第3話

翳りのあるオレンジ色の海原を眼下に、俺の不安を余所に滞りなく希望号は走っていた。

地に足がついていないような錯覚を覚えながらも夢のような時間は過ぎていく。

対面で同じように窓の外を眺めるカタリナに対して、何か話でもすべきかと考え始めた頃、部屋の扉からノックの音が響く。


「はい」


「失礼します」


そこに現れたのは、あの白スーツの乗務員だった。


「夕食の準備ができました。余程のことがない限りは食堂車にお集まりください」


「お待ちください、アレは、いつ頃始まるんですか?」


「ご安心ください。ゆっくりと、食事をとる時間はありますので」


他人の不安を無駄に煽るようなやり取りをし去っていく乗務員。

カタリナにその会話の意味を聞いたとしても教えてはくれないだろう。


そして、立ち上がったカタリナはベッド下の収納から何かを取り出す。


「なんだ、それは」


「念のため、護身用に携えておくだけです。お気になさらず」


彼女が取り出し腰に下げたそれは、鞘に納まった細い剣だった。


「それでは、行きましょうか」


「……ああ」


これから何かが起こると言わんばかりのその様子に嫌な予感がする。

それでも、今の俺にできることは何一つとしてない。

そのまま、俺は素直に彼女の後をついて部屋を出た。



昼間の雰囲気とは打って変わり、オレンジの電灯が点き暖かな空気が流れる食堂車。

そこは乗客で一杯となり天井のスピーカーから小音量のクラシックが流れる中、ガヤガヤとした賑わいが響いている。


「ここに居るのは皆、切符持ちか」


「そうですね。そうでないものは、そもそも立ち入ることすら許されていません」


「慈愛溢れるどこかの誰かさんが聞いたら、怒り出しそうなもんだが」


「彼ら全員に感情移入してしまっては、心が持ちませんから」


憤るような素振りも見せずにそう述べるカタリナ。

確かに、あれだけの人数を相手にしては身が持たないのは間違いないだろう。

しかし、事あるごとに皆の願いを叶えると言っていた彼女がそう簡単に割り切るのか。

それに、彼女の淡々としたこの物言いは、何か含みがある気がしてならない。


「どうやら、空いている席はあそこしかないようですね」


四人掛けのテーブルが並び、その殆どが埋まっている中、ちょうど二つだけ空いた席がある。

しかし、すでに着席している二名の姿を見て、俺はすぐにでも踵を返したくなる。


「なぁ、夕食を摂るのはここでなくてもいいんだろ」


「……いえ、今の時間はここ以外で食事の提供はされないでしょう。それに、そもそもこの車両から移動することを許されていないようです。御覧ください、この車両の両端の扉を」


