第4話

夢を見ていた。

光が差し込む六畳一間の部屋で、彼女が笑っている夢を。



ガタンゴトンと身体を揺らす振動によって、意識が表層に浮かび重い瞼が少しずつ開く。

眩しい。

車窓からこれでもかと言わんばかりの陽が俺を照らす。


「起きましたか。調子はどうですか?」


「最悪だ」


俺が横になっているベッドの傍に座るカタリナに声をかけられる。

どうやら、あの出来事で気を失っていた俺は朝まで眠っていたようだ。

身体が重い。

鈍い頭痛もする。

精神的にも健康であると言い難く、そのままベッドに身を委ねる。


「昨夜は、お疲れさまでした」


「よくもまぁ、そんな言葉を言えるもんだ」


「いえ、本当に、申し訳ないと思っているのですよ。同時に、感謝もしています。あれだけの辛く重い役目を任されて、よくぞやり遂げてくれたと」


「嘘だ。どうせ、俺の命が安いから、使い捨てができるから、そうしたんだろ」


「そんなことはありません。きっと、あなたでなければ希望号が再発進することはなかったでしょう。ユウキさんは、いくつもの命を救ったのです」


今回は上手くいったから、次もいいように利用するためにそう言っているんだろう。

現に、あの時の俺は諦めていた。

俺が何もしなくても、希望号は死の恐怖から逃げていただろう。

いや、そんなことより、確認しなければならないことがある。


「それより、今、どこを走っているんだ」


「安心してください。橋は越えました。私たちは一つ目の試練を乗り越えたのです。そして、今はアジア大陸を走っています。まずは、希望号の整備や燃料の補充のため秦国を訪れるようです」


