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 ホームルームが終わるまで、時間が嘘のように遅く感じた。

 トイレで電話しようかとも思ったが、個室から声が聞こえてきたら怪しまれるだろう。特に男は個室を使うと目立つ。足早に表門を出たあとは、駆け足で学校から遠ざかった。

 帰り道で電話をすることも見つかった時のことを考えると気が引けて、家まで着いてからやっと電話をかけることできた。

 制服姿で平日に映画を見に行くなんて、デートの日のおれは随分気が大きくなっていたんだと自覚する。あの日は、日部と二人だったからだ。一人のおれは、言いようのない恐ろしさが身を固くして何もすることができない臆病者だった。

 ベットに座り、日部の応答を待つ。

 何度目かのコール音の後に、プツと相手が出たことがわかる空気音が聞こえた。

「日部っ」

『どうした、河野』

 おれの上擦った声と比較して、出てきたのは平坦な声だった。あんな別れ方をして電話するおれもどうかしていると思うが、構わず続ける。

「日部、先生が、日部の家に行くのかもしれない。親と連絡もつかないからって」

『そうなのか?』

「そうだよ、中山くんが言ってたから間違いない」

 連絡がつかない理由なんて、一つしかない。明白だ。

「日部の母さんが、死んでるから。だから、親と連絡がつかないんだろ」

 言いながら、すごいことを言っているな、と思う。一字一句違わずそのままの表現なのにどこか非現実的な感覚に包まれながら、矢継ぎ早に声を上げる。

「あ、あれからお父さんとの連絡はついた?」

『いや。ああ、もしかしたら先生は父さんの連絡先を知らないのかな』

 おれの早口に反して、日部の口調は遅い。

 日部への忠告のつもりだったのに、当の本人がこんな感じだとヤキモキしてくる。おれは一呼吸おき、声を置くように絞り出した。

「日部、来たら、流石にバレるよ」

 日部の一階の間取りは複雑だ。日部は、トイレの前に続く血濡れた廊下にさえ通さなかったらバレないと考えているかもしれない。

 意図してかは知らないが、死臭を誤魔化す手も既に打たれている。それでも、豪胆なようで繊細にものごとを察知し突っ込んで行く種田先生が、芳香剤で誤魔化されてくれるとは思えない。

『河野、最初にも言ったけど、俺が殺したんじゃないからそんなに心配しなくてもいいよ』

 電話越しの無機質な声が嗜めるようにそう言った。

「……」

 河野は、種田先生にバレるのは怖くないと言っている。

 でも手首は切ったっていうのか?

 そしてトンネルに手首を置いたって?

 あのナイフは、トンネルに置いたことはどう判断すればいいんだ。第三者が見た時に、どう判断されると思っているんだ、ぐるぐると駆け回る思考を抑え込み、小さく声を出す。

「それは、信じてるよ」

『嘘だね』

 あっさりと否定され、声が詰まった。

「う、嘘じゃ」

『だったら俺の家にくるだろ?』

「……それは」

 スマホを持つ手に力が入る。学校から家への通学路の途中に日部の家はある。おれが日部の家を素通りして自宅から電話をかけていることに、日部はその意味に気づいている。

『俺が怖いんだろ』

 刺すような指摘に、なんと答えたらいいのか分からない。

 数秒黙っていると、日部は軽いトーンで話し始めた。

『冗談だよ。昨日は、怖がらせてごめん。匂いがきつくなってるから来なくて正解だと思う』

「…匂い、って」

『人間、環境に順応できるもんなんだなあ、途中きつかったけど、段々よく分かんなくなってきたわ』

 からりとした口調だったが、嫌な表現だと思った。

 密室空間であるといっても、トイレは完璧な密閉じゃない。ドアの隙間から匂いは漏れ出ていく。中の死体は日が経つにつれ腐敗していき、どんどん死臭の酷さは増していく。おれが家に行った時の芳香剤くらいでは紛れなくなるのも時間の問題で、すでに酷い有様なのかもしれない。

 日部はそんな家の中にいる。

 振りすぎた芳香剤の甘い匂いと、死臭の酸っぱい吐き気のする匂いがぶつかり合った家で。

 そう考え、昨日の日部の言葉が頭に浮かんだ。

 トイレにずっといるのも可哀想だから、埋めてあげたいと言う日部の言葉。

 今日、河野が休んだ理由。

「日部!」

 おれは叫ぶように名前を呼んだ。

『ん?』

「ま、まさかバラしてないよね?」

 高い、うわずった声が出る。スマホを握る力が意識せず強くなり、指の感覚が薄れる。

『してないよ』

 日部はすんなりと否定してくれた。

 否定が聞きたくて、安心したくて質問したのに、答えには文頭にまだ、がついていそうで、怖くなる。

「…………」

 昔から日部とはよく遊んだ。

 日部は、可哀想なやつなんだ。

 あんな家に生まれて、我慢を強いられてきて、おれには想像がつかないくらいきつかったと思う。

 おれは日部のことが嫌いじゃない。一人の人間として好きだと思ってる。

「一緒に、逃げようか?」

 ドラマみたいなセリフが口を出た。

 勇気を出して言ったつもりだったのに、ヒラヒラと紙みたいに薄っぺらい。

『なんで河野が一緒に逃げてくれんの?』

 真意を探るような言葉にすぐに答えられず、間を開けて返答する。

「おれは…日部の彼氏だから」

『河野、それ本気で言ってんの?』

 低い声に、足がすくむ。答えようとして、喉が張り付いたように声が出ない。

 日部はおれを何秒か待ってくれたが、待ちくたびれたのか紡ぐように話し始める。

『河野はいつもそんな感じだよな。期待を持たせるようなことを言うのに、実際、何にも考えてない』

「……」

『河野はさ、なんだかんだ、なんだって受け入れてしまえるんだと思うよ、自分の気持ちなんか抜きにさ。そういう奴なんだと思う』

 日部の言葉が胸に、爪で引っ掻くような浅い傷をつける。

「…そんなこと、日部には、わからないだろ」

 おれにだって受け入れられないものはある。日部はおれの過去を、両親の離婚を知ってるはずなのに。なんでそんなことを言うのか。

 思いがけないショックに晒される中、被せるように日部は『じゃあさ、俺とキスできる?』と言ってきた。

「……なんだよ、それ」

 日部がまた変なことを言ってきて吸い取られるように悲しさは萎む。むしろ困惑と疑問が優り、感情がごちゃついてしまう。

(まただ、日部は、なんでこんなことを言ってくるんだ)

 日部はおれの質問に返してくれない。

「冗談だよ」と帰ってくることを期待したが、黙ったままだ。

「…しろと言われたら、多分できるけど」

 ぼやけた脳みそであまり考えずに答えると、向こうで風のような音がした。

『最悪の返事だな。切りたくなってきた』

 電話を切る気配を感じ、慌てて声を上げる。

「ああま、まって!違う、そんなこと突然聞いてくるから。ああ違うタイミングの問題じゃなくて」

『おちつけって』

 はは、と電話越しに笑われた。

「あ、…ああ」

『冗談だよ、からかっただけ』

 握りしめていた指先から力が抜ける。 

 冗談、と頭の中で反芻する。

 どこからどこまでが冗談なのか、と聞きたくなる。悲しみも怒りも、困惑も一度かき消されるように消えて、疑問だけが頭に残る。

「…なんで日部は、そんなこと言うんだよ」

『そんなことって?』

 実際に会って話してないと顔が見れない分、感情が分かりづらい。

 日部の声はこんなに冷たい印象を受けるものだっただろうか。

「好きとか、付き合って欲しいとか、キスとか…日部がおれにどうしてほしいのか分からないんだよ。ずっと考えててるけど、分からないんだよ。逃げたいのか、バレたいのか、どっちなんだ。何を考えてるんだよ」