前方には何度も目にした白スーツの乗務員、後方には初見の前髪が頬までかかった無骨で無表情な巨体の男が立ち塞がっている。


「部屋に戻るくらいなら、許してくれるだろ」


「駄目です。お願いですから、言うことを聞いてください」


「いい加減にしてくれないか。理由すら教えてもらえないのに、素直に従えるわけないだろ」


いや、呼吸を一つ、一旦落ち着こう。

彼女の物言いに、つい怒りの矛先がずれてしまった。

別に、ここで食事をとることに異論はなく、そこまで怒りを顕わにすることでもないんだ。

一つだけ、厄介なことを除いて。


「お前もわかるだろ、あの空席の対面に座っているのはアリスだ」


偶然の賜物だろうが、空席の対面にはなんとアリスが座っていた。

そして、カタリナは知らないだろうが、そのアリスの隣にはあろうことか、エイブまで座っている。

彼女一人ならまだしも、これでは混沌とした状況になるのは目に見えている。


「そうですね。それでも、私たちの安全のためですから、素直にここで過ごした方がいいでしょう」


「あっ!お兄ちゃん、こっちこっち!」


その時、こちらへ気付いたアリスがこちらへ大きく手を振っている。

皆が座っている中、こんなところで突っ立て話し込んでいたら見つかるのも当然だろう。


「諦めましょう」


「ああ」


アリスと対面になるというのにカタリナは先に窓側の席に座る。

まぁ、それでいいのなら俺もその方が幾分か気分が楽であると、通路側の席に腰を下ろす。


「ちょっと、あなたはお呼びじゃないんだけど」


「ここしか席が空いていないのですから仕方ありません」


「それならせめて、対面に座らないでくれるかしら」


「お断りします」


「ぶー」


水と油のように相いれない二人のやり取りから視線を外すと、傍らで珍しく大人しくしていたエイブと目が合う。


「青年よ、今朝ぶりだな。しかし、たった一日でこんな見目麗しいお嬢さんを連れ歩くとは、見直したぞ」


「連れ歩くって、人聞きの悪いことを言わないでくれ。むしろ、俺は振り回されている側なんだから」


「おじさんってば、何にも事情を知らないくせに、すぐにそうやって偉そうにぺちゃくちゃ喋るんだから。いい?お兄ちゃんはね、この頭のおかしい宗教マニア女につきまとわれているのよ」


