

 それはつまり雇ってもらえるのかもと期待が高ぶった。

「もしかしてこれから準備ですか?」

「そうだよ」

「見てていいでしょうか?」

「かまわんよ」

「ありがとうございます!」

 沢村はリュックを部屋に置き、厨房の方へ戻った。


 店長は黙々と準備を進めた。

 冷蔵庫から鶏ガラや野菜など取り出し調理台に並べた。大きい鍋に湯を沸騰させ、豚のゲンコツと鶏ガラを入れ、しばらく経ってから取り出し水に入れた。ゲンコツは豚の大腿骨のことだが、その中の血を抜き、鶏ガラは流水で洗いながら内臓を取り除いている。

 ダシを作り始めたのだ。

 店長は大きな寸胴鍋に水を入れ沸かし、ゲンコツを入れた。強火で沸騰させている。水をさらに追加し、鶏ガラと足の部分であるモミジを入れた。沸騰したところで丁寧にアクを取っている。

 中火にしてしばらく鍋を見つめた後、再びアクを取る。

 またしばらく鍋を見つめ、三回目のアク取りをしたかと思うと、丸鶏を入れ、玉ねぎ、生姜、にんにくを入れた。

 さらにアク取りをした後に長ねぎの青い部分を入れて、弱火にした。


 沢村はふと時計を見た。準備開始から既に一時間以上経っている。

 店長はダシの寸胴鍋から離れ、別の鍋をコンロに置き、棚から醤油や日本酒などいろいろ出してきた。

 おそらくタレを作るのだ。

 鍋に淡口醤油、すりおろした生姜、日本酒、みりん、塩、にんにく、昆布を入れコンロの火を付ける。ゆっくり混ぜながら加熱していく。

 しばらくして店長は左手小指を湯にちょんとつけ、おそらく温度を確認した後、煮干しを入れ火を止めた。

 また別の鍋を出してコンロに置いた。料理酒、醤油、砂糖、にんにくを入れる。

 冷蔵庫から豚肉らしきものを出してきたので、今用意していたのはチャーシューのタレだと沢村は思った。

 豚肉を糸でしばり、沸騰した湯に入れた。再沸騰したら肉を上げ、先ほど用意したタレの鍋に入れた。沸騰させないように火加減を弱火にしているようだ。

 ここで店長は最初のダシの寸胴鍋に戻った。かつお節、いや違う、サバ節を包みに入れたものを投入した。


 突然、ドアをノックする音が響いた。

 店長がドアを開けると、「三河屋でーす」という声が聞こえた。

 木の桶がいくつか運び込まれた。この店は麺は自家製ではなく製麺所のものを使っている。当時、麺が並んだ木の桶に『三河屋』と書かれていたのを思い出した。

「ありがとね」と店長が伝票にサインし、配達人が出て行った。

 入れ替わりのように、また別の配達人が現れた。野菜をはじめ、鶏ガラなどの材料を受け取っている。店長は鶏ガラの袋を開けて確認している。

「ありがとね」

 配達人が出て行き、店長は品々を冷蔵庫や冷凍庫にしまっていく。

 店長はドアの外に一旦出てから新聞を手に持って戻って来た。

「ひとやすみ」と店長はそのまま奥の部屋に上がり、座布団に座って新聞を読み始めた。

 沢村も部屋に上がり、ちゃぶ台を挟んで座布団に座る。

 時折、高架を走る電車の走行音が聞こえる。それほどうるさいほどではない。

 部屋の隅にあるブラウン管テレビを見つめ、ちょっと懐かしい気持ちになった。大学時代に一人暮らしをしていた頃は部屋にブラウン管テレビがあった。その後液晶テレビが普及し始め、地デジでハイビジョンの時代になった。地デジっていつから始まったんだっけ。

「付けていいよ」と店長の声がする。

「あ、すみません、では……」とテレビのスイッチを入れると数秒経った後に画面が表示された。

 朝のワイドショーらしく、話題はやはり『平成』のようだ。司会者とコメンテーターが平成になってどうのこうの話している。しかし、画面がぼやけて見える。ハイビジョンに慣れてしまったせいかもしれない。

