「ジェンダー平等」のゴール

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第1話

 「ジェンダー平等」最近、よく耳にするようになった言葉である。S D G s(持続可能な17の目標)の中にも含まれる一つだ。

 いきなりだが、「ジェンダー平等」のゴールとは何だろうか。

 この話を進めていくためには「平等」に着目することが必要だろう。辞書では、差別することなく、同じように扱うこと、と定義されている。

 しかし、現実ではどうだろうか。女性の社会進出の推奨、男性の育児休暇を増加させる、など、社会では様々な策が打ち出されているが、果たして本当に「平等」なのだろうか。私には、とついている時点で、自ら一線を引いているような気がしてならない。また、とても抽象的である。

 仮に、それらが達成できたとする基準が数値的なもの(例えば、会社の女性社員の割合が5割)だったとして、それが達成された時、その課題が解決したと言えるのだろうか。きっと、達成することだけに捉われていると、女性と男性が半々のグループを箱に詰め込んだとしても解決したのと同じこととして扱われるだろう。

 それは、実は「平等」を目指しているのではなく、現状の足りない部分だけを、まるで壁にペンキを塗っていくように、埋め合わせているだけなのだ。もっというと、壁が綺麗でさえあれば、その建物の中身はまるで気にしていないのである。

 ところで、L G B Tという言葉を知っているだろうか。L G B T Qとされる場合もある。「性の多様性」の象徴されていることが多いように感じる。

 その中でよく見られる文章がある。「L G B T Qのような人もいる」「配慮が必要」私には、自分とは異なる人種として隔てているような文に思えるのだ。必要以上の気遣いは、余計に孤立感を与えることにもなりかねないのだ。

 これらに加えて、ジェンダー、L G B T Qの課題は他の課題とは異なる部分がある。それは、想像、経験することが極めて難しいということだ。性転換手術をしたことがある人でも、自分以外の、異性、L G B T Qの人の思いを完全に知ることは困難である。

 これをもっと広くみると自分以外の人の心を完璧に理解することはできないことにもつながるのではないだろうか。

 これらの課題の表面的な策の多いのは、人の心という見えないものを扱っているから、という部分も大きいのだろう。逆に言えば、私たちが人の心をもっと見ようとすれば、解決につながるのではないか。

 しかしそれは、ジェンダー、L G B T Qに限られたことではない。一人一人を見ることがいかに大切か、重要かを彼らの課題は示しているのではないだろうか。

 「ジェンダー平等」のゴール。それは、人々が本当の意味で個人を尊重し、主張できる社会なのかもしれない。

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