『あはは。だから逃げてくれるって提案したのか』

 日部がおれを頼りたくて、そんなことを言ってきているのだとしたら、おれにできることはなんなのか。して欲しいことがあるのなら直接言ってほしかった。

『河野と逃げるのもロマンチックかもなあ。警察とチェイスとか、ちょっと憧れてたんだよな』

「おまえ…」

『俺は、河野が考えてくれるのが嬉しいよ。河野のこと、本当に好きだ』

 無機質な音声が耳に響く。

『あしたは学校にいくよ』

「…うん」

 電話はあちら側から切れた。

 今日学校を休んで何をしていたのか気になっていたが、明日来るというなら明日聞けばいい。スマホを下ろして、目を閉じる。

 学校に来て日部からなんとか言い訳すれば、種田先生も家に行くことはしないかもしれない。

 こんな考えは問題の先延ばしにしかすぎないと分かっている。

(早く見つかった方が、いいのかもしれない)

 どうしたらいいかな、と日部の家で言われた。

 そんなこと、おれには分からない、だって、日部がどうしたいのか分からないなら、対策も立てようがない。

  

 

 

 

 

 何かをしていないと落ち着かなかったので、制服を着替えて、料理をして父さんを待つことにした。カレーはまだ余っているので、副菜のサラダをありあわせで作る。レタスとトマトを切て盛り付けるだけなので、たいして時間は潰れなかった。

 今日で3日目のカレー、ということになる。

 二人では早く食べ切れないものだ。

 こんな状況じゃなかったなら、日部に食べに来てほしかった。

 洗濯を干して、普段はいい加減な明日の学校の準備をきちんとした。部屋にある新聞紙とか、ビー玉とかの邪魔な物を棚に片付けて、それでも余る時間をどうしようかと迷って、していなかった換気をしようと窓を開ける。

 まだ夏のカンカン照りのような暑さはないが、湿気を帯びた暖かい風が肌をくすぐる。

 狭いリビングのテレビのニュースからは、明日は雨になると予報が聞こえてきた。

 土砂降りになればいいと思った。

 池と海の境目すら、かき混ぜられて、うやむやになって仕舞えばいい、そう言う気分だった。

 むしゃくしゃとした感傷がどうしようもない気分にさせる。

 テレビのニュースが天気予報から、起きた事件や事故になって誰かが捕まったと言うキャスターの言葉に、自然と耳をそば立ててしまう。

 遠いどこかで起こっているそれらの事件が、おれの街で起きていないことに安心する。ぼんやりと、今までのおれはニュースを確認することで、自身の生活の平和を実感していたのではないかと思った。その確認で得られる安心なんてものは、実はハリボテなのではないかと考えさせられる。

 窓の外で、少し小さくなった人が2、3人横切った。

 彼らだって、事件とは縁遠いところで生きているようで、裏では事件を起こしていたり、事件の被害者だったりするのだろうか、と想像した。

 可能性で言えば、それはあり得ることだった。

 それは恐ろしいことなんだろうか。

 人がみんなそれぞれの人生を生きていて、他人がもし殺人鬼だったら、なんて想像をしていきていない。そんな可能性を考えながら生きていたら、普通には人生を過ごせないからだ。考えられる可能性は無限にあって、日部の言ったように、哲学的ゾンビは存在しているのかもしれない。でもそんなこと考えながら生きていけないほど、人間の身の回りで起きている物事は複雑で、大変だから、脳は処理を軽くするために考えないようになっている。もし、おれ以外の人間が全て哲学的ゾンビなのだとするなら、人は人と接する時、何を信じればいいのか。

 ずきんと頭が痛くなる。

 普段、おれはこんなことを考えない。使わない脳の回路を使っているから、擦り切れるように疲弊してしまっている。

 非日常に直面しているせいだ。

 日部があんなことを言いはじめたのも、こんなふうに、普段考えないことを死臭が呼び起こしてしまったせいなんじゃないか。

 日部は今家で、考える時間が多いから、その余計な容量を割いてしまって、変な妄想に囚われているんじゃないかと考えると、早くあれは見つかったほうがいいんじゃないかと思える。

 誰も日部の家に死体があることなんか想像しない。

 ガチャ、と玄関が開く音がした。

 父さんが帰ってきたのだ。

 窓を開けたまま長い時間が経っていたらしい。冷えた肌をさすり、窓を閉めて玄関に向かうと、靴を脱ぐ父さんは片手に何かを持っていた。その黄色い箱には見覚えがある。

「圭、ご飯作ってくれたのか、ありがとう」

「ううん」

 父さんは台所に置かれた夜ご飯を見てお礼を言い、リビングのテーブルに持っていた箱を置いた。

「お土産買ってきたから、後で食べよう」

 可愛らしいキャラクターが描かれた、黄色い柄のケーキ箱。父さんの手が開くと、中にはオムレットが揃えられて入っていた。

 ほのかな生クリームの匂いがして、疲れた脳が痺れるように癒される。

 懐かしい匂いのそれを見ていると、父さんはくすくすと笑い出した。

 遠慮がちな笑い声は、父さんの癖だ。

「なに?」というと「いいや」と言う。

 これも癖で、いいや、というのに、普通の人は話してくれないのかな、と身を引くが、父さんは構わずその理由を話し始める。

「覚えてる?日部君と圭がしたイタズラのこと」

 チラとこちらを見る目線を感じる…、おれに気づかせて言わせたいのか。

 普段はなんとも思わない父親の動作が気になっていることに、気が立っていることを自覚する。

「イタヅラなんてしたっけ?」

「あれ、覚えてないかな?俺もいつのことかは忘れたけど…」

 父さんはジャケットを脱ぎ、時間が経って冷えてしまったカレーに火をかける。

 緩慢な動きを追うことが嫌になり、机に座り息をついた。父さんはおれの身の回りで起きていることの一切を知らないのだから、呑気だと捉えてイライラするのは理不尽でしかない。

「ちょっと着替えてくるから、それ食べてていいよ」

 父さんが指差す箱を見た。

 このお店のオムレットは母さんが好きで、駅前のスーパーに行くついでによく買ってきていた。

 これと関係した日部との思い出となると、何年か前に遡らなければいけない。

 オムレットを一つつまんで、紙を剥がして食べる。

 口に広がっていく優しい味わい、高級感はないがたしかな美味しさが口内に溶けていく。

(あ)