秦国、燃料の補充。

ああ、今後の身の振り方を考えなければいけないというのに頭が回らない。


「随分と、辛そうですね」


カタリナの冷たい手が、俺の額を覆う。

それは、払いのける気を無くさせるほど心地が良かった。


「今はゆっくりとお休みください。私が、傍にいますから」



減速していく希望号の窓の先に広がる世界は、灰色の摩天楼の足元だった。

俺が住んでいた場所よりも更に乱雑に建てられた建物らが空を塞ぐほど並んでいる。


「ようやく着きましたね」


あれから再び目を覚ました後、軽食を摂り少し休むと遂に秦国へ。


さて、少しの頭痛は残っているが、身体を動かせるくらいには回復したが、これからどうすべきか。

このまま、この列車に居ては、いいようにこき使われて身を滅ぼすだろう。

かと言って、ここで降車するのも賢い選択ではない。

いくら同じアジア人とはいえ、俺が日本人だということは言動であっという間にバレてしまうだろう。

そうなってしまえば、どんな目に遭ってもおかしくない。


それなら、このまま車内で休む方が賢明だ。


「ユウキさんは、これからどうしますか?」


「このまま、ここで休んでるよ」


「そうですか」


これから先のことは、この国を去ってから考えればいい。

再びベッドに横たわり、目を閉じる。

すでに停車した希望号の腹の中で安寧を求め暗闇の中へ。

しかし、それも束の間、部屋の扉を荒々しくノックする音に遮られる。

そして、こちらの返事も待たずに扉が開け放たれる。


「ちょっと、いつまでボサッとしているんですか!さっさと降車の準備をしてください!」


現れたのは、あの白スーツの乗務員だった。

相変わらず喧しい奴だ。


「ユウキさんはここで休ませてあげたいのですが」


「休むならホテルなりなんなりに泊まればばいいでしょ!掃除するんで出て行ってください!」


ああ、くそ。

何一つ上手くいきゃしない。


「しかし……」


「いや、いい。出ていけばいいんだろ」


「物分かりがいいようで何よりです。それじゃあ、今から十分以内にはここを出てくださいね。あと、出発は明日の朝七時になりますので乗り遅れないようにご注意ください」



無理やり追い出された俺たちは希望号の野次馬らで溢れ返る駅の構内を後にした。

そして、駅前の広場に出るも、ここはとにかく人が多く、また体調が悪化しそうなほどだ。

加えて、空気が悪い。

空は曇天よりもさらに深く濁り摩天楼は靄に包まれ、息をするだけで肺から全身に毒が回るような錯覚に陥ってしまう。


「本当に、よかったのですか?」


「急に、なんだ」


「この国は、あなたにとって居心地のいい場所ではないでしょう」


「俺のことを知る人間なんて誰もいないんだ。どうでもいい」


そうぶっきらぼうに言い放ち、さっさとこの人混みから抜け出そうと歩き出すと、カタリナが俺の傍に寄り添いついてくる。

周りを警戒し、まるで俺を警護しているかのように。

彼女の見た目こそ俺への注意を集める原因なのだが、当の本人はそれに気づく様子もなく、相変わらず毅然とした様子だ。


「とりあえず、どこか、宿を探しましょうか」


「そうだな」


今はとにかく人の目から逃れたい。

ホテルで休んで明日、希望号に乗車する。

そして、俺でも生きていける場所があれば、そこで降車すればいい。


……いや。

死のうとしていたはずなのに、なぜ、俺は生きる道を探しているんだ。


「いや、もういい」


立ち止まりそう呟く。


「どうか、しましたか」


「何を、何を考えていたんだ俺は。もう十分だと身にしみて感じたはずだろ」


「十分。諦める、ということですか」


「そうだ。どうして、こんな世界で生きたいと思えるんだ。仮に望みが叶うとして、こんな世界に何を願う。これなら、いっそ楽に―――」


カタリナが、強引に俺の両手を強く握る。

初めて感じる、人間の体温。


「あなたを死なせはしない。生きる理由がないのなら、私が与えます。死にたい世界があるのなら、私がその闇を払いましょう。そのために、私はここにいるのですから」


理解できない。


「なぜ、こんな俺のために、そこまでできる。それとも、お前の目的のために、そのセリフが必要なのか?」


俺の手を握る力が強くなる。


「……私は、人間を信じたいのです。人間は醜い生き物、それは紛れもない真実です。それでも、私たちは、どう足掻いても人間なんです。でも、私はそこから逃げたくない」


「なぜ」


「人の命は短い。死ねば永遠の闇の中で一生を過ごすかもしれない。だから、その恐怖を、闇を照らす灯が欲しい。それがきっと、人の命を紡いでいく、愛というものなのです」


「この世界は、ただ在るだけだ。そんな想いも意味を持たない虚しいものだろ」


「……そうですね。私たちは結局、感情の生き物ですから」


どこか冷めたような笑みを浮かべるカタリナ。


「正直に言ってしまえば、世界の事や人が生きる意味など、どうでもいいのです。先程あなたが言ったように、この世界はただ在るだけ、そして、目の前のあなたもいるだけ。だから、私の目の前にいる、生きている存在の力になりたい。ただそれだけです」


「よく、わからない」


「そうですか。さぁ、立ち話ここまでにして、そろそろ行きましょうか」


「ああ」


益体もない話をした後、パッと手を離したカタリナと再び歩みを進める。

信じてはいけない、受け入れてもいけない。

それなのに、彼女はどこか、今までと出会った人間とは違うように思えた。



駅の近くにある高層ビル群の内、一つのとあるホテルに辿り着いた俺たちは、豪華絢爛なエントランスで受付の前にいた。

これらかここで宿泊し、明日の朝に希望号へ。

しかし、事はそう簡単に進まない。


「他をあたってくれ」


「なぜですか」


「そっちのは日本人だろ。そんな奴に貸してやる部屋はないって言ってるんだ」


ホテルスタッフの接客業をしているとは思えない態度と差別的な発言に、カタリナの表情が明らかに苛立ちに変わる。


「それなら、倍の料金を払いましょう」


彼女が取り出した、紙幣がこれでもかと詰め込まれた分厚い財布。

しかし、それを見てもスタッフの顔が和らぐことはない。


「お嬢さん、そういう問題じゃないんだ。この国で日本人が拘束もされずに自由な格好で歩いているなんて、明らかに訳ありだ。厄介事は御免だね。本当なら、建物に入った時点で叩き出されるのが普通だ、さっさと出て行ってくれ」


