第2話 いずも亭へGO!

■一九八九年一月


 秋葉原駅の改札付近の壁に寄りかかり、沢村は新聞をじっと見ている。どのページの日付も『一九八九年(昭和六十四年)一月七日』となっている。一面には『天皇陛下 血圧低下 酸素吸入継続』といった見出しの記事が書かれている。

 そうだ、この日のことは覚えている。大学時代、アパートでテレビのニュースを見ていた。天皇陛下崩御と新元号の『平成』が発表された日である。

 自分はその日に来てしまったのだろうか。SFは好きだが、これはタイムトラベルに該当するのか。意図せず跳躍する場合はタイムスリップと言うとか何かで聞いたことがある。なお、タイムリープとは過去や未来の自分自身の意識に跳躍することを指すらしい。タイムリープはその空間に自分は一人しかいないが、タイムトラベルやスリップはその空間に自分は二人存在することになる。つまりこの世界には大学時代の自分がいるのだろうか。

 たまにリアルな夢を見ることがある。見知らぬ街や建物内を歩いたりするのだが、空気の温度感や足元の感触、環境音なども現実と変わらないのだ。今の自分もこのリアルな夢の中にいるのだろうか。そういえば以前、夢の中でこれは夢だと分かった事がある。だったら何してもいいはずだと思い、目の前の道路に飛び出して車に跳ねられてやろうとしたが、結局できなかった。夢の中でも怖いものは怖いのだ。


 考えていてもどうしようもないと思い、秋葉原の街を歩いてみることにした。

 中央通りを再び歩くと、パソコン専門店が目に入った。

 ふらりと店に入ると、まるで博物館に来たかのような衝撃を受けた。横長の本体の上にブラウン管のモニタが置かれた、かつての定番スタイルのパソコン。モニタと本体が一体となったもの。なんとポケコンもあり、昔これでプログラムを作っていた事を思い出した。ふと横に目を向けると、真っ黒で縦型のパソコンが目に入る。『マンハッタンシェイプ』と呼ばれるスタイリッシュなデザインで脚光を浴びた名機『X68000』である。当時、サークル部屋に一台置かれており、奪い合うように使ったものだ。

 パソコン店を出て再び中央通りに出ると、沢村は空腹である事に気づいた。そういえば昼食を食べていなかったではないか。周囲を見回すが食べられる店が見当たらない。ラーメン屋でもあればいいのにと思った瞬間、稲妻にでも打たれたかのような衝撃が脳内に走った。

 あるはずだ。この時代ならば。そう、あの『いずも亭』が。

 思わず駆け出していた。


 中央通りをそのまま南方向に走り、万世橋を渡ってすぐ左の道に入っていく。前方には電車が走る高架があり、そのすぐ側に見覚えのある光景が見えた。行列である。

 その行列に近づき足を止め、息を切らしながらその店を見た。

 『いずも亭』と書かれた掠れた看板。カウンター席が五席のみの、こじんまりとして飾り気のない佇まい。カウンター奥で一人黙々と調理をしている店長。白い調理服を着ている。年齢は六十代くらいだろうか。きびきびと動き、若々しく見える。

 レトロなラジオが厨房の棚に置かれており、ニュースが流れている。やはり『平成』の話題のようだ。

 息が落ち着いてくると、店のまわりに漂う香りに気づき、脳内に電流が走った。この生姜の効いた独特の香りにいつも食欲をそそられていた。唯一無二の香りだ。

 食べ終わった客の一人が席を立った。行列の先頭にいた人が空いた席に座り、店長に食券を手渡した。そうだ、食券を先に買うのであった。

 沢村はカウンター横にある券売機の前に立った。券売機には複数のボタンがあるが、『ラーメン(並)430円』と『ラーメン(大)530円』と書かれた二つのボタン以外は無記入となっている。ビールなどのサイドメニューも無い。

 財布から五百円玉を取り出し投入口に入れようとした。が入らない。そもそも口径が五百円玉に対応していないようだ。幸い先日の忘年会の会計で小銭は結構あったので四百三十円を投入し、ラーメン並のボタンを押した。

 五名ほどの行列の末尾に並び、店の様子を眺めつつその時を待つ。回転が良いので思ったほど長くは待たない。

 右端の席が空いたので恐る恐る席に着き、食券を店長に手渡した。

「並ね」と店長は食券を受け取り、水の入ったコップをカウンターに置いた。

 店長は木の桶に並んでいる麺をつかみ取り『てぼ』に入れて沸騰している湯の鍋に入れた。『てぼ』というのは麺を茹でて湯切りに使うざるのような道具の事だが最近名称を知った。小さなひしゃくで鍋からタレをすくいどんぶりに入れる。次にお玉でダシをすくいどんぶりに入れた。