 甘みが脳を刺激して、花が咲くように思い出がひとつ呼び起こされる。

 オムレットのイタヅラといえば、一つだけあった。

「イタヅラって、1個置いていくやつ?」

「そうそう!それ!」

「よく覚えてるね、おれ、忘れてたよ」

 思い出して、何とも言えない感覚になる。

 楽しげに戻ってくる父さんには愉快な思い出なんだろうが、おれとしてはいい思い出ではない。嫌な思い出だ。だから忘れていたのだと思う。

 父さんが部屋着で戻ってきて、オムレットは食後に食べたいと言うのでケーキの箱は冷蔵庫に入れた。昨日と同じようにカレーを準備をして机に並べる。

 ご飯を食べながら話すのは、その思い出のことだった。

 おれの家族と日部の家族の6人で貯水湖に遊びに行って、母さんが買ってきたオムレットをみんなで食べた時のことだ。

 オムレットの正確な数まで覚えていないが、ちょうど6人分で分けられるようになっていて、1人あたりの食べる個数は指定されていた。

 おれたちはすぐに食べ終わり広場にいたのだが、大人たちは会話に夢中で、オムレットを食べ進めていないことに気づいた。

 思いついたのは日部だった。

『もしかして、オムレットが残ってることを気づいていないんじゃないか?食べてもバレないかも』

 バレるだろうとおれは思った。食べ終わったオムレットの底の紙はケーキ箱の底に蓄えられている。いきなりオムレットが消えて、食べ終えた紙が増えていたら誰でも気づくだろう。

 反応のよくないおれに、日部は考えがあると自信満々に言うのだ。

 ゴミを片付けて、テーブルにひとつだけオムレットを置いていこうと言った。

『何もなかったら怪しまれるから、ひとつだけ置くんだ。ゴミは俺たちが片付けておいたよって言えば、母さんたちもまず感謝をするだろ?』

「あれはしてやられたな」

 くすくすと笑う父親に対して、おれは苦い記憶も思い出していた。苦いのは、その後バレて母親に怒られている日部を近くで見ていたからだ。

 大人達が席を外した時にこっそりと箱を回収して一個だけ入れて戻す役割はおれがしたのだが、紙の処分は日部が担当した。処分した紙のありかが見つかって、その不自然な処理の仕方に、連鎖的に犯行はバレてしまった。

 ビリビリと破った紙をあろうことか湖に撒いた日部は、紙が水に浮かぶことを考えていなかったのだ。

 紙をビリビリにしたのは後で紙の数を数えられて犯行がバレることを恐れたからなのだろうか、そこまで聞いていない。

 とにかく、日部の母親としては小細工を弄したことが怒りの琴線に触れたらしい。

 恐ろしい般若のような形相はもう見れないのだろうが、あの時は本当に恐ろしかった。

 幼稚園くらいの話だ。あの日、日部は声をあげて泣いていた。

「小さいのにそんな小細工してるのが、ほんとに面白くてさあ、真剣に考えたのが、顔見てたら分かるんだもんな。はは、かわいかったなあ」

「もうやめてよ、急にそんな昔の話」

 泣いている日部を見たのはあれが最後だったかもしれない。

 助けを求めるように涙目でこっちを見る日部に、おれは日部の母親が恐ろしくてどうすることもできなかった。

 父さんはカレーを口に運び咀嚼した後に、かすかに微笑んだように見えた。

「今までは、あえて昔のことは触れないようにしてたんだけどさ」

「……」

 言葉は半端に途切れ、パッと顔を上げた。

「あした、学校で日部君に会うよね?オムレット好きだったでしょ、日部家の家族分あげな」

「…うん」

 カレーを口に含む。

 ぴり、と舌を刺激する味が、美味しいのかよく分からない。

 にこやかにそう言う父さんは、日部がもしかしたら、日部の母さんを殺したかもしれないということを話したら、どう思うだろう。

 おれと同じで、日部ならやるかもしれない、と感じるだろうか。

 昔の日部は、イタヅラに頭を使うのが好きだった。それは思えば、当時の日部の母親には余裕があり、日部家が相対的に落ち着いて見えた時期でもあった。おれから見ればくだらないと思うことも、日部はすごく楽しそうにしていた。

 最近もプリントを隠れて提出する時にそういう面を垣間見たが、中学に入ってからは切り替わるように大人しかったのだ。

 日部を抑えつけていたものが消えたから、開放されて、本来の姿が出てきたんじゃないか。

『昨日午後、殺人事件の犯人が捕まりました』

 テレビのニュースが耳に入る。

 犯行に関するニュースだけを耳が拾っている気がする。

 家から出た、目深にフードをかぶった犯人に群がるようにカメラが囲み、バシャバシャと光を浴びせかけられているのに、胸がざわつく。

『また、1人が共謀した罪に問われており、その行方を』

「父さん、あの」

 机の上のスマホが鳴った。

 父さんがスプーンを持っていない方の手でスマホを掴み、画面を見てすぐさま立ち上がった。「ちょっとごめん」と言いおれから離れるように扉を開けて、奥の部屋に見えなくなった。

 伺いを立てる相手がいなくなったので、リモコンを取りチャンネルを変えた。適当にボタンを押すと画面はドラマに切り替わった。この前ごたついていた男女はなんだかんだ晴れて結ばれたようで、華やかな結婚式のシーンが映っている。

 父さんは電話に出たら数分は戻ってこない。

 最近の行動を見ていれば、そういった目算が立つようになった。

 やっぱり、再婚相手なんだろうか。

 閉められた扉の奥から漏れ聞こえる音に、薄暗い感情が湧き立つのを感じる。画面に映る幸せそうな結婚式の様子を見ながら、不快感に、カレーを食べる手が止まる。

 母さんがいた台所に、母さんがいたリビングに、母さんがいた洗面台に、他の知らない他人が“母さん“として立っている風景。

 気持ち悪い。

 ただひたすらに、気持ち悪い。

(…そんなこと、考えてる場合じゃない)

 テレビを消して、考えを振り払うために立ち上がり、父さんの入った部屋の方向を見ないように、台所の冷蔵庫を開ける。

 中から冷えたオムレットの箱を取り出して、いくつかタッパーに移す。

 明日、日部は学校に来る。

 会えば、おれを支配している焦燥感をどうにかできないだろうか。

 何もしないまま時が過ぎ去っていくのではないかと言う不安。

 重大な物事が、こうする間にも行われているのではないかという恐怖。

(おれに、何かをして欲しいんじゃないのか?)