歯嚙みするカタリナ。

この程度の差別に一々腹を立てても仕方がないと、俺は口を開く。


「いいよ、ここは素直に従おう。反抗していざこざが起こる方が面倒だ」


しかし、彼女はその言葉を耳に入れても簡単には動きそうにない。

このままでは、あちらで待機している警備員とひと悶着があるだろうと、カタリナの腕を掴み出口へ向かうと彼女も渋々といった様子で歩き出す。


「あなたは、悔しくはないのですか」


「日本人の俺に、悔しいだと?そんな感情を持ったら殺されるんだ。それが当たり前だと受け入れて諦めるしか、痛みを伴わずに生きる手段がないんだ。とにかく、一々感情を露にするなよ」


そして、不貞腐れたままの彼女を連れ外に出ると、人の流れの中、見覚えのある人物が立っていた。

それは、あの時、食堂車で出会ったカメラマンだった。


「一際目立つ二人が馬鹿みたいに、そこに入っていたから気になりまして。カメラを構える出来事でも起きるんじゃないかと思ったんでね」


相変わらず下世話な奴だ。


「宿をお探しなら、日本人でも泊まれるところを案内しましょうか」


「案内?」


「私、こう見えて、この国の出身でして。この繁華街からは少し離れますが、国籍問わず誰でも泊まれるところを知っているんですよ」


こちらには目線をくれずにカタリナに向けて話す男。

奴の一挙手一投足が、俺の神経を逆撫でする。


「あ、申し遅れました。私、フリーのジャーナリストのリュウと申します。以後お見知りおきを」



どれくらい歩いただろうか。

先ほどの場所から離れ、雑然とした景観と密度が増していく人混みの中を進み、ようやく辿り着いたのは、スラム街とまでは言わないがボロ屋が並ぶ路地だった。

そして、彼が案内したのは木製の粗末な建物だった。


「日本人を泊めてくれるとなると、このくらいのランクが妥当でしょう」


「……ええ。案内していただき、ありがとうございました」


「ああ、礼はいりませんよ。同じ列車で旅をする仲間ですから」


そのまま、何かを要求することもなくあっさり去っていく男。


「それでは、行きましょう」


「ああ」



一番初めに感じたのは臭い。

狭くボロいエントランスにはジメジメと、建物が腐っているのではないかと思うほどの匂いが漂っていた。

いや、俺は別に問題ない。

一応、若い女性であるカタリナに耐えることができるのか。


そんな心配を余所に、カタリナは迷いなく受付に向かう。

そして、そこにいる中年の女性に話しかける。


「すみません、一泊、お願いしたいのですが」


「人数は」


「二人です」


「じゃあ、一部屋でいいね」


さっさとしろと言わんばかりに部屋の鍵をカタリナに渡す彼女。

サービス精神の欠片も感じることのできない対応に、また俺は差別を受けるかと思いきや、彼女はちらりとこちらを一瞥し視線を戻した。


「あの、おいくらですか」


「金なら先にもらってるよ。ほら、さっさとその日本人を連れて部屋に篭っときな」


「それは、一体―――」


「さっさと行きな!」


カタリナは困惑した顔をしてる。


「それじゃあ、行きましょうか」


「ああ」


その後、狭く汚い六畳ほどの広さの部屋で時を過ごす。

しかし、沈黙に耐えきれなくなった俺は立ち上がる。


「どうかしましたか?」


「トイレに行くだけだ」


「そうですか。何かあったら、大声で叫んでくださいね」


「ああ」