 透き通ったスープとなり、湯気とともに香りがただよう。店長はしばし茹でている麺を見ていたが、麺を湯から一気に出し湯切りをちゃっちゃっちゃと三回して、スープの入ったどんぶりに入れる。軽く菜箸で麺を整え、各タッパーからチャーシューとメンマ、刻んだねぎを乗せた。そして最後にスプーンで生姜しぼり汁をさっとかけた。

「はい」と店長が目の前にラーメンを置く。

「どっ、どうも」と妙に高い声を出してしまった。

 夢にまで見たラーメンが目の前にあるという現実が信じられず、呆然とラーメンを見つめた。

 いつまでも食べ始めない沢村を隣席の客がちらりと不思議そうに見た事で我に返り、まずれんげでスープを一口飲んだ。脳内に過電流が流れヒューズが飛んだかの如く、割り箸を取って麺をすすり始めた。

 いつの間にか目に涙を浮かべていた。


 ふと気づくと客が店長と話している声が聞こえてきた。

「最近さぁ店閉めるの早くなってねぇかい? こないだ二十時くらいに来たら閉まってたよ」左端に座っている中年男性が聞いている。

「そうかい、そりゃ悪かったねぇ。ちょっと最近腰がね……はは」店長は腰をぽんぽん叩いている。

「一人でやってんのもたいしたもんだけどさ。無理しすぎじゃないかい?」

「そうさねぇ。歳には勝てんかねぇ」

「でも早く閉められちまうとこっちが困っちゃうなぁ」

 他の客からも、ちょっとした笑いが起きている。

 この店は確か十一時開店で二十一時半頃までやっていたはずだ。そういえば当時バイト帰りに寄った際に何故か時間前に閉店していた事があったのを思い出した。臨時休業かなにかかと思っていたが、そんな状況であったのか。

「お客さん、悪いけど食べ終わってたら席空けてくれるかい?」と店長がいきなり話しかけてきたので、ぎょっとして見上げた。

「お、どうかしたかい?」と、店長は沢村の顔を見て心配そうに言う。

「え?」何がどうかしたのか分からずきょとんとする。

「泣いとったんかい?」

 沢村は気づいた。ラーメンを食べている間にいつのまにか涙を流していたのだ。慌てて頬を濡らしている涙を手で拭い席を立つ。

「ご、ご馳走様でした!」とばたばたと店を離れた。

 列に並んでいる人らに何事かというように見送られているのを背中に感じた。


 沢村は中央通りを足早に歩いていた。まだ気が動転していたが目の前の店に気づき足を止めた。ゲームセンターである。

 店内入口付近には『UFOキャッチャー』などのクレーンゲームがずらりと並んでおり、夢中になってぬいぐるいを取ろうとしているカップルを目にした。

 中学生くらいの頃まではゲームセンターは不良のたまり場と言われ、暗くじめじめしたイメージだった。沢村も親に内緒で友達とこっそり遊びに行っていたものだ。それが、ちょうどこの時代の頃から明るく楽しいイメージの場となり、アーケードゲームが急速に発展したのだ。クレーンゲームも流行し始め、女性客も増え始めた。

 二〇十九年にもなると、この時代のアーケードゲームは『レトロゲーム』と言われ、ごく一部のゲームセンターやゲーム博物館などの展示でしか遊べなかったり、たまに地方の旅館のゲームコーナーで稼働しているのを見かけると心が弾んでしまう存在となっていた。

 そのゲーム筐体の数々が今、目の前に並んでいる。

 まず目の前にある『アフターバーナー』に乗り込んだ。戦闘機のドッグファイトゲームで、座席が稼働するという体感ゲームの先駆け的存在である。当時かなり上手かったのに、あっという間にゲームオーバーになってしまった。

 そそくさと離れ次に目に入ったのはなんとゲーム業界に革命をもたらした『ウィニングラン』である。いわゆるドライブレースゲームだが、ポリゴンによるリアルタイム3D描画を実現したゲームなのだ。こちらも体感ゲームとなっており、シートが前後左右に傾くようになっている。さっそく乗り込みプレイを始める。3D描画はテクスチャの貼られていないプレーンなもので、フレームレートも低めでかなり簡素な印象を受けるが、当時は驚愕していた事を思い出した。

 階段で二階に上がると、一階にあったような大型筐体ではなく、テーブル筐体やキャビネット筐体といった椅子に座って遊ぶタイプのゲームがずらりと並んでいた。すぐ目に入ったのは『アサルト』である。SFの世界観で戦車を操作し戦うゲームだが、2D描画の拡大縮小や回転機能を持った基板を採用しており、その表現とゲーム性が相まってとても夢中になって遊んだ記憶がある。