 あの家にいる日部のことを思った。

 

 

 

 

 

 空は朝の光を感じさせない、灰色ペンキを塗装したように平坦な曇り空をしていた。

(天気予報で雨だって言ってたな)

 今にも降り出しそうな雲を見上げて思う。

 傘を忘れてしまったことに家から割と離れた地点で気づいたが、緊張のせいだと結論づけて先を進む。

 傘を持って行っても大抵学校の中にいる間に振り終わったり、誰かに傘を持ってかれたりすることがあるから、気にすることはないと思った。そんな日常の些細なことよりも、おれには今日、日部と会うという一大イベントがある。

 日部と会うのはデートの日、刃物を持った日部を見た日以来だ。

 電話では相手が近くにいないから話せたが、面と向かうとなると話は別だった。

 昨日の夜、何回か日部と話すシュミレーションはしたが、どれもしっくりこなかった。

 自然に話しかけたって、逆に不自然な気がしてくるのだ。

 そのくらい非日常に当てられて、感覚がおかしくなっている自覚がある。

 日部はどんな顔をするだろう、日部の顔だけが塗りつぶされたように表情の想像がつかない。

 通学路を進みながら、日部の家に近づくにつれて足が重くなる。

 大丈夫だ、会ってもそのまま進めば、学校でなら周りに必ず人はいるし、この間のようなことにはならないだろう。そう自分を鼓舞して、曲がり角を曲がる、電柱を避けた先。

「よ」

 綺麗な顔をした男が立っていた。

「…おは、よ」

 完全に不意をつかれた。

「匂い確認してほしくて、待ってた。俺の鼻バカになってるから自分じゃよく分かんないんだ」

 へら、と笑うその顔に、狂気は感じられない。想像できなかった日部の笑顔が、当たり前のようにそこにあった。

 日部は、日部の家よりも随分歩いた地点まで来ておれを待っていた。

「俺の匂い、大丈夫?」と言い、こっちに肘を突き出した。

 意図しない間が生まれてしまったが、服に鼻を近づける。すぐに、う、と体を離して後退した。

 腐った匂い、甘酸っぱい異臭が制服から風に流れ漂ってきた。

 オムレットでリセットされた鼻が、潰れたような感覚がする。

「…まずいかも」

 おれたちは学校に直行せずに、大通り沿いにあるコンビニに立ち寄ることにした。

 消臭剤を買って、フローラルの香りを外で振りまく。

 本当は学校に行く前にコンビニに行ってはいけないのだけど、デートの時と同じだ。どこからか湧いてきた謎の行動力によって、難なくクリアしてしまった。

 日部の制服は振り撒きすぎて湿ってしまっている。

「どう?」と聞いてきたので、近づいて匂いを確認する。

「…多分大丈夫かな」

「ありがとう」

 日部は、にこにこと子供みたいに笑った。腕に鼻を埋めてくんくんと匂ってる姿は犬みたいだ。

 過剰に元気に振る舞っているようにも見えたが、おれは素直に日部らしいと思ったし、消臭剤の蓋を閉める頃には緊張は和らいでいた。

「あのさ、これ、父さんから」

 渡すなら早めのほうがいいだろうと、タッパーの入った紙袋を鞄から取り出す。

 日部は横から興味津々に覗き込んだ。

 長いまつ毛が目に影を作っている。

「オムレット、父さんが好きだったろって」

「えっ!」

 中を見る前に、おれの言葉に即座に反応して、袋を手に取った。紙袋からタッパーを取り出して、入っているのが昔よく一緒に食べたオムレットだとわかり、日部は分かりやすすぎるほど破顔した。

「まじで、うれしい」

「保冷剤はいってるから、学校に持ってっても大丈夫だと思う」

「たべていこうぜ」

「え、いま?」

「何個か入ってるから、河野も一緒に」

「…日部の家族の分だよ」

 言いづらくて、言おうか迷ったが口にした。

「じゃあ食べてもいいよ。な?」

 くい、と腕を下に引っ張られる。

「え、ここで?」

 勘違いだったらよかったのに、日部はコンビニの車が駐車するブロックに座って食べようと言った。

 朝早いためおれたち以外に客はいないが、さすがに躊躇う。

 コンビニの中を横目で見て、レジに立つ店員さんからは見えない角度なことはまぁ分かったが、コンビニはどこもそうだと思うが大通り沿いにあり、おれ達は車線を通る車から丸見えになる。日部はおれの同意を得る前に先にブロックに座ってしまった。あっという間にタッパーを取り出し、一つを口に運ぶ。

「んま〜懐かしい味がする、河野もたべよ」

「…はぁ」

 もうどうにでもなれ。

 おれも横に座った、駐車用ブロックに座るのは、地面のアスファルトに座るよりはマシか、と言うぐらいのレベルだった。

「いいだろ?たまには外で食べるのも」

「別に、家で食べるのと変わんないよ?」

「えー」

 話しているとコンビニ前でたむろするヤンキーみたいだ。中山くんに見られたらまず間違いなく密告され、種田先生に土石流のように怒られるだろう。

 座っているブロックが低すぎて、日部のほぼ垂直に折れ曲がった膝の上に、ちょこんと乗るタッパーにはまだ2つ入っている。

 言うまでもなく、日部の父さんと、母さんの分だ。

 父さんに「日部君の家に」と言われたので、律儀にその数分詰めてしまった。

 別に昔の日部のように、箱に残った数を数えられたら不自然だとわかるから、とかではなく、日部の母親へのお供物というか、謝罪のような気持ちだった。

 おれは彼女の死を知っているのに、それを放置している。後ろめたい気持ちがないと言えば嘘になる。

「ほら」

 日部はタッパーの中から二つを手に取り、一つをおれの手に乗せた。

「食べて」

「…うん」

 好きなら、おれが手にしたこの一つ分も日部が食べればいいのに。そう言ったニュアンスの言葉を言うと、日部はいつもの呆れた顔をした。

「わかってねえなぁ。誰と食べるかが大事なんだぜ?」

 1人で食べるより、誰かと一緒に食べているほうが、日部にとっては価値があると言っているんだろうが、ピンとこなかった。

「おれは日部がいっぱい食べてる方が嬉しいよ」

 こんな小さいもの、すぐに消えちゃうし。

「えー分かってないなー」

 日部は両足を伸ばしてローファー先をコツコツとつけて鳴らす。

 表情はずいぶん落ち着いているように見える。

「なんか、懐かしい」

 空を見上げる穏やかな横顔は、人間の手首を切り落とした人物だとは到底思われないだろう。

「そういや結婚式ってさ、ウェディングケーキを食べさせ合うの、知ってる?」とオムレットを掴んだ手を上げて言った。

「そうなの?」

「うん、新婦と新郎がお互いにケーキをすくって食べさせ合うんだ、昨日のドラマでやってたんだけどさ」

 おれはああ、と相槌を打つ。

「おれも見たよ。なんか、サカヅキを交わす、みたいだよね。あれ」

「えっ、あはは!台無しじゃん、そう言うと。でもあれって、なんでやるんだろうな、変だよな」

「うん」

 おれは手の中のオムレットを見た。

「したいの?」

「え、いや」

 日部は俺の言ってる意味に気づいたのか顔を赤くした。

 耳から茹でるようにブワリと赤くなる。

「いや、…いいや」

「そう」

 てっきりそうかと思ってはやとちりしてしまった。恥ずかしい勘違いだ。

 日部は忙しく、オムレットをパクパクと食べた。おれも食べて、染み渡る甘みを舌に感じた。

 甘いものを食べて変化のない曇天の雲を見ていると、時間は緩やかに進んでいくように思えたが、スマホで時間を確認して、始業まであまり時間がないと気づいた。

 視線を感じて振り返ると、コンビニの入り口付近で30代くらいの店員さんがおれ達を伺うように見ていた。そろそろだろう。

 空になったタッパーを引き取って立ち上がると、日部も大人しく続いてくれた。

 コンビニに寄ったことで、おれたちは日部の家の前を通らない裏路地から通学路に修正する道を通ることになった。「こっちから行くと学校近くに出るんだ」と自信満々に言う日部に連れられるままに、細い道を進む。