部屋を出た俺は共同のトイレへと向かう。

そして、そこに辿り着いた俺はドアを開けるも、鼻を刺す酷い異臭に顔をしかめる。

これは、長居しないほうが良さそうだ。

深く呼吸をしないよう意識し急ぎ用を足す。


そして、外に出ようとドアを開けた瞬間、俺の意識は途切れた。



「おはよう、ユウキくん」


目が覚めると俺は、廃ビルが囲むように立ち並ぶ広場の中心に縛られ倒れていた。

そして、目の前には小銃を持ち武装した者らと、シンとフェイがいた。


「なぜ、お前がここにいる」


「なぜ?それはユウキくん自身が一番よくわかっているはずでしょ」


あの国から抜け出してきたというのに、またこの顔を拝むことになるなんて。

夢であってほしい、そう願うも身体の節々の痛みがそれを否定する。

どうやら、随分と手荒に扱われたようだ。


「数え切れないほど多くの奴隷が死んだ。いや、キミが殺したんだ。それなのに、罪を償うこともなく逃げるなんて許されるはずもないよね?」


「罪だと?そんなものを問う前に、まずは自分たちのやったことを反省すべきだろ?人間を象るのはいつだって環境だからな。それに、むしろ色々と見直す機会を作ったんだから、感謝してほしいもんだな」


シンは表情を崩さないが、明らかに不機嫌になっていることがわかる。

それに対し、この状況に俺は何故か喜びすら感じていた。

ああ、そうだ、人生の最後に今までの欝憤をぶちまけ頭を空にして死ねるんだ。

それも当然だろう。

俺の口を自由にしたのは彼女の失態だな。


「シン・イー、そう怒らずに仲良くしようぜ。俺とお前の仲だろ」


彼女はこちらに歩みより、俺の顔を蹴り飛ばした。

頬から伝わる衝撃、熱、激しい痛み。

目の前には星が舞い、口が鉄の味で満たされる。


「僕は今、虫の居所が悪い。言葉を選べ、簡単には殺したくないんだ」


揺れる焦点が次第に定まり、シンの顔を覗くと、いつもの薄っぺらい笑みはなく静かな怒りがあった。

彼女が俺の行為に剥き出しの感情を示すその様子はひどく可笑しかった。


「家畜の手綱を上手く握れなかったからって、俺に八つ当たりするなよ。いや、所詮、あそこでは神様のようなアンタも、結局はただの飼い犬だったんだろ。飼い主から怒られて柄にもなく感情的になっているんだ」


「日本人が、わかったような口をきくな。虚構の平和に甘え腐敗し力を失った口先だけの家畜どもに、そんな生きる価値のない生き物に僕たちは役割を与えてあげたんだ。お前たちは、頭を下げて感謝して慎ましく生きるべきなんだ」


「だから、人間は環境によって形成される生き物だろ?そうならなかったのなら、お前たちの責任、お前たちの家畜の飼い方が下手だっただけだろう」


「違うね。僕は、上手くやっていたはずだった。いや、現に上手くいっていたんだ。君さえいなければ、僕のもとにいた日本人は他と比べて幸福に生きていけたはずだ。それを、君がぶち壊した。あんな生温いやり方では、いつかあいつらは牙をむくと証明してしまった。これから先、キミの安直な行動が多くの日本人を苦しめることになるだろう。そうだ、キミは異物だったんだよ。人殺しを何とも思っちゃいない化け物だ」


「そのきっかけを作ったお前が何を言う。化け物を産み出したお前が、何を被害者面しているんだ。あんなことをしておいて、何故、幸福なんて言葉を口に出せる。地獄で女神にでもなったつもりか?独りよがりな悦に浸っていい気になっていたんだろう」


