識別名●貧民🪦

 土砂降りの雨の中、傘を手に紳士が一人、小高い丘に佇んでいる。彼の目線の先には豪華に装飾された墓標が写っていた。雨で彼の表情はよく見えなかった。

 あれは泣いていたのだろうか。それとも笑っていたのだろうか。


 母さんは優しい人だった。誰にでも親切に振る舞い、困っている人がいるなら、自分を犠牲にしてまでも助ける人だった。揺れる金色の髪と、柔らかな視線。それがこのスラム街での唯一の救いだった。

 俺は母さんを誇りに思ってた。

 母さんはよく俺に、お話をしてくれた。


「他人の物を取ってはいけませんよ。その分自分も心が貧しくなるのだから。」


 当時の俺は訳も分からず、母さんが笑う所を見たくて、「うん!」と返事をしていた。

 母さんの皿にはいつも殆ど食べ物が入っていなかった。色んな奴らに集られて、その度にパンをちぎって渡す。お互い助け合う事が必要だ。と毎日、笑っていう母さんの身体はどんどん痩せ細っていった。

 俺は母さんが心配だったんだ。


「母さん!もう、アイツらに飯をやるの止めろよ!皆んな母さんみたいに優しい人達ばかりじゃないんだ!自分の為に生きてくれよ!」

「…ねぇ。アーノルド。私は何も皆んなに優しさを求めている訳じゃないのよ。」

「じゃあ、どうしてそこまでするんだ!」

「そうやって皆んなが優しさを失ってしまったら、誰が貴方に優しくしてくれるの?私はね。私の事なんていいのよ。貴方が生きる世界が少しでも良くなってくれればね。」

「母さんは、バカだよ!」

「………そうね。」


 俺はその日初めて家出をした。破れた靴とボロボロの布を纏い、行く先もなく、ただここじゃないどこかに向かいたくて走った。

 こんな世界で優しさなんか意味あるもんか。母さんはこの世界に適していないんだ。

 目からは涙が溢れていた。

 走って走って、ここが何処か分からなくなるほど走って、俺は疲れ果てて壁にもたれかかり地べたに座った。

 黒く濁ったような空は重く、あたりの音が鮮明に聞こえる。

 

「なああの女の所に飯もらいに行こうぜ。」


 そんな声が聞こえた。


「あのバカ女、いつも言えば言うだけパンをくれるんだよなぁ。自分の分すらまともにねぇのに。マジでバッカじゃねぇのかな?」

「アイツ、うちの母さんにもとんだ大馬鹿だって言われてたぜ!正しく生きるとかなんとか言っちゃって、マジで五月蝿えんだよな!」

「バカみたいに他人に施して、自分が神や金持ちにでもなったつもりかよ。そういうのは余裕があるやつがするんだって誰か教えてやれよ。」

「おいおい!教えたらパンもらえなくなっちまうだろ!」

「それもそうか!ハハハハハ!」


 馬鹿にするように笑う奴らを見て、俺は腹が立って仕方がなかった。でもそれ以上に少しでもアイツらの方が正しいと思ってしまった俺自身に腹が立った。

 そんな考えを払拭したくて、気づいたら俺は馬鹿にしたクズどもの群れに殴り込んでいたのだ。


「お前ら黙れ!母さんは母さんは間違ってなんかいない!間違っているのはお前らの方だ!」


 自分に言い聞かせるように声高に叫ぶ。


 奴らの顔を殴り、指を噛みちぎった。

 何発も殴られたが関係なかった。ずっとずっと母さんを馬鹿にしてしまった心の痛みの方が強かったから。


「こいつ、あの女の息子だぞ!」

「親もバカなら子もバカだな!」

「オメェの母さん、普段何して金稼いでるか、知ってるか?」

「金持ちに身体売って、稼いでるんだよ!プライドも何もあったもんじゃねぇよなぁ!」

「黙れ!黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ!!!!」


 奴らが逃げ、殴り合いが終わった頃には、俺の顔は腫れ、身体中に痣や傷ができていた。

 「帰って、母さんに謝ろう。」そう思った。

 家に帰ると、母さんは俺を見て、何も言わずに抱きしめてくれた。そしてすぐにこの町では高額な傷薬を買ってきてくれた。


「…母さん。ごめん。ごめんなさい。」

「いいのよ。怒ってなんかいないわ。」

「…うん。」

「だけどね、これから喧嘩するのはやめなさい。暴力はなにも生まないわ。憎しみが増えるだけよ。貧しいからといって心まで貧しくしてはダメでしょう?ね?」

「うん。」

「それに、アーノルド。あなたが心配なのよ。怒った相手から何をされるか分からないからね。」

「分かった。気をつけるよ。俺はもう喧嘩しない。」

「フフ、ありがとう。あなたは自慢の息子よ。」


 母さんはそういうと、俺だけにパンとシチューを食べさしてくれた。母さんの分はいつもの通りなかった。


 ある時、母さんが仕事から怪我をして、帰ってきた。店の客に乱暴をされたらしい。頬には大きく傷が付いていた。おそらく見えている場所以外も怪我をしているのだろう。それでも母さんは怒らなかった。

 

「あの人も本気であんな事思っている訳じゃないわ。魔が刺してしまう事なんて誰にでもあるもの。」


 そう言って力無く笑っていた。

 その日を境に母さんはどんどん元気が無くなっていった。次第に歩けなくなり、布団から起き上がる事も出来なくなった。

 俺は食べるものに困り、盗みを働くようになった。母さんの為にりんごを盗んできた時もあった。

 その度に母さんは咳き込みながら、俺を叱った。

「私の為に悪い事をするのはやめなさい。」と。

 日に日に母さんの容態は悪くなっていった。

 誰かに助けてもらおうと町を駆けずり回ったが、誰も助けてくれる人はいなかった。

 医者をなんとか引っ張ってきたときも、性病としか診断せず嫌そうな顔をして帰っていった。

 みんな母さんの世話になったのに、誰も母さんを助けようとはしなかった。

 母さんは直ぐに息を引き取った。

 母さんの死に心を痛めたのは俺だけだった。

 誰も、他人の死に構ってられないのだ。


「ねえ、母さん。もう無理だよ。手遅れだったんだ。やつらは性根から貧しい奴らだったんだよ。」


 泣いて泣いて泣いて、もう一滴の涙も出ないほどないて、天を仰いだ。

 俺はその日から、何も躊躇わなくなった。欲しいものがあったら、奪う。気に食わなかったら、殺す。

 どうせ優しくしたところで何も返ってはこない。

 心が貧しくてもいいんだよ。死んでしまうよりは。奪われるよりは。

 

「ああ、母さん。愚かで美しい母さん。豪華な墓をたててあげるね。こことは関係のない。綺麗な場所に。母さんのように綺麗な墓を。」


 

 

 

 

 

 

 

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