 どんどんと、人が通ることを想定されてない道を掻き分けるように進んでいると不安になったが、立ち止まると置いていかれそうになり、とにかくついて行った。

 俺は頭の中で以前にGoogleマップで調べた自宅周辺の衛生写真を思い出した、最短距離を結ぶこの道は知っていたが通ったことはない。

「日部、早いって」

「ん?あ、ごめん」

 路地裏にある室外機に足を取られ、進んでいく日部に声をかけた。止まって待つ日部に駆け寄り、さっきよりゆっくりと歩いてくれる。

 あのトンネルを通らなくていい道になる、と考えれば、多少の進み辛さは些細なことか。

「…昨日、学校に行かずに何してたの?」

「なんも、ずっと母さんと一緒にいた」

 本当だろうか。

 昨日、日部が家で何をしていてもおかしくはない。それだけの時間が日部にはあった。

「河野は学校?」と今度は日部が聞いてきた。

 狭い路地では、おれたちの声は反響して聞こえる。

「貯水池にいってた、父さんが連れてってくれて。その後に学校行ったよ」

「懐かしいなー」

 貯水湖の思い出には必ず日部がいた。

 だから同じ思い出を共有してる。

「あの頃と変わらなかったよ」

「そっか」

 前を歩く日部の顔は見えない。二人が横に並べないくらいの暗い路地を慣れたように進む日部に比べて、慣れていないおれの足取りは遅い。

 追いかけるような形で日部に声をかける。

「お父さんから連絡来た?」

「ううん」

「気にならないのかな…」

 漏れてしまった声に、口を塞いだ。この環境では小さな声でも日部に届いてしまっただろう。

「あ、いや」

 おれの失敗に日部は肩をすくめたように見えた。

「俺は父さんと、割と仲良かったんだぜ?父さんからは叱られたことはない。あの人って、人がいいんだろうな、なんか、2人が話してるとこ見てて、可哀想だなって思う時あったもん」

「そう、なんだ」

「母さん、ずっと子供ができなかったらしいんだ。後継を産まなきゃいけないのにできなくて、そのストレスでおかしくなったって父さんが言ってた。あいつの話は、話半分に聞いていいって教えてくれたよ」

「…そう」

 日部の家族の話を聞いている時に、いい気持ちになったことがない。

 父親が母親の悪口を子供に言うなんて、子供の気持ちを考えたことがあるんだろうか。

「父親に、相談しなよ」

 日部は立ち止まって、振り返ってこちらを向いた。

「…俺はあんまり話したことないからよく知らないけど、日部のお父さんは、日部のことを考えてくれるはずだよ」

 できる限り言葉を選んで発言しているつもりだ。

 俺たちに足りないのは、大人の力だ。

「子供で解決できる範疇を超えてるよ、おれももう…これ以上、どうしたらいいか」

 最後の方は、自分でも情けない声になっていたと思う。

「ごめんな」と言って、日部は横を向いた。

 暗い場所で見る日部の綺麗な横顔は、普段より大人びて見える。

「河野に言ってなかったんだけどさ」

 形のいい唇が、躊躇うように微かに澱む。

「父さんと母さん、離婚してるんだ」

「…え?」

 その言葉は、おれの家族のことを言ったセリフなのかと、一瞬勘違いした。

「先生が父さんの電話を知らないかもって思ったのは、それがあるからでさ。離婚したの中学入る前だから、書類とかに電話番号が載ってないんじゃないかなとは思ってたんだ」

「…え?ま、まって?」

 頭が追いついていない。

 離婚をしていた?

 そんな話は聞いていない。

 中学に入る前に離婚をしたと日部は言った。

 ということは、離婚してから2ヶ月はすぎている。

 その間に、おれは何度か日部に日部の家庭について質問をしたことがあったはずだ。

 日部は隣でいつものように笑っていた。

 おれに、離婚をしていないかのように、家族の話をしていたってことだ。

「冗談」という言葉は続かなくて、日部の顔を見れば冗談じゃないと分かる。

「な、なんで言ってくれなかったんだよ」

 黒い瞳がおれを見る。

「河野、嫌かなと思って」

 おれは、ハッと息を呑んだ。

 子供のような顔だと思った。

 綺麗な瞳が、顔色を伺うように、上目遣いにおれを見ている。

 不安定な家庭で育った子供が、親に嫌われないために身につけるものだと、おれは知っている。

 日部と母親を見ていると、日部はよくこの顔をした、そんな不安定な顔がおれに向けられている。

 見ていられなくて、目を逸らす。

「あっ日部くん!?」

 重々しい空間を、声が薙ぎ払った。

 安堂さんだ。

 その顔は、裏路地から表通りに出てきたおれ達にびっくりしているようだった。

「河野くんも、びっくり、ここで会えるなんて思わなかった。ずっと休んでたけど、体調大丈夫?」

 日部は彼女の対応をしている。その後ろを、背後霊のように着いていく。

 感情の整理がつかない。

 ごちゃごちゃとして、乱雑に積み上げて片付けていたと思っていた全てが、今、問題として目の前に出ているような、腹の中から、不快な渦がおれを飲み込んで。

「河野、オムレット美味しかった、ありがとうって伝えてくれよ」

 前を歩く日部が振り返ってこっちを見る。

 おれの顔を見て、慈しむような目をした。

「大丈夫、ちゃんと罰は受けるつもりだよ」

「え……」

「ひどいことをしてしまった」

「ひ、日部」

 手を伸ばそうとして、届かなかった。






 クラスの女子たちが、2日ぶりに登校した日部を囲んでいる。

 ホームルームからいままで、ちょこちょこと日部に話しかけていたが、それでも足りないようだ。

 五時間目には体育でサッカーをしていたのだが、雨が降り出したため急遽切り上げて、全員クラスに戻ってきた。雑に自習をしていろと放り出され、暇になったことに男子は落胆をしているが、女子は日部に話すチャンスだとばかりに話しかけている。

 キャッキャと可愛らしい高い声が、雨で暗くなったクラスの雰囲気をなんとか明るく保っている。

 振り付ける雨は、窓ガラス一面を濡らしている。

 外の轟々となる風の音を聴いていると、現実から逃避できるような感覚がする。

 もう全部忘れてしまいたい。

 日部のことも、母さんのことも、父さんのことも、再婚相手も、何もかも。

 忘れることは、おれにとっては簡単のことのはずだっだ。

 母さんのことだって、おれはうまく頭の隅に押し込めて、気にしないように、思い出さないように生きていくことができた。母さんのことを思い出すと辛くて居ても立っても居られなくて、自然と父さんを恨んでしまう、そんなおれの心が嫌いでしょうがなかったから、嫌なことは忘れることにしていた。

 あれだけ嫌だった世界が、忘れることで楽になったのを覚えてる。

 その代わりに抜け落ちるみたいに記憶力も薄れたけど、周囲への関心も、自分自身の感情も薄れたけど、別にどうでも良かった。楽になりたかったから、楽になれたから。

「…」

 でも、その保身のせいで見えなかったものがあったんじゃないか、と言う疑惑は拭えない。

 俺が楽になった分、日部の発していた助けや注意すれば気を回せた物事に、その重大さに気づけなかったんじゃないか。

 母親のことも、逃げずに向き合っていれば、おれなりに立ち向かえたんじゃないのか。嫌なことには逃げたらいいと言うけど、逃げることで誰かが犠牲になったら、重大な物事を見落とした結果がこれなんだとしたら、そうだとしたら。