この二人はどのような関係なのだろうか。

見ようによっては爺さんとその孫にも見えないこともない。


「随分、変わった方とお知り合いなんですね」


「まぁ、そうだな」


そのまま皆と適当な雑談を交わしていると給仕人が料理を載せたワゴンを運んでくる。

そして、着々と夕食の準備は進んでいく。

机上のワイングラスには葡萄酒が注がれ、目にしたこともない鮮やかな前菜や分厚い肉料理など豪華な料理が現れる。

いつの間にか深まった夜の中、窓の外に輝く橋の欄干が美しく、それを眺めながら美味な料理を味わう、まさに夢見心地の時間を過ごす。


「お兄ちゃん、かわいい」


「は?」


食事を終えようとした頃、アリスから突拍子もない言葉が放たれる。

加えて、隣のエイブもおかしそうに口元に手を当て微笑している。


「そんなに幸せそうにご飯を食べるだなんて、今まで貧しい思いをしてきたのね」


そこで初めて、自分が気を張らずに緩んだ顔で食事に舌鼓を打っていたことに気づくき、それに対して顔が一気に赤くなるのが分かる。


「そう茶化さないであげてください」


「別に、茶化してなんてないじゃない。素直に、いいなって思っただけなのに」


よせばいいのに、またもやカタリナとアリスの間にピリピリとした空気が流れる。

自分の話で言い争いをされても気分が悪いので、いい加減にしてほしい。

しかし、そんなぎこちない空気も、一時を経て起きた車内の異変によってかき消される。


車窓に目を向けると、なぜか希望号が走る速度が目に見えて遅くなっている。

そして、次第に速度は落ち、遂には徒歩の方が速いのではないかと思うほどに。


「いよいよか」


そう、エイブが一言漏らす。

いつの間にか賑やかだった車内は少しの話し声がするだけで、どこか重苦しい雰囲気が漂い始めている。

やはり、ここで何も知らずに間抜けな面をしているのは俺だけのようだ。


「ところで、ユウキさん。この旅の計画は立てていますか?」


「は?」


唐突な、カタリナの空気を読まない発言。

対面の二人も驚いた顔を見せている。


「これから世界中を旅するのです。少しくらい、欲を出して観光でもしてはどうでしょう」


誰が聞いても違和感を感じるちぐはぐな会話。

秘密主義の彼女のことだ、この異常なことが起こりそうな場面から俺の意思を逸らそうとしているのだろう。


「いや、いきなりそんな話題を振ってくるなんて、何か都合の悪いことがあると言っているようなものじゃないか」


「いえ、他意はありません。ただ、せっかくの機会ですから、話し合ってみてもいいかと」


「そんな話で、この状況を無視できると思うのか?」


少しだけ困り顔を見せるカタリナ。

そして、訪れた沈黙の隙間を狙ってアリスが口を開く。


「お兄ちゃん、本当に何も知らないの?だったら、アリスが教えてあげるわ。これから起こることも、この旅の目的も」


「お待ちください。そこから先、口を開くことは許しません」


「許さないって、あなた、何様のつもりなの?何も知らずに過ごせるほど甘い旅じゃないのよ?それに、隠そうとしても隠し通せるものでもないわ」


「順序があるのです。彼の本当の願いを叶えるために、必要なことなのです」


「お兄ちゃんは人形じゃない。赤ん坊でもない。状況を教えれば、ちゃんと自分の意思で願いを掴み取るはずよ」


その口を挟む隙もないやり取りを、俺とエイブはただ観察している。


「ん?」


二人の会話、車内の小さな喧騒の中に、違和感を感じる音が聞こえる。

耳を澄ますと、それは確かにこの空間のノイズとなって存在している。


「声?」


「ああ、もう始まったのですね。ユウキさん、あまり耳を傾けないように」


アリスとの言い争いを中断し、こちらへ話しかけてくるカタリナ。

そう言われても勝手に耳に入ってくるものは仕方がない


「なんだ、この、叫び声みたいな音は」


「青年よ、気になるのなら、窓の外を見てみるがいい」


外、確かに、この音が聞こえるのは車外からだ。

カタリナも無言のため、エイブの言う通りにしても問題ないだろう。

少しだけ気温が下がったような肌寒さを感じながら、席から少しだけ身を浮かせてゆっくりと進む希望号の車窓から橋の下を覗く。


―――その光景に、言葉を失う。

暗闇に包まれた夜だというのに、海は赤く光り、海面には蠢く無数の人間のようなものが浮いていた。

距離があるため見えづらいが、おそらく、あれらはこちらを見上げている。

この希望号を見つめながら叫び声、呻き声、金切り声を上げている。

そう認識した途端、環境音に僅かに紛れていた彼らの声がはっきりと、恐怖となってこの身を包む。


「あれは、なんだ」


「そうですね、わかりやすく言えば、地獄、でしょうか」


「は?」


観念したのか、それとも、ここまでは予定通りなのか俺の質問に答えるカタリナ。

信じられない言葉、しかし、あの光景にそれほどしっくりくる言葉はない。


「ここからが試練の始まりです。私たちは、これを乗り越えなければならない」


「何を言っているんだ。地獄だと?もっと詳しく話してくれ」


「いえ、これ以上、説明することはありません。ユウキさん、ただ、あなたは時が来たら与えられた役目を果たしていただくだけでいいのです」


その物言いに痺れを切らした俺は、アリスに話しかける。


「アリス、この状況について、知っていることを教えてくれないか」


「ユウキさん!」


「当然よね。わかったわ、アリスがお兄ちゃんにちゃんと説明してあげる」


その瞬間、あろうことか立ち上がったカタリナが傍らの剣を抜き放ち、アリスの首へとそれを当てる。

しかし、アリスは少しも動じず毅然としている。


「わかってる?この場において、邪魔者はあなたなのよ?あなたさえいなければお兄ちゃんも何も心配せずにいられるのよ。それとも、あなたはお兄ちゃんを奴隷のように扱いたいのかしら?」


カタリナの剣を持つ手が怒りで震えだす。

彼女をそこまで駆り立てるものは何なのか、そんなことを悠長に考えている暇はないだろう。

俺はその状況に待ったをかける。


「わかった。状況説明なんていらないから、その物騒なものを納めてくれ」


「お兄ちゃんはそれでいいの?」


「腹は立つが、こんなところで殺し合いをされるよりはましだ」


そして、ようやく場が治まる。

何度か深い呼吸をして刀を納めたカタリナと、不貞腐れたままのアリス。

何食わぬ顔で腕を組み座るエイブ。

ただただ気まずい時間が訪れようとしたところ、カタリナが口を開く。


「時間になれば、あちらの乗務員から通達があると思います。それまで、ここで待機しましょう」


「そうか」


やはり、これはカタリナだけでなく、この希望号を運行するものらが何かを企んだ旅で、俺はそのための都合のいい駒だということだろうか。


それにしても、車外から聞こえてくるおぞましい声が段々と大きくなっているような気がする。

このような中でじっとしていると、頭がどうにかなってしまいそうだ。


「ユウキさん、気をしっかり」


少しだけ顔をゆがませていると、気を使ったカタリナが話しかけてくる。

しかし、今の俺にはそれどころではない事態が訪れていた。


「―――ちょっと、黙ってくれ」


どこからか聞き覚えのある泣き声が聞こえる。

これは。


「ユウキさん?なにを」


俺の身体は無意識に動き、席から立ち上がり声が聞こえる後方車両へと向かおうとする。

すすり泣きの声がそんな遠くから聞こえるはずはない、どこかおかしいと冷静になればわかること。

それでも、俺の足は明確に方向を定め動いていた。


「お待ちください!」


席から立ち上がったカタリナが俺の腕を掴み引き留めようとする。


「ここで大人しくしていないと危険です!それに、ユウキさん、あなたには別の役目が」


「あいつの、泣き声が聞こえるんだ。だから、確かめないと」


「それはただのまやかしです!奴らは、どんな手段を使ってでも生者を引きずり込もうとしているのです!気をしっかり持ちなさい!」


奴ら?