少しの沈黙の後、彼女は声色を変える。


「……ねぇ、僕は、間違っていたのかな。そりゃあ、感情的になることもあったけど、逆らわなければ、馬鹿になれば苦しみもなく生きていけたはずじゃないか。それなのになぜ、キミはあんな道を選んだ?」


「それは、シン、お前のおかげさ。……あいつを、俺の元に導いたんだからな」


「キミが、あの傀儡にそこまで入れ込むなんて、考えてもみなかった」


「傀儡、そんな考えだから、お前は選択を間違えたんだ。あいつは、あいつは誰よりも惨い目に遭いながら、それでも、生きる道を……」


俺は今、何を言おうとした?

なぜ、今更、こんな言葉が口をついて出る。

ああ、気づかなければよかった。


「だから、触発されたとでも言うのかい?そんなはずはない、キミはただ、いいように使われているだけだ。日本から離れてもなお、ね。……いや、もういいよ。しかし、これから死ぬのに、随分と余裕があるじゃないか」


「こんなクソみたいな世界に未練なんてないさ。ただ、死ぬ勇気がなかっただけで、誰かが死を与えてくれるのなら、それでいい」


「はっ。爪を剝がされただけで泣き叫んでいた人間が何を偉そうに。あは、やっぱりキミは、世間知らずのガキだね。そう簡単に死ねると思っているのかい?」


ようやく、シンの顔がいつもの薄ら笑いに変わる。


「ほら、耳を澄ましてごらんよ。キミにも聞こえるだろう」


彼女が黙ると、風の音に混ざった何かの音が耳に入ってくる。

それは、人の声だ。

周りの廃墟からいくつもの囁き声が微かに響き、全身を嫌な視線が舐っている。


「ここには、生きたままの人間を食うことさえ厭わない飢えた負け犬どもがいる。彼らは人の不幸が大好きでね、獲物の四肢を末端から少しずつ食べていくんだよ。それでも、そう簡単に死んでもいい、なんて言えるの?」