 それは俺の罪なんじゃないのか。

「クラス替え、どうなるんだろうね」

 隣に来た安堂さんが話しかけてくる。

 言いながら、彼女の意識は入り口前にいる日部を気にしているのが分かる。日部に話しかけるつもりだったんだろうが、人が多すぎて断念したんだろう。

「…どうなるんだろうね」

 おれは投げやりにオウム返しをした。

 どちらも答えの知らない会話をしている時、こんなに無意味な時間もないと思う。

 安堂さんは返答に期待していなかったのか、「ねー」と言い、持ち主が教室の後ろで遊んでいて空席になった横の席に横向きに座る。艶のいい黒髪を靡かせて、教室の後ろを見ている。

 教室の後ろの壁には、月の行事が書かれた黒板や掃除用具が入ったロッカーや、教室で飼ってるメダカの水槽がある。壁の黒板の横には、この間美術の授業で描いた絵が貼られている。

 先生に選ばれた作品はコンクールに応募するというものだった。

 日部の絵は選ばれ、賞を取った。おれの絵は、酷い出来だったから先生選考の段階で弾かれてしまった。テーマは”家族”。おれは身が入らなかった。取り組むみんなは、家族が無条件で素晴らしいものだと信じているんじゃないかと、みんなの家庭環境も両親も知らないのにそう言うふうに見えてしまって、その感覚が気持ち悪くて、投げやりなひどい作品になった。

「河野くん達って、いつもあの道を通ってるの?」

「たまたまだよ、日部がそこを通ろうって言ったんだ」

「日部くん、裏道知ってるんだね。あの道は通ったことないなぁ」

「通んないほうがいいよ、狭いし。制服が汚れるかも」

「あ、それは嫌、やめとこ」

 ふふ、と彼女はいたずらっぽく笑った。

 安堂さんは中心に貼られた、左端に賞を取ったことを示す短冊がメダルみたいについた日部の絵を見ているのだと思った、それはおそらく正しかった。 

「あのさ」

「ん?」

「日部のこと、まだ好きなの?」

 おれは小さな声で聞いてみた。雨の音が窓を叩きつけ、クラスメイトはクラスの後ろと前の方で集まって騒いでいる。

 おれの弱い声は安堂さんにだけ届いて、「っえ?」と、彼女は顔を曇らせた。

「日部くん、何か言ってた?」

 日部に迷惑がられているんじゃないか、と彼女は気にしていた。

 おれは首を振った。

「ううん。…嫌な気分になるかもしれないけど、おれ、図書室で告白してたの見てたんだ」

 嫌な顔をされるかな、と思ったが「知ってる」と言い、くすりと笑われた。

 丸い頬がほのかに揺れて、子鹿みたいな安堂さんは可愛らしいのに、強いと思う。

 告白していた日も今日みたいに雨が降っていた。

 キャーキャーと騒ぐ女子たちより、じっと隠れて見つめるおれより、暗い図書室の静かな空間で間違えないように一言一言を慎重に紡ぐ2人は、おれたちより何段階も大人に見えた。

 おれだけは日部が、おれの手を離れて遠くに行くんじゃないかと不安になった。

「うん、まだ好き」

 日部が彼女を振ってくれて、あの場で一番ほっとしたのはおれだ。

「どこが好きなの?かっこいいからかな」

 彼女は日部のどこを好きになって、今も好きで居続けてるんだろうと、おれは知りたくなった。日部の言う好きと、彼女の言う好きは同じなんだろうか。

 好きってなんなんだろう。

 父さんは母さんを好きだと言ったのに離婚した。

 日部の母さんと父さんもいつのまにか離婚した。

 好きだから結婚をするはずなのに、突然嫌いになるんだろうか。好きは永遠じゃないのか、その好きが最初から本当じゃなかったら、俺たちは何のために生まれてきたのか。

 安堂さんは一度横目で日部のいる前の集まりを見て、視線を緩く床に向けた。

「中学に入ってから、日部くん、暗くなったでしょ?」

「……うん」

 彼女の答えはそれなりに、衝撃だった。日部の仮面から漏れた繊細な変化に気づいてる人がおれ以外にいたのだ。

「でも、そう見せないように、明るく振る舞うでしょ、誰にも不快にさせないように、優しく接してくれるでしょ?」

「うん」

 おれはうなづく。

「すごいなぁって思って」

 安堂さんは感心したように音の高い息をついて、また後ろを見上げた。

「いいよね?好きでいるのに、資格なんかいらないよね?」

「…そうだね」

 おれも緩慢な動作で後ろを向く。教室の後ろに貼られている日部の絵を見る、母親と、子供が向かい合って手を繋いでいる絵が飾られている。

(そんな理由でいいのか)

 技術的なうまさではなく、線はごちゃごちゃしててデッサンもおかしいのに、色がふんだんに惜しげもなく使われていて、感情がこもっていると思う絵だった。

 そういう絵は見ていて心の何かを満たす。賞に選ばれたのも、おれにはすぐに納得できた。

 子供の口はにっこりと笑っているが、母親の口は描かれていない。

 目が黒い点で、黒子のようにちょんと描いてあるだけだ。

 おれは、日部と日部の母親が手を繋いでいるところなんて見たことがない。

 父親がなぜいないとか疑問だったが、これを描いた時にはもう、離婚していたからということだろう。日部はあの家で、ヒステリックな母親と二人きりで過ごしていたのだ。

(…日部は覚悟してる、自分の罪を)

 もし日部がおかしくなった結果として、あんなことをしたのなら、おれはここまで苦しくはならなかっただろうか。

 家に死体があるなんて、絶対にバレるんだ、バレないことはあり得ない。

 デートの日、日部はそれを隠したいと言った。解体して、運んで、埋めて隠す。

 合理的だとは全く思えない。

 トイレの中、あの血の量なら、どんなに頑張っても血液反応が現れるだろう。

 日部は頭はいい方だ。

 あんなに勉強をさせられていたから、基本的におれより成績はいいし、ものを知っていて馬鹿ではない。死体を隠す犯罪とオムレットを隠すイタズラは、社会の目に同等には扱われないことを知っているはずだ。