海に浮かぶ亡者のことか?


「それなら、都合がいい」


「駄目です!ここから先へは行かせません!」


巨躯の乗務員が立ちはだかる後方車両への貫通扉に強引に近づいたところで、カタリナが間に割り込むように立ち塞がる。

強行突破しようとしても、この二つの障害を突破することは難しそうだ。


その膠着状態の場面で、エイブが俺の傍へ現れる。


「あなたも、見てないで手伝ってください!」


「行かせてやればいい」


「な、なにを」


ああ、そうだ。

彼ならそう言ってくれると思っていた。


「青年よ、遺恨があるなら、捨てきれない過去があるのなら、確かめてくるがいい。そうでなければ、明日が生まれないのだろう?」


「ああ」


扉を塞ぐ巨躯の男をいとも簡単に押し退け、扉を開けるエイブ。


「お、おい!」


俺は、そのチャンスを逃さないようにカタリナの不意を突き手を振り払い、勢いよく走りだし、驚き困惑する乗務員の脇を抜けた。


「ユウキさん!!」



万が一にも彼女らに追いつかれることが無いよう急ぎ足で声がする方へ向かう。


―――そして、黒の切符を持たない乗客がいる車両に差し掛かると、そこは阿鼻叫喚が響く身の毛もよだつ光景が広がっていた。

明かりのないそこにはふらふらと揺らぐいくつもの淡く光る青白い人影が浮かんでおり、それらは次々と乗客らを飲み込み、彼らは悲鳴、または贖罪を叫びながら精気を失ったように地面に倒れていく。

車内に居れば安全だと思っていたが、ここはそうではないようだ。

そして、そのような騒ぎの中、通路の中心に彼女はいた。

泣き声を上げるただの顔もない影、それなのに、それを彼女だと確信していた。

彼女はこと切れた乗客の隙間を縫って奥へ奥へと俺を導いていく。

普通なら足を止め引き返すべきなのだが、俺はただひたすらにその姿を追いかける。

今更言いたいことがあるわけじゃない、伝えたいことがあるわけじゃない。

それでも、俺の足は彼女の存在を確かめるために止まることはなかった。


気づけば、いつの間にか完全に停車した希望号の外、橋の上に立っていた。

酷く寒く赤黒い世界、眼下の海にも、線路上にも無数の影が蠢いている。

そして、俺の目の前には、彼女がいた。


「……ああ、わかっているさ。俺を恨んでいるんだろう。何もできなかった、いや、それだけじゃなく、お前にさらなる痛みを重ねたんだ」


彼女はいつものように口を開かない。

しかし、顔も何もないただの影が、俺をまっすぐ見つめているのはわかる。

アイは死んだ。

目の前にいる彼女はただのまやかし。

そう理解しているものの、俺は口を開く。


「くそっ、お前はもう死んだんだ。だから、俺は前に進もうとしたんだ。お前もそれを望んでいると思っていた。でも、そうじゃなかったのか?」


痛みを感じるほどの沈黙の中、彼女はそっと手を前に出し、手招きをし始めた。


「ああ、それが、お前の望みなんだな」


それを見た俺は、彼女へと近づく。

自分の意思か、惑わされているのか、ゆっくりと彼女のもとへ。


―――あと、一歩。


「我はここにあり。欺きの罪を背負い、闇に堕ち穢れた泥淖に藻掻くものなり。然らば!」


その声にはっと意識を取り戻し、足を止め振り返る。

そこには、メイド服を着用し拳銃を構えた頓狂な姿をした女がいた。

更に不思議なことに彼女の身体の周りに光の粒子が舞い始める。


「聖なる主よ!我にその威光を与えたもう!闇の天蓋を打ち砕かんとす、ルクスルナエの如き煌きを!」


俺の目の前の彼女に向けられた銃口。

メイド服の女は、躊躇なく引鉄を引いた。


―――その瞬間、放たれた眩い閃光が彼女の身体を貫いた。


あっけなく霧散する影。

続けざまに周囲に群がる影を銃撃で蹴散らしていく彼女。

そして、一息ついた彼女はこちらへ怒り顔で近づいてくる。


「まったく、切符を持っている人は食堂車にいるように言われなかったんですか、もう!」


「いや、それは」


「いえ、答えなくていいです!カタリナ様に連れてこられたユウキ様で間違いないですね!こんなところで油を売っている暇はありません、さぁ私についてきてください。このまま、外から先頭車両まで行きましょう」