 ふと店長が立ち上がって厨房へ行き、少し経った後に急須を持って部屋に戻って来た。ちゃぶ台に二つの湯飲みを置き、そこに急須からお茶を注ぎ、一方を沢村に出してくれた。

「お前さんはどう思うかい?」

「はい? あっ、ありがとうございます!」

「へいせいだよ平成。今日からだろう?」店長はお茶を一口飲む。

「あ、そーですね。なんというか、大変な事もありますが、いい時代だったと思います」

「だった?」

「あーいえ、平和っぽくていいのではないでしょうか」

「うーんそうかい。確かに平和っぽいかもしれんねぇ……」

 店長はまた新聞に目を戻した。

 沢村は湯飲みのお茶を飲んだ。とてもおいしい。ペットボトルのお茶はよく飲んでいたが、茶葉から急須で淹れるお茶のおいしさを改めて感じた。


 休憩が終了し、仕込みの続きとなった。テレビのスイッチを消して厨房の方へ向かう。

 店長はタレの入った鍋を冷蔵庫にしまい、代わりに別のタレの入った鍋を出してきてコンロに置き火を付けた。

「寝かしているんですね」

「二日くらい寝かしとるよ」

 ラーメンのスープは基本的にダシとタレを混ぜて完成する。ダシは豚骨や鶏ガラなどから取ったベースとなるもので、タレは醤油や味噌など味の元となるものだ。この店ではタレは仕込んだ後に二日ほど寝かせているということである。

 先ほど仕込んだチャーシューの入った鍋も冷蔵庫にしまい、代わりに既に出来上がっているチャーシューの入った鍋を出してきて調理台に置いた。

「チャーシューはどのくらい寝かしてるんですか?」

「半日から一日ってとこかね」

 店長は空のボウルと、生姜が山盛りに入ったボウルを出してきた。おろし金や小皿なども調理台に置いている。

「生姜しぼり汁ですね」

「お前さんよく知ってるのぅ」

「そりゃあ、しょっちゅう来てますから」

「それにしちゃぁ見ない顔だねぇ……やっぱり」

「あ、い、いつも顔伏せながら食べてますから」

「まぁ、俺もお客さんの顔みんな覚えているわけではないからなぁ」

「て、手伝いますよ」

「ん、そうかい。最初俺やっから見ててな」

 店長は生姜を手に取り包丁で皮を剥き、おろし金ですりおろした。何個か繰り返し、小皿にたまったものを薄い布で包み、ボウルの上で絞った。しぼり汁がボウルに溜まる。

「この辺まで溜めてみてくれるかい」店長はボウルの高さ三分の一くらいのところを指さした。

「わかりました!」

「おっと。まず手を洗いな」と店長は調理台の蛇口の方を指さした後、奥の部屋の方に入っていった。

 とりあえず手を洗い、置いてあるタオルペーパーで手をふいた。

 店長の「ちょっと来んさい」と言う声が聞こえたので部屋の方に行くと、店長が何やら白い衣服を持っていた。

「これ着といてな」

「は、はい!」

 渡されたのは白い調理服である。上着を脱いで調理服を着た。こういう衣服は小学校の時の給食当番の時以来だろうか。背筋がピンとする思いがする。


 沢村は生姜しぼり汁をせっせと作っていった。一応自炊もしていたので包丁もなんとか使えた。

 店長はまた別の寸胴鍋に水を入れ、火をつけた。

 冷蔵庫から長ねぎを出してきて、包丁で細切りにしてはタッパーに入れていく。

 先ほど出していたチャーシューの紐を外し、包丁でスライスして別のタッパーに入れていく。

それが終わると冷蔵庫からメンマの入ったタッパーを出してきて調理台に置いた。


 生姜しぼり汁がボウルに溜まってきた。

「このくらいでいいでしょうか?」

「おう、十分だね」と店長は小指をボウルに入れて生姜しぼり汁をペロリと舐めた。うん、とうなづく。

「じゃぁ、調理すっからとりあえず見ててな」

「はい!」

 店長は木の桶から麺を一束つかむと『てぼ』に入れ、沸騰した寸胴鍋の縁に柄を引っかけるようにして湯に投入した。沢村は心の中で秒数を数え始めた。

 どんぶりを調理台に置き、鍋から小さいひしゃくで一杯タレをすくい、どんぶりに入れた。続けてダシの鍋からお玉で一杯すくい、どんぶりに追加する。ほんわかと湯気が立つ。

 その後、しばらくじっと立ったままでいたが、突然麺を鍋から上げ、湯切りをしてどんぶりに流し込んだ。

 菜箸で麺の配置を整え、タッパーからチャーシュー、メンマ、ねぎの細切りを乗せた。そして最後に沢村が用意した生姜しぼり汁を大匙ですくい、さっと円を描くようにかけた。香りが充満する。