「……ああ」


「そう。じゃあ、最後に言い残すことはある?」


「くたばれ」


彼女は手を挙げ、どこかへ向けて合図をする。

ここで、終わりだ。


「―――待ちたまえ」


生温い空間に涼しく凛とした声が響く。

そして、灰色の空から黒い塊、無数のカラスが悲鳴を上げながら降りてくる。

それは俺の目の前の空間に黒いシミをつくり、一匹、また一匹とそれを広げ、人間の形を模る。


俺の前に現れたのは、ミス・アナだった。


「物語を終わらせる場所にしては、ここは下劣すぎる。それに、青年、キミにはまだやるべきことがある」


彼女が現れた、たったそれだけ、それだけで、シンたちは誰一人として少しの身動きもしなくなった。

時が止まったわけではない、彼女らは理解しているのだ、身動き一つでもしてしまえば魔女に殺されると。

ミス・アナは今、その身の存在だけでこの場を完全に支配している。


「いや、何も言わなくていい。キミの意思は関係ない。ただ、私を楽しませてくれるのならそれでいい」


彼女が右腕を軽く振るだけで、俺の四肢を強固に縛っていた拘束は解かれ身体が自由になる。


「右手を出しておくれ」


「何をするつもりだ」


「なに、悪いようにはしない、力を与えてやろうというのだ。おっと、他人に与えられた力に意味はない、なんて駄々をこねるなよ。キミはただの駒なんだから」


いつの間にか、彼女の手には一つの手袋が握られていた。

手の甲の部分に紅い球体がついた黒い手袋。

俺は自分の意識と関係なく右手を彼女の前に差し出し、彼女はその手に手袋をはめた。

その瞬間、右手に熱を感じ、それは血管に熱湯を注されたかのように全身に回り、思わず呻き声をあげる。

そして、記憶が混在していく。



セピア色の世界。

果てない地平線の上には無数の人間と巨大なゴーレムたち。

敵を蹂躙する、それ以外には何も存在しない、それ以外は存在してはならない戦場で、何のために戦うのかすら知らないまま、砕かれ血を流し死に行く定め。

それは命が巡る限り、どこまでも続いていく。


声が聞こえる。

叫び声しか聞いたことがない者たちへ、愛に満ちた歌が。

生者へ、死者へ、分け隔てなく、それは彼らの魂に刻まれていく。

戦えと、全てを壊せと。



幻想に取り込まれた五感が現実へと還ってくる。


「……なんなんだ、今のは」


「それの記憶さ。どうやら、上手く適合したようだ。もしかするとキミは、コイツらと精神構造が似ているのかもしれないな」


「何を言っているんだ」


「さぁ、そこまで来たのなら準備は完了だ」


「だから、説明を」


「そんなものは必要ない。今、キミの頭にはそれの名が刻まれたはずだ。それが理解できれば十分だ」


説明が面倒なのか、俺の意見など聞き入れずに勝手に事を進めていく魔女。


「キミは、何の力も持っていないただの動物だった。しかし、今は違う。現実を捻じ曲げる力を手に入れたんだ。さぁ、どうする?」


力。


「まだ理解できないかい?どれだけ望んでも手に入れられなかった奇跡が目の前にある、それなら、やるべきことは一つだろう?」


「ああ、そうさ。そんなもんがあったなら、全てをぶち壊すに決まってる!」


「然らば、叫べ!何ものにも砕けぬ鋼鉄の名を!」


その時、全てを滅ぼせと、誰かの声が響いた。


「muspell domini surtr!《巨人を率いる黒の主よ!》da mihi vim !《我に力を!》」


俺の口が勝手に、何かを唱えだす。

すると、俺の身体を包むように黒い靄が右手から溢れ出す。

ああ、そうだ。

お前の名は―――


「fortimia!!」


靄は澱となり右腕を包み込む、弾け飛ぶ。

そして、気づいた時には、右腕を黒い鎧が覆っていた。

手の甲の赤い球体は禍々しい輝きを放っている。


「これは」


困惑していると、この姿を見た魔女が大声を出して笑いだす。

それは長い間続き、ようやく笑い収めた彼女は息を切らしながら口を開く。


「まったく、君は楽しませてくれる!こんなに笑ったのは半世紀ぶりだ!片腕しか発現しないなんて、これでは格好がつかないじゃないか!……はぁ、仕方がない、今回だけ、手伝ってやろう」