 腕に痛みが走る。

 腕に組んでいた手を広げると、爪の間に赤色が付着している。

 爪で、肌を傷つけてしまっていたらしい。

「河野!」

 思考を切り裂くようなつんざく声。

 教室中の視線がドアに向く。

 ドアを開けた入り口に立つ、中山くんの横には種田先生が居た。

 窓に雨が降りつけている。

「河野、こっちにきなさい」






「聞いてるのか?!」

 ビリビリと体を揺さぶるような怒号が職員室に響く。

 どん!と机を鳴らすその拳。

 俺は相槌を打つこともめんどくさくなって、コクンと無感情にうなづく。

 職員室の先生たちが、助ける気もないのに俺を見ている、その視線が張り付いたように煩わしくて、この場に対する全てに、嫌悪感が増していく。

「いいか、俺は、お前が授業中居眠りをしたこと、それだけを怒ってるんじゃない!お前の態度が、姿勢が問題だと言ってるんだ!」

 どんどんと続けて机を鳴らし、不機嫌を隠そうともしない目が俺を睨む。

 先生の頭のつむじが広がっている、でこに光るテカリ、父さんと似ていると思って、気持ち悪くなる。

 引き攣った怒った顔がまともに見れないのは、叱責が恐ろしいからじゃない。

 醜さに耐えられないからだ。

「…ごめんなさい」

 見せかけの謝罪を聞いて反省をしているのだと思ってるのだとしたら、バカみたいだ。

 種田先生に怒られて思ったことは、こんなものを日常的に浴びていれば、変になるということだった。

 これで普通の注意だというんだから、プリントが昨日バレてもおんなじだったんじゃないか。

 俺の罪と、この叱責は釣り合っているのか。

 なぜ自分が、こんなに怒られなければいけないのか。

 俺が寝たのは俺の不注意だけど、俺の置かれている状況を、目の前の大人は何も知らないのに、分かろうともせずに、どういうつもりで叱ってるんだろうか。

「日部も日部だ、あいつも無断欠席をして、お前らはつるんでるから、そういう悪影響を与え合うんだ!社会に出たらなぁお前たちみたいな甘い連中は生きていけない、これからそんな姿勢でいると苦労するからおれは言ってやってるんだ!」

「日部は、関係ないじゃないですか」

 口に出すと、俺の言葉は先生に油を注いだ。

「なんだその態度は!」

 一際、ドン、と机を叩く音が響き渡る。壊れるんじゃないかという音が鳴るのに、机は健気に耐えて、俺と一緒に種田先生の激昂を受け止めている。

 職員室の先生は誰も助ける気がないのに、目線だけは送ってくる。

 怒鳴り声を浴びながら、頭の片隅で、日部のことを思った。

 心臓の手術が成功して、小学校に入って3年くらいにはいまの日部になっていたと思う。

 笑顔を振りまいて、辛いことに蓋をして、思っていることを全然言わなくなって、俺の前でも、何を考えているかよくわからない、ただ明るいやつになった。

 日部の母親の教育は手術が終わった段階で、本格的に日部を縛った。

 テストのノルマを課し、塾の成績を監視し、おれたちは日部の母さんが許してくれる日にしか遊べなくなった。日部は笑顔の仮面を被ることで、我慢漬けの生活を誤魔化してやってきていたのだと思う。

 決定的なことがあった。

 中学受験に、日部は失敗したのだ。

 他人と距離をとっていても人好きのする完璧な笑顔の裏で、漏れ出た日部の何かを堪えているような表情に気づいた俺は日部にどうしたのかと聞いた。

 結果発表の日、不合格だと知った母親にリビングで包丁を向けられた、と日部は答えた。

 『体も弱くて、頭も悪い、あんたは私がこんなに育てても全然報いてくれない、そんなに私が嫌いなの、嫌いだから嫌がらせがしたいんでしょう、こんなに頑張って育てたのに、なんであんたは出来損ないなの』

 最低なことを日部に言い散らし、包丁を突きつけ生きていることを否定した。

 それから日部は時折、その告白をした時と同じ濁った目を見せるんだ。

 だから、俺は日部が殺したと思った。

 復讐したんだと思った。

 でもたとえ日部が殺したとしても、それは正当防衛なんじゃないのか?。

 そんなふうにしたのは誰なんだ。

 あんな母親、死んだからってどうだっていうんだ。

 手首が千切られたからって、どうだっていうんだ。

 日部だって、心を殺された。

 壊れた心のケアを誰もしなかった。

 

『河野、嫌かなと思って』

 

 俺は何も、しなかった。俺は俺が傷つかないことばかり考えて、人のことなんか、見ていなかった、嫌なことを忘れて、大事なことも忘れて、見ないようにして、逃げた。

 あの日オムレットを食べたのは俺も一緒だった。

 俺も同罪だったのに。

 あの日泣いていた日部を、俺は助けなかった。

 湧き出るような熱さが目を覆う、目の縁が歪んで、周囲の輪郭がぼやけていく。

 途端、先生は目に見えて動揺した。

 これは虚勢なのだ、自分の強さを取り戻すために、誰かに弱い自分を投影して打ちのめしている、他者への優位性を確保するための、反吐が出る心理。

 救いようがない馬鹿だと思った。

 一番最低なのは、助けを求めるように嗚咽を振りまく、俺自身だ。

「今後は気をつけろよ」

 締めような言葉で種田先生から解放され、職員室から出る。おぼつかない足取りで教室までの道のりを歩く。

 叱られている間に、学校は昼休みを迎えていたらしい。

 柱に飾ってある時計は、もう5時間目を終えたことを示してる。俺が種田先生に怒られていた時間は、30分以上だということだ。チャイムの音を認識できていなかった。耳の奥が、浴びせられた種田先生の大きな声によって痺れているのが分かる。

 5時間目を終えて15分休みに入っても、外で止まない雨のせいで、足止めを食ったように学内は静かだった。

「なんで泣いてるんだ?」

 シンとした空間に声が響く。

 廊下に日部が立っていた。

 何人かがポツポツとおれ達を横切るが、廊下の中心に立ちつくすおれ達を誰も気に止めない。

 駆け寄ってきた日部の手が、優しく頬を触ってきた、指がなぞるように涙をぬぐってくれる。

「…日部」

「種田先生に、何か言われたのか?なにがあった?」

 日部は眉を下げて心配そうな顔をしている。種田先生に呼ばれたのを見て、なかなか帰ってこない俺を心配してくれてここまで来てくれたんだろう。

 何も言わないおれの肩を触って、人のこない廊下の角に移動を促してくれる。

 こんなふうに、日部はいつも俺を守ってくれていたのだと思い知る。それはどんなに苦しかっただろう、自分をすりつぶして、人を思いやることがどれだけ。

「日部、おれは」

 発する声が、喉に張り付く。

 日部は俺の言葉を待って、顔を伺うようにのぞいている。

「おれは」

 日部が母親を殺してなかったとしても、日部は死体の手首を切った、その事実は変わらない。

 日部は罪を犯した。

 俺の知らないところで、遠くに行ってしまった。

「俺はお前に、捕まってほしくないよ」

 母さんが離婚をして出ていってから、父さんも信じられなくて、誰のことも、日部のことも、信じられなかった。

 母さんと別れた時、俺は自分の心に蓋をした。

 それが、今皺寄せがきてるんだ。

 こころの何かが決壊して、いま涙をながしてる。

「なんで、あんなことしたんだよ。そんなに、苦しかった?俺が、俺がもっと日部のこと考えてたら、あんなことしなかった?」

 日部の助けになれるとしたら、一番近くにいた俺だけだったのに。

「お前が苦しんでるのも、傷ついてるのも分かってたのに、おれは、なに、何もしなかった。俺は逃げて、ずっと逃げてたのに、お前は笑ってくれて、気遣って、くれて、おれはその優しさに、あ、甘えて」