「これは朝飯だ。食ってみい」

「えっ、いいんですか?」

 奥の部屋のちゃぶ台にラーメンを置き、二人は向き合うように座った。

「いただきます!」

 腹が減っていたのもあるが、再びこのラーメンが食べられて幸せな気分に浸り、あっという間に平らげた。

「ごちそうさまです!」

 店長はこくりとうなづく。

「じゃぁ俺の分を作ってみてくれるかい」と顔を厨房の方に向けた。

「えっ!」

「見てたから分かるだろう?」

「あ、はい! 作ります!」と立ち上がり厨房に向かった。

 調理台の前に立ったとたん、やばいと思った。これって試験か何かで、ダメなら働かせてもらえないのではと。

 ちらりと部屋の方を見る。店長は新聞を読んでいる。一人でやってみろという事だ。

 大丈夫だ。先ほど店長が調理しているのをじっくりと見て工程は全て頭に入っている。

 高架を走る電車の走行音が少し響いた。

 深呼吸をしてから調理を始めた。

 

 ラーメンが完成した。

 こっそり一口食べてみる。うん、先ほど店長が作ったのと同じと言っていいものが出来た。うまい。

「おまちどうさまです」

 沢村は、お盆にラーメンを乗せ部屋に入っていった。お盆には割り箸、れんげ、水の入ったコップも乗せている。恐る恐るラーメンをちゃぶ台に置き、店長の向かいに座った。

「うん」と店長は新聞を畳に置き、まずラーメンの香りを確認した。

 無表情だったのでその結果は分からない。

 続けて、れんげでスープを一口飲んだ。一瞬間があったのち、割り箸を割って麺をすすった。もぐもぐと噛んでからまた間があった。その後は滞らずに食べ続け、スープも残らず飲み干した。

「ど……、どうでしょうか?」と勇気を出して聞いてみる。

「うん、まぁまぁかねぇ」と店長はまた新聞を読み始めた。

 これは良い結果なのではとうれしい気持ちになったが、続けて店長が言った。

「茹で時間はどんくらいかい?」

「えっ、二分二十秒です」

「なるほどなぁ」

「えっ……」

「開店準備するよ」と店長は立ち上がり厨房の方へ向かった。

「は……、はい!」と後を追う。

 

 時計を見ると、十一時少し前だった。そうだ、朝十一時開店なのだ。

 沢村はカウンターや椅子を布巾で拭き、テーブルの箸入れに割り箸を補充し、どんぶりの用意などをする。

 店長がシャッターを上げようと屈みこんだかと思うと、腰に手をあてた。

「シャッター上げてくれるかい」

「あ、はい」とシャッターを上げる。

 まばゆい光で店内が明るくなる。見上げると青空が広がっている。

 店長は券売機に食券とおつりの補充をしている。

「ラジオもつけてくれるかい」

 レトロなラジオのスイッチを入れると、音楽が流れてきた。美空ひばりの「川の流れのように」だ。この頃から流れていたのかと思うのと同時に気づいた。三十年後も名曲として残るこの曲が、最後のシングル曲になることを。


 さっそく客が来始めた。

 今日はとりあえずどんぶり洗いとかやってろと言われたので、沢村は厨房奥のシンクの前に立った。

 客が次々と来て、いつの間にか行列ができていた。

 店長はいつもの手さばきで調理してはラーメンを出していく。客の座った場所と食券が並なのか大盛りなのかを記憶し、場合によっては券売機でどちらを購入したかまで見て、次に席が空くまでの時間を先読みしつつ麺を茹で始める。複数のてぼを寸胴に引っかけ同時に麺を茹で、それらをそれぞれのタイミングで湯切りしてはどんぶりに入れていく。