返事をする間もなく歩き出す彼女。

しかし、状況の整理ができずに立ち尽くしていると、彼女はこちらへ振り向く。


「何をしているんですか!自殺志願者でもないのなら、さっさと来てください!」


少女らしからぬ気迫に圧され、彼女の後について歩き出す。

しかし、右手の希望号から響く乗客らの叫び声を聞いていると、ふとした疑問を口に出してしまう。


「乗客は、助けなくていいのか」


それに対して、落ち着きを取り戻した彼女は、あどけなさを残した声で答える。


「切符を持たないものを助ける義務はありません。いえ、むしろ助けてはいけないのです」


「なぜだ」


「この希望号が、何を燃料にして走っているか、知っていますか?」


質問に質問を返されるが、必要なことだろうと素直に答える。


「蒸気機関車なら、石炭じゃないのか」


「こんな立派な橋を産み出し休みなく走り続けるためには膨大な魔力が必要になります。石炭だけでは賄えません」


ああ、そうか。

しかし、その先は言わないでほしい。


「人間ですよ。この希望号は人間を食べて走るんです。理想を掲げれば勝手に寄ってくる、都合のいい餌ですから」


「……そうやって、自分らのために皆を騙して殺しているのか」


「そんな、人聞きの悪い。皆、それを知った上で乗車しているんですよ。強い肉体と精神があれば、生き残ることも可能ですから。皆、命懸けで叶えたい願いがあるのでしょう」


やはり、ここはまともじゃない。

いや、待てよ、なぜ俺はこの状況を受け入れようとしているんだ。


「ああ、くそ。そんなことよりも、この状況は何なんだ。こんなものが有り得るはずがないだろ」


「日本から出たこともないお客様が常識を語れる立場ですか?魔法だって当たり前に存在する世界なのに、思い違いをしているのは自分だという思考に至らないのですね」


彼女は足を止めることもなく毒を含みながら淡々と話を続ける。


「何もわかっていないようなので簡潔に説明してあげます。ここは現世と幻想の境界が曖昧な場所です。そして、ここには人間から魂を抜き取る悪魔が住んでいます」


「悪魔?」


「ここの住人です。その辺に浮いてる影がそうですね。人間の肉体と魂を分離するのはものすごく難しいことなんですが、彼らは随分と上手にそれをやってくれるんですよ。そして、その隙を狙って希望号がその魂を吸い上げているんです。謂わば、彼の食事ですね。だから、私たちはここを意図的に走る必要があった」