彼女の手が俺の右手に触れると、再び、全身に強烈な熱が走った。

いや、先程とは比べ物にならないくらいの熱さだ。

思わず俺は、強く目を閉じる。


「fortimia!久方ぶりの闘いだ、存分に楽しむがいい!」


しかし、それもまた一瞬のこと。

魔女の大声が聞こえ目を開くと、俺は全身に漆黒の鎧を身に纏っていた。


「青年、聞こえるか?それなら、普通の人間なんぞ問題にすらならない。あとはキミの好きにしたまえ」


「おい、少しくらい説明を―――」


質問を投げかける暇もなく、魔女は瞬きの内に消え去った。

それと同時に空気は弛緩し、目の前の彼らはこちらへ銃口を向ける。

そして、俺が行動を起こす前に躊躇なく引鉄を引いた。


乾いた発砲音が何度も重なり反響する。

しかし、少しの衝撃が全身に響くだけで、俺の身体には傷一つなかった。


弾が尽きるまで銃撃した彼らは、無傷の俺を見て明らかに動揺している。

だが、満を持して。


「フェイ、お願い」


「はい」


人間の拳ぐらいどうってことはない、そう無防備な状態でこちらもあちらへ歩み寄るも、一歩踏み出したところで、彼女は既に俺の懐に入り込んでいた。


「ぐっ」


拳を腹に打ち込まれ、大きな衝撃が走り身体が後方に吹き飛ぶ。

そのまま倒れそうになるも何とか堪え、構えを取り直す。

銃弾よりも威力があるなんて、馬鹿げている。


「こンの、馬鹿力が!」


いや、熱くなるな。

集中しろ。

視線を凝らしフェイの一挙手一投足に注意する。

その瞬間、こちらへ接近してくる彼女の動きがスローモーションになる。

なんて、簡単なんだ。

俺は燃える怒りを込めた拳を、隙だらけのその顔面に叩きつけた。


「フェイ!」


およそ、人を殴ったとは思えない重く鈍い音が響く。

そして、大きく吹き飛んだ彼女は地面に倒れピクリとも動かなくなった。

どうやら、この鎧を纏うと身体能力と動体視力も人間離れするらしい。


これなら、と。


同じ要領で次々と、シンの周りにいる武装した者らを叩き伏せる。

そして、あっという間に辺りは静かになり、残るはシンだけとなった。

俺はゆっくり、彼女へと近づく。


「こんなこと、あっていいはずがない。何の力も持たない者が神の気まぐれで無敵になるなど、あってはならない。ふざけるな、ふざけるな!罪人が、何者にもなれなかった日本人が、なぜ報われる!」


シンは拳銃を取り出し、こちらへ向けて喚きながら引鉄を引き続ける。

初めて耳にする彼女の叫び。


「ああ、そうだ!お前たちは、お前たちはいつだって、武力をもって全てを台無しにする!争いを疎み弱さという誇りを、それこそ誇らしげに掲げているくせに、力を手に入れた途端にエゴが顔を出すんだ!お前たちは、支配され飼いならされて初めて、まともになれる生き物なんだ!」


しかし、彼女の抵抗も空しく、弾切れになった拳銃はカチカチと寂しい音を響かせる。

そして、彼女を殺そうと思えばいつでも殺せる距離にまで到達する。


「キミは、火を放った時も、そこから逃げ出した時も、人を殺す時も、自分の意思はなく誰かの意図した行動に流されているだけだ。それで、本当にいいのかい」


「そう教育したのは他でもない、お前たちだ」


「……もういい。さっと僕を殺せばいい」


「いや、ここでお前を殺しはしない。お前も結局、馬鹿にはなれない人間だ。せいぜい生きて苦しめばいい」


「何を暢気なことを。ケジメをつけられなかったら、どのみち殺されるさ。それとも、この期に及んで自分の手を汚したくないのかな」


「醜いものを見ないでいいなら、それに越したことはない」


俺は前へ進み、彼女の横を通り抜ける。


「……ユウキ君、最後に、いいかな。フェイ、この娘はいい子でね。もしよければ、希望号に、この子も連れて行ってくれないか」


「お前は、自分が何を言っているのか理解しているのか」


「お願い」


あまりに素っ頓狂な言葉に思わず振り返る。

彼女は、泣きそうな笑顔で唇を震わせていた。

俺は立ち止まり、言葉を返す。


「そんなことしなくても、勝手にすればいい」


「駄目なんだ、この子は私がいないと何もできないから」


「力でねじ伏せられると奴隷相手でも手の平を返す。情けないと思わないのか、虫が良すぎると思わないのか」


「……わかったよ。でも、一つだけ。私は、ずっと見守っているから。私は、本当にキミを、ユウキのことを―――」


彼女の言葉は、乾いた破裂音に遮られる。

シンが倒れ、それが銃声であったことに気付く。

そして、彼女は頭から血を流している。


しかし、考える暇もなく廃墟から飢えた獣がわらわらと現れ、狂気を纏いこちらへ勢いよく向かってくる。


「くそっ!!」


シンの最後のあの顔がちらつき、倒れた二人を担ぎ走り出す。

馬鹿なことをしているのはわかっている。

それでも、あの化け物どもに喰われるなんて、その獲物が誰だろうと想像すらしたくない。

行く当てもなく、俺はただ走った。





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