 行列ができるものの、回転がよいのでそれほど待たないのがこの店の良さでもあるのだ。それは店長の技のなせるところだ。


 沢村はそんな店長の動きを観察しつつ、どんぶりを洗っては拭いてを繰り返している。

 食べ終わったどんぶりを回収するために、カウンターに出て行った。

「あれ、弟子は取らないんじゃないの?」と中年の男性が沢村を珍しそうに見てから店長の方を向いた。

「ちょっとしたアルバイトってやつですよ」と店長は笑っている。

 沢村はその客に「どうも」とおじぎをしてどんぶりを持って厨房に戻った。

 確かにずっと一人で店を回してきたのだから珍しがられてもおかしくない。

 ラジオからはニュースが流れていた。やはり『平成』の話題である。

「店長はどう思うかい?」さきほどの客がラジオの方を一目見て続けた。

「何をですかい?」

「平成だよ。へいせい」

 店長は調理の手は止めずに少し考えているしぐさを見せる。

「まぁ、平和そうでいいんじゃないですかねぇ。はい、おまちどうさま」と出来たラーメンを別の客に出した。

「平和ねぇ。確かにそんな響きがあるね」

 他の客もうなづいたりしている。


「休憩時間に入っから」と店長は紐のついた厚紙を持って来て、カウンターの上からぶら下げた。

 厚紙には『午後五時くらいから』と文字が油性マジックで書かれている。

 沢村はこの文字を思い出した。当時、バイトに行く前に店に寄った時、この文字を見てがっかりした記憶がある。午後三時から五時くらいまでは休憩時間なのであった。

「俺は飯食いに行くけど、どうする?」調理服を脱ぎながら店長が聞いてきた。

 もしかして奢ってくれるかもしれないと期待でいっぱいになったが、それよりもやりたい事があった。

「あの……、ラーメン作って食べてもいいでしょうか?」

「かまわんけど、朝も昼もじゃ飽きねぇかい?」

「飽きるなんてありません」

「まぁ好きにしてな」と店長は店を出て行った。

 沢村は分かった事があった。麺の茹で時間は二分二十秒ではなく、二分十五秒なのだ。今朝、店長の調理を見ながら脳内で時間を計っていたが間違っていた。店長はこの五秒の差を見抜いていたのだ。しかもタイマーなどをいっさい使わない。店長の麺を茹でる様子を見つつ時計をちらちらと覗きながらその時間を計ることができたのだった。

 沢村は改めてラーメンの調理を始めた。どんぶりにタレとダシを入れ、麺を茹で始める。茹で時間はジャスト二分十五秒。時計を見ながらきっちり計った。完成したラーメンを食べてみた。微妙ではあるが、今朝自分が作ったものより歯応えがちょっと違っているように思える。

 その後、箸立ての箸の補充をはじめ、メンマやチャーシューのタッパーを確認し冷蔵庫から追加。ダシやタレの状態の確認などをしていった。


 自分にできることは一通りし終わり、部屋でテレビを見ながらくつろいでいると、店長が戻って来た。

「ありゃ、準備してくれてたんかい」

 店長は両手いっぱいに膨らんでいるポリ袋を持って来ては、部屋の畳の上に置いた。

「はい。タレを補充したほうがいいと思ったのですが、分からなかったのでやってません」

 沢村は二つのポリ袋をしげしげと見る。

「それは何です?」

「あー、景品さ。パチンコ寄ってたんでな」

 ポリ袋の中身が透けていたりはみ出しているので分かるが、缶ビールやせんべいや菓子などが詰まっている。

「えっ、この時間でこんなに?」

「まぁ、ついてたな」

 店長は缶ビールを厨房の業務用冷蔵庫に入れた後、また白い調理服に着替えた。

「じゃぁ、そろそろ再開すっかね」

「はい!」

 厨房に出て驚いた。既に行列ができている。

 その後は、落ち着いて業務をこなしていった。

 ただし、一回だけどんぶりを落として割ってしまった。割れる音に客が驚いていたが、店長が「俺もよく落とすよなぁ」と言って笑いを取っていた。

「よし、閉店とすっかぁね」

 最後の客が去った後、店長が沢村の方を見て言った。

「はい!」

 店長は寸胴の処理や調理器具を洗い始めた。

 沢村はどんぶりを棚に並べ、店内の掃除などをする。

 シャッターを閉め終わると、手がひりひりした。どんぶりを洗ってばかりだったので手が荒れたようだ。

 ふと、魚が焼けるいい香りがしてきた。

「晩飯だ」と店長の声が部屋の方からする。

 部屋に上がると、焼き魚とごはんとみそ汁が用意されていた。ありがたくいただく。

「どんぶり洗いは慣れたかい?」

「はい。でも、どんぶりが随分多く用意されてますね」

「そりゃ、急いで洗わないでいいからな」

「あー、確かに」

 客の絶えないこの店を一人で回すにはどんぶりをいちいち洗ってはいられない。数多く用意しておけば問題ない。おそらく普段は休憩時間の間にまとめて洗ったりするのだろう。


 晩飯を食べ終わり、沢村が食器洗いをしていると店長が声を掛けてきた。

「この部屋で寝泊まりしていいから。布団とかは押し入れにあっから自分でやってくれ」

 心からありがたいと思った。正直、不安でいっぱいだったのだ。住まわせてくれるとまでは言われていなかった。

「ありがとうございます!」

 二階へ上がっていく店長を見送った後、部屋に布団を敷いた。

 パジャマなどは無いので、Tシャツとパンツ姿になる。

 ふと自分のリュックからスマホを取り出して電源を入れてみる。日付は二〇十九年一月七日のままで、圏外となっている。部屋に貼ってあるカレンダーを見ると、一九八九年一月となっている。スマホの電源を切り、そっとリュックに戻す。

 少しの間、布団の上に座り、昨日から今日までの事を思い返していた。

 しかし、どっと押し寄せてきた眠気によって、沢村は布団に倒れこんだ。

 本当の本当に三十年前に来てしまったのだろうか。そんな事は現実にはありえないはずだ。何か幻覚を見ているのだろうか。いや、夢を見ているのかもしれない。そんな事を考えながら沢村は深い眠りについた。


(つづく)

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