識別名・ウィルス🦠
古びたアパートのその一室。汚いが生活感とは程遠い、埃を被ったキッチンや壁に貼り付けられた写真群が目に入ってくる。
換気すらしていない、この部屋は埃っぽくて唇の傷がいたい。
狭く、一部屋しかない間取りの薄暗い部屋の中心で彼は私を見つめている。
「やあ、来ると思っていたよ。」
彼は悪びれもせずにそう言ったのだ。
手に握る包丁が僅かな光を反射し煌めいている。
「驚いたような顔だね。君を待ってたのが不思議かい?」
芝居じみたような声と動きで彼は言う。
吐き気がする。
「おいおい、そんなに敵意を人に向けるもんじゃあないよ?まあ僕に言われてもって感じだろうけどね。でも最後の時くらい仲良く過ごそうっていう粋な計らいのつもりなんだよ。理解してくれよ。」
そう言った彼の顔は目の隈がハッキリとつき、頬も痩せこけている。
「ほら、これ見てくれよ。この写真。」
彼は壁の写真をむしり、私に見せる。
「これ、これ!そうこれ!これが君のお父さん!僕が殺した君のお父さん!アハハハハハハハ!!!僕が!殺した!アハハハハ!!!」
彼はくしゃくしゃの顔を手で覆い、狭い部屋内に響きわたる声で大笑いする。
「アハハハハ…はぁ。」急に表情が豹変して、くしゃくしゃの悲壮感のある顔に戻る「…本当、笑っちゃうよ。どうして僕は彼を殺してしまったんだろう。いや、分かってる筈だ。君も立っておらず座ってよ。ちょっと話をするからさ。」
彼は埃の溜まる床に腰掛け、あぐらをかいた。そして、天井を見つめるかのように、喋り出す。
「僕はね。唯の会社員だった。本当に唯の会社員だったんだ…」
僕には、出会ってから数年の妻がいたんだ。名はメリッサ。揺れる金色の髪は滑らかで、僕を見つめるあの碧い瞳はいつも美しかった。そして、いつでも太陽のように明るく笑っていたんだ。彼女との日々は幸せだった。それこそ、言葉では言い表せないくらいに。幸せだった。
でも、ある時に彼女が仕事から帰ってきた時、見た事のない歯を噛み潰しそうな形相をして震えていたんだ。
僕は話を聞かなくても分かった。
ああ、彼女は何かとんでもない事をしてしまったんだろうってね。
僕は「どうしたの?仕事で何かあった?」と親身になって聞こうとしたさ。
だけどその度彼女は「いいの。大丈夫。なんでもない。大丈夫だから。」と言ったんだ。
大丈夫なワケないのに。
その日から彼女の顔からは笑顔が消えた。それどころか、何かに怯えたように家中のカーテンを閉め、テレビをつけるのも嫌がり、自室に篭りっぱなしになってしまったんだ。
仕事ももう行けず、外にも遊びにすら行けず。
それでも僕は彼女を支えようと精一杯がんばったんだよ。
彼女は既に目の下にはビッシリ隈ができ、頬は痩せこけていたけど、それでも僕の愛すべきメリッサだった。
自分で下手な料理をして、彼女に食べさした。
たまに、「ごめんなさい。ごめんなさい。」と涙を流して謝ってくるのは正視できなかった。
僕は介抱しながらずっとずっと彼女が何故こうなったのか、気になって仕方がなかった。
だけど、その答えはすぐに分かった。
『彼女は人殺しをしたんだ。昔馴染みの男をハンマーで何度も何度も殴って、殺し、海に沈めたんだ。』と、家に押し入ってきた悪漢が言ったから。
ピンポーン。インターホンが鳴る。
彼女はとうに出れないので、僕が出るしかない。
ガチャリ。ドアを開けた瞬間だった。
僕は、そこにいた男に頭を硬いもので、殴り飛ばされて、気絶してしまった。
目を覚ました時には身体が縛られていて、身動きが取れない状況だった。
よく見えない暗い部屋。そこには抵抗する意思を見せないメリッサと男がいた。
男はメリッサを手に持った包丁で何度も怒りに任せて刺した。
メリッサはまるで受け入れるように、悪漢に両手を伸ばす。
包丁は彼女の皮膚を貫き、赤い汁が飛び散る。身体は二度三度跳ねた後、動かなくなってしまった。
僕にはできる事が何も無かった。
男はその後、僕に近づいて何か、薬を飲ませた。
意識が遠のき、瞼が重くなる。
再び目を開けた時には、辺りは明るくなり、男はもう居なかった。彼女の死体もそこにはなく、僕の拘束も解かれていた。
残ったのは、赤く染まったフローリングだけだ。
その日から僕は血眼で犯人をさがしたよ。怒りで下唇を破れるほど強く噛んでね。仕事をしていない時は、犯人探し。警察?そんなのに頼るワケないだろ?だって、復讐がしてやりたかったんだから!この手で!彼女を救えなかったこの手で!アイツを殺してやりたかったんだ!
僕は探して探して探して探して!
見つかった。
僕は彼を殺そうと何年もかけて準備をした。殺した後の事は考えない。ただ確実に殺せるような段取りを立てた。彼が嫌がろうと何をしようと絶対に殺せるプランを立てて、その日が来た。
でも、いざ殺すとなった時。彼と対面した時。
彼は抵抗しなかった。
「やあ。来ると思ったよ。さあ。好きにしなさい。」
彼はそう言ったんだ。
僕はムカついて仕方がなかった。何を達観してやがるんだと腑が煮えくりかえりそうだった。
そして、彼…君のお父さんを殺した。
「僕は後悔したよ。何度もね。どんなに人を恨んでいても、人を殺してはならないんだ。あの日あの時の感触が今でも残っている気がする。あの時の血が洗っても取れないような感覚がする。気持ち悪くて、寒気がして、誰かに見られているかのような気がして。眠れすらしない。」
彼はそう言って私の方を見た。
「ねえ、だけど君も同じなんでしょ?僕を殺しに来てしまった。その唇。怒りで噛みちぎれたんでしょ?」
彼の見透かしたような態度に吐き気がする。
「そのナイフをしまえとは言わないよ。だけどさ、まるで病気だよ。人から人へ。怒りが、恨みが、伝播する。君もそのウィルスに感染してしまったんだよ。」
私は彼に近づく。
「…止まる気は無いみたいだね。いいよ。ようやく、僕の番って事だ。」
埃っぽい部屋に赤い血が飛び散った。
何度も何度も、彼がズタボロになるほど刺した。
とても、気持ち悪い感触が手に残った。
数年後、私を殺しに誰かがやってくるのだろうか。
その時はきっと言うのだろう。
「やあ、来ると思ってたよ。」と。
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