狂乱が溢れる地獄、人間を飲み込む影、それに動じず当たり前のように事を話す人々。

こんな所にいては、いずれ俺も狂ってしまうだろう。


「……無駄話が過ぎましたね」


無駄だと言う割には、特に急ぐこともなく速度を変えず歩いていく彼女。


「急がなくていいのか?」


「希望号がお腹を満たすまで、少し時間がかかりますから」


ああ、聞かなければよかった。



「おう、ベル。ずいぶん遅かったじゃないか!」


「ゆっくりでいいって言っていたじゃないですか!」


「そんなもんは知らん!」


先頭車両の近くまで辿り着くと、二両目の車窓から顔を出す車掌の制服を身に纏い大きなサングラスをかけた人物が大声を出しメイドに話しかける。

声色から察するに女性のようだ。

彼女は、このような状況でも薄ら笑いを浮かべ余裕な態度を示している。


「それにしても、トーコさん!本当にこんな朴念仁で大丈夫なんですか!?」


「そんなもん知るか!すべては神の思し召しってやつよ。さぁ、さっさと準備しな!」


その声を合図に白い殻を纏った先頭車両から機械音がしたと思えば、滑らかな側面に長方形の黒い筋が生まれ、その部分が横にスライドする。

どうやら、それは自動ドアのようで、そこから車内に入れということだろう。


「さぁ、乗車してください」


「……ああ」


いつまでもこのような場所に長居したくないので、少し高さのある入り口に足をかけ乗車する。


内装を見やると外観からは予想できないようなランプやスイッチ、モニターなどの機械類でごちゃごちゃしており、その隙間を縫うようにいくつもの伝声管が壁を這っている。

そして、そのような中で一際目立つのが、中心に設置された玉座だろう。

いや、あくまで比喩ではあるが、それほどまでの存在感を放つ金色の装飾を施された純白の運転席が鎮座しているのだ。

手すり部分には口を広げた伝声管が一つと操作盤が取り付けられており、座面からほんの少し離れた場所に一本の操縦桿が生えていた。


「何をぼさっとしてんだい!さっさとその運転席に座る!」


その大きな声に驚き振り返ると、トーコさんと呼ばれていた人物が立っていた。


「ちょっと待ってくれよ。何が何だかさっぱり」


「ああもう、じゃあ簡単に説明するよ。この希望号は随分と気まぐれでね。こんな大層な名がついている割にはすぐ泣き言を漏らして走るのを止めるんだ。だから、ケツを蹴っ飛ばす奴が必要で、あんたが選ばれたってわけさ」


「理解できないんだが」


「いいから、ここに座んな!」


そう言いながら俺の背中を押し椅子の前に立たせ、肩を押し込んで強引に椅子に座らせる、何もかもがテキトウな彼女。


「操縦なんてできるわけないだろ」


「その操縦桿を前に倒せば前進する、簡単だろ!」


「だったら、俺じゃなくてもいいだろ。それに、今まで普通に走っていたのに、なんでこんなことを」


「ええい!ごちゃごちゃと五月蠅い!さっさと握れ」


これまた強引に操縦桿を握らされる。


「いいかい、逃げる素振りを見せたら、こいつでBANG!だからな」


視界の右側から現れたそれは、拳銃だった。

そして、それから二の句を告げることもなく去っていく彼女。

くそっ。

訳が分からないが、やることは単純だと観念した俺は操縦桿を前に倒そうとする。

しかし、それはびくともしない。

一時、どうにかして動かそうとあくせくするもどうにもならないため、諦め操縦桿から手を離そうとした瞬間、俺の頭の中に強い頭痛と共に何かが流れ込んでくる。


『走りたくない』


なんだ、これは。

いや、何故か、理解できる。

これは希望号の感情だと。

いや、それだけじゃない、これは、俺の感情でもあるのか。


『もう、疲れた』


ああ、何があったかは知らないが、確かなことが一つ。

希望号はもう、走りたくないのだ。

無理やり不味い飯を食わされ、人間の為に走らされる、そんなものはもう御免だと。


彼女がケツを蹴っ飛ばす奴が必要だと言っていたのは、これのことだろう。

そして、駄々をこねる希望号を再び走らせる役目が何故か俺に与えられた、と。


しかし、今の俺にはその命令に従うつもりは全くなく、むしろこの状況に安堵すら感じていた。

決して口には出せなかった言葉、死に向かう諦めの言葉が安らぎとなって俺の心に寄り添っていた。


そして、さらに深く、希望号に身を預け初めて気づく、この状況の危うさ。

ここで希望号が再発進できなければ、乗客全員が、死ぬ。

このままでは、いずれ橋が崩れ地獄に落ちる結末が待っている。


でも、もう、いいじゃないか。

人々の希望を乗せたこの列車ですらこの有様なんだ。

無理やり理由をこじつけて生きなくていい。

生まれた意味も生きる理由もなく生きて、人間が作った狭い世界で意味もなく死んでいく、それが人間だろう。

ここで終わってもいいんだ。

重荷に感じなくてもいい

ただの人間が紡いだ果てしない歴史のうち、刹那の無為な人生だ。


「でも、その一瞬こそが、全てでしょう?」


突然、頭の中に誰かの声が響く。


「彼女の死を無駄なものにしないと、意気込んでいたあなたはどこに行ったのですか?たったこれだけのことで挫折する程度の意思だったのですか?」


カタリナに似た説教臭い言葉に苛ついた俺は返答する。


「ああ、そうさ。俺はただ、痛みから抜け出したかっただけなんだ。あいつへの思いも染みついた奴隷根性に一瞬でも打ち勝つために必要だっただけだ。でも、もう十分だ」


「進める道がある、あなたの前には道がある。それなのに、自らの手で終わらせてしまうのですか?あなたにも聞こえるでしょう。苦しみ、悲しみ、それでも希望へ向かって進もうとする人々の叫び声を。それすらも無に帰してしますのですか?」