 さっそく財布を開いたが、百円玉を使い切ってしまっていたので両替機の前まで行く。千円札を差し込んだが、すぐ戻ってきてしまった。別の千円札でも戻ってきてしまい、五千円札、一万円札も試したが同じだった。

 気づくと後ろに他の客が立っていたので慌てて「すいません。どうぞ」と両替機から離れる。その際、その客が手に持っている千円札が目に入り違和感に気づいた。印刷されている肖像画に妙な懐かしさを感じたのだ。そうだ、夏目漱石ではないか。

 いつだったのかは忘れたが、千円札も五千円札も一万円札も新紙幣に切り替わったはずだ。この時代の両替機が認識するはずもない。財布を覗き込むと、十円玉と五十円玉が何枚か残っているのが見えた。

 

 夕日に照らされた秋葉原の街並みはどこか幻想的で、まるで異世界のようだと思いながら歩く。いや、三十年も前の世界にいるのだから十二分に異世界と言っていいだろう。

 いつの間にか木が生い茂っているところに来ていた。そうだ、ここが秋葉原公園だ。道路から一段下がったところに地面があり、公園を囲むように木々が立っている。

 数段ほどの小さな階段を下りて地面に立った。夕日に木々が染まり、異世界感を助長している。

 寒い。身震いが襲ってきた。公園のすぐ近くの自動販売機に走り、財布を開けた。十円玉と五十円玉を集めて何とか缶コーヒー、もちろんホットのを買うことができた。

 公園のベンチに腰を下ろす。缶コーヒーのプルタブを引いて驚いた。プルタブが取れ、本体から分離されたのだ。かつて、プルタブは取り外すものだった事を思い出した。

 改めて今の状況を整理しようと思った。一九八九年の秋葉原にいる事はとりあえず受け入れて今後の事を考えるしかない。

 まずお金が使えないのは大きな問題だ。両替もできない。

 財布をまさぐると銀行のキャッシュカードがあった。当時からずっと同じ銀行を使っていたのでこれはいけるのではないか? カードを見ると『三井住友銀行』と書いてある。なにか引っかかったので思い出してみる。そうだ、『太陽神戸銀行』で口座を作った後、合併などしたはずだ。このカードは使えるのだろうか。口座番号は変わっていないはずだ。いや待て、偽装カードと認識されてしまうかもしれない。このカードを試してみるのは危険すぎる。

 財布をさらにまさぐると今度はクレジットカードが出てきた。しかし、確かこのカードを作ったのは社会人になった後なのでこの時代に使えるわけはない。

 そういえばこの時代の自分はどうしているんだっけ。大学の……三年生か。ということは巣鴨のアパートで一人暮らしをしているはずだ。とりあえず頼めば寝泊まりさせてくれるだろうか。いや無理だな。不審者と思われ警察を呼ばれるだろう。俺ならそうする。

 千葉の実家はどうだろうか。そう考えたとき沢村はある事に気づいた。

 この世界では、母は生きている。

 実家の様子を見に行きたいという考えが頭をよぎったが、さっき買った缶コーヒーのせいで電車賃も無くなった事を思い出す。

 すっかり夜になっている公園で、沢村は冷たくなった缶コーヒーを飲み干す。

 急に寒さがぶり返してきた。しかしこんなに寒かったっけと思ってしまう。地球温暖化は本当だったのか。

 何時間経過したか分からないが、しばしぼうっとしていたらしい。

 既に真っ暗で、人の姿もまばらになっている。さらに小雨が降ってきた。

 沢村は立ち上がり、とぼとぼ歩き出した。


 夜の中央通りでは車の姿も少なくなっている。

 電気屋のガラス越しに見える時計で深夜の一時を超えている事が分かった。

 寒さと眠気の中、どうしようもない絶望感とみじめさのような気分を味わいながら歩くしかなかった。

 ホームレスとして生きていくしかないのかもしれない。いっその事、警察に行って不審者として扱われた方がましなのかも。でも指紋とかで身元が判明し、この時代の自分や家族に迷惑がかかる可能性もあるかもしれない。


 いつの間にか『いずも亭』の前まで来てしまっていた。シャッターが閉まっている。

 店の向かって右側を見ると、壁との間に七十センチほどの隙間があった。箒やちりとりが立てかけられ、奥には空の醤油缶や折りたたまれた段ボール、古新聞の束などが置かれているのが見えた。ひさしがあるので雨にも濡れない。

 沢村はその隙間の奥に入り込んだ。段ボールを敷いてその上に横になった。リュックを枕代わりに置き、新聞紙を何枚も重ね掛け布団のようにした。案外あたたかいものだと分かった。

 自分はいったい何をしているのだろうという思いはあったが、睡魔がどっと襲ってきて眠りに落ちた。


(つづく)

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