「俺には、悲鳴にしか聞こえない。それに、なぜ、俺なんだ。その辺の馬鹿をおだてりゃ、お前らが望む英雄になってくれただろ」


「あなたでなければ駄目なのです。あなたが希望を持たなければ意味がないのです。この言葉の意味がわかりますか?わかってください。こんなところで終わってはなりません」


「黙ってくれ!もう、終わりなんだ!!クソみたいな場所に生まれて泥にまみれながら生きて、それを覆す力もなかった!そんな俺が、何かを成し遂げるなんてできはしない!……希望を持っても、辛いだけなんだ」


「たった一度、希望が潰えた程度で諦めるなんて、そんな人生で果たして心残りもなく死ねますか!」


「もう、いいじゃないか。楽にさせてくれ」


「いい加減にしてください!死はいつだって、その身の恐怖をもって、あなたたちに生きろと、諦めるなと、そう励ましていたはずです!死んだら楽になれるなんて、それは自分自身が生み出した幻想にすぎない、死ねば終わりなんです。それでも、歩みを止めるというのですか!」


熱を増した誰かの声が、より大きく脳内に反響する。


「何もわからない、生きる意味すらないこの世界で、それでも、せめて生きる意味を探すのが人間ではありませんか!そうでなければ、本当に、全てが無意味になってしまう!」


「人間の命が二束三文の世界で、何を言っているんだ。人間の人生にそれほどの価値があるなら、この世界の有様はなんだ」


「だから、少しでも意味のあるものに変えようとするのではないのですか!他ならぬ自分自身の意思で!」


何を言われようとも、もう、俺から言うことなんてない。

そして、少しの静寂が訪れたのち、今度は一瞬だけ、背筋が凍るような声が響く。


「―――それなら、地獄に呑まれるといい」


突然、大きな衝撃が世界を揺らす。

何が起きたかは分からないが、ただ事じゃないのはわかる。

その時、左側の伝声管からトーコの怒声が響く。


『おい、橋が歪み始めたぞ!しっかりしろ!希望に向かう列車が棺桶になったら笑い話にもならないぞ!』


そんなこと、知ったことではない。

俺はこのまま何もせずにじっとしていればいい、それなのに。

握る操縦桿から感情が流れ込んでくる。

それは、諦めではなく恐怖だった。

希望号の思念か、次第に鮮明になっていくそれはイメージとして脳内にこびりつく。

海に蠢く亡者が体に纏わりつき、尋常ではない数の悲痛や憎悪などが身体中を駆け巡り、俺は叫び声をあげた。


苦しい、息が詰まる、恐怖が心臓を貫く。

駄目だ、耐えろ、希望号、ここで終わらせるんだ。


―――気づいた時には、俺は何の抵抗もなくなった操縦桿を前に倒していた。

そして、希望号はゆっくりと走り始める。


『よっしゃ!よくやった!安定するまで気を抜くなよ!』


再び伝声管から響く声も曖昧に聞こえるほど、俺の胸中は情けなさで満たされていた。

死を諦めたのは希望号か、それとも。

また、俺は。


手に接着したように離せない操縦桿はそのままに、暗澹たる想いを巡らせながら時間に身を任せる

そして、また伝声管から彼女の声が響く。


『おい、もういいぞ。あとはこっちに任せろ』


その言葉で肩の力を抜き息を吐くと、スッと操縦桿から手が離れる。

希望号が走る音が響く中、立ち上がると一気に目眩、吐き気が襲い掛かる。


「ユウキさん、お疲れ様でした」


その声にふらつきながら振り向くと、いつの間にか背後にカタリナがいた。

いくつもの投げつけたい文句はあるが、疲労のあまり言葉を発する気力すら残っていなかった。

だから、せめて、これでもかと恨みを込めた視線を彼女へ送る。

だが、それも束の間、一歩二歩と踏み込んだところで意識が薄れ身体が前に傾く。

そして、目の前の彼女に抱き止められた感覚を感じながら俺は気を失った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る