 俺は日部のことを見ていなくて、日部の助けも聞こえないふりをした。

「それがどんな苦しみの上でできてるかなんて、考えもしなかった。ごめん、ごめん」

 ポタポタと、雫が床に落ちる音。

「捕まったら、どうしよう。まだ、子供なのに、なんで、なんで日部ばっかり」

 これが、前世の行いのせいだとか、日部のせいだとか言うような奴がいたら、そいつは何も考えていないクソ野郎だ。

 日部がこうなったのは、日部のせいなんかじゃなくて、前世なんて荒唐無稽な幻想でもない。

 この世界が残酷で、クソみたいな世界だからなんだ。

「どうしたらよかったんだよ」

 どれだけ問いかけても、神様は答えてくれない。

「河野、ごめん、俺が追い詰めたんだな」

「ちがう。おれが、おれがお前を」

 俺の頬に、日部の指が触れようとした。遠くで、日部を呼ぶ大きな声がして、その手が俺に触れることなく戻っていく。

 種田先生が職員室の入り口から日部を呼んでいる。

「大丈夫だよ」

 俺の顔を見て、安心するように笑いかけてくれる。

「俺は、河野が俺のこと、考えてくれるのが嬉しい」





 クラスに戻った俺を、中山くんが見た。

 目が合うと気まずそうに逸らされた。

 泣き腫らした顔がそんなに痛々しいのかと言い放ったら、どう言う反応をするだろうか。

「中山くん」

「…なに?」

「俺の目、泣いたってわかるかな」

 言わない方がよかっただろうか、メガネを持ちあげる姿にいつもの堂々とした佇まいは薄い。

「目、洗った方がいいよ」

「そうだね」

 なんの利益もないのに先生に告げ口をする彼も、理解はできない。

 好きだと言っていたのに離婚する父さんも、理解できない。

(みんながみんな、自分のことばっかりだ……、俺も)

 それでも、日部だけは違うと思えた。

「な、なんだよ」

 中山くんの方を見ると、彼はギョッとして目を逸らした。

 俺の腫れた目がそんなに痛々しいなら、堂々と見せてやろうと思ったし、俺より成績が良くて頭のいい彼なら、俺の知らないことを知ってるんじゃないかと思った。

「readyって、どんな意味があるのかな」

「…ready?準備とかの?」

「単語だけなんだけど」

 俺に気圧されるように、中山くんは詰まる。

「そう、だな。それだけの意味ってなると、拡大解釈になるかもしれないけど。準備はできている、とかじゃない?ゲームの戦闘開始画面とかでもready?って表示されるよな」

 腫れた目では教室に居づらかったので、学校をうろつくことにした。

 目を洗おうと思ったのもあるし、動いている方が考えやすい。

(日部が俺に、何かをしてほしいんだとしたら)

 日部の言葉を思い出す。

(考えてほしいんだ 自分の行動を)

 そのために、俺が見つけるように手首をトンネルの溝に落としたんだ。

 俺は考えることにした。

 日部のために。

 トイレの中の死体を思い出す。

 蛍光灯に照らされた女は、トイレに座って、膝にのしかかるようにうつ伏せになって、歪に盛り上がるように背骨が浮いている。

 長い黒髪が前に垂れて、床までついて、だらんと下に降ろされた腕の先に、切り取られたように手首から先がない。

 頭の中で、イメージが浮かんだ。

 犯人が、リビングで日部の母親と、日部が描いた絵のように、向かい合っている。

 犯人の顔は、どうしても日部の顔になってしまう。

 俺は続ける。

 日部が母親と争うのは、考えられるのは選択教科の件か、もしくはテストの結果についてだろうか。

 タイミング的にもそれが考えやすい。

 意見の食い違いを起こしたか、望み通りの結果でないことで母親はヒステリックを起こし、いつかのように包丁を取り出した。

 それに抵抗するため、日部は持っていたサバイバルナイフで母親を刺してしまい、母親がトイレに逃げ込み、息絶える。

 トイレの内側のドアノブにもついていた血、日部はドアノブを開けようとしたが、母親もドアノブを抑えていた。開けられなくて諦めた日部。最後の力を振り絞った母親は、ドアノブから手を離して、そのまま下に。

 何かがおかしい。

 この後に、手首を切る動作が入ることになる。

 でも俺はそれまでの流れに、強烈な違和感を感じている。

 それは日部がサバイバルナイフを持っていたことだろう。

 常に持っているというのは変だ。

 やっぱり、日部は母親を殺すためにナイフを持っていたのだろうか。テストの返却を思い詰めた日部が、計画的にーーー

 コンコン

 横でリズミカルに音がなって、そちらを向く。

「昨日はお水のやり方を教えてくれてありがとうございました」

 日高先生だ。

 保健室の窓を開け、無表情に見えなくもない表情が俺の顔を見て目を丸くした。

「大変だ。ちょっとこっちに、冷やしましょう」






 日高先生に言われるまま保健室に入ると、せっせと目を冷やす準備をしてくれた。昨日と同じベットに腰掛け、タオルを水につける後ろ姿を見る。

 さすが元医者だ。

 手際のいい作業を見ていると、俺の心も落ち着いてくる。

 蛇口を捻った音の後、水に濡れて冷えたタオルを持ち、目の上に置いてくれた。

 手で抑えると、ひんやりと目の奥まで澄み渡るようだった。

「雨、ひどいですね、傘は持ってきましたか?」

「…忘れました」

「保健室で傘も貸し出してますから、必要なら言ってください。帰りまでに止めばいいんですけどねぇ」

 泣いていた理由を聞かず、世間話をしてくれるのは先生の優しさなんだろう。

「種田先生って、なんであんなに怒るんですかね」

 先生は俺が泣いていていた理由に、なんとなく察しがついていたのか。落ち着いた口調で答えてくれた。

「気が弱いんですよ だから自分を大きく見せようとする」

「先生は、種田先生と仲良いんですか」

 種田先生の指の包帯。

 デートの日、俺と日部がB棟で種田先生に見つかりそうになったのは、B棟一階に保健室があるからだと、俺は考えていた。

「あまり接点はないです。手当てをしたくらいでしょうか」

 先生のスリッパの足音がする。

「種田さんの指が、もしかしたら奥さんからの暴力かもしれない。家庭で抱えてる鬱憤を学校で晴らしているとしたら、どう思いますか?」

「えっと、そうなんですか?」

「仮定の話です」

「…だとしても、どうでもいいですね」

 種田先生と日部とで、俺は違う感覚を持っている。

 どちらも加害者であるのに、なぜなのか、そんなことは、考えなくても分かりきってる。

 日部のことを、俺は好きだからだ。

「はい。相手が弱い人間だとしても、自分が傷つけられたなら無条件で許しちゃいけません。相手がどんなに弱くても、されたことに対してはきちんと相手を責めて、そして、可能なら許してあげればいい。何も感じないように心を麻痺させることは、自分を蔑ろにしていることと変わりませんから。それが、まっとうな大人になるコツですよ」

 ティファールの電源がつく音、合図のようにチャイムがなった。

「これ、1回目のチャイムなんですね、昨日知りました。カフェオレを飲む時間はなさそうですね」

 カチャカチャと、用意していたものを片づけているのだろうか。

 音を聞きながら、おれはつぶやいた。

「俺は大人が嫌いです」

 音が止んだ。

「子供は何も知らないから扱いやすいと考えて、子供を見下して、自分は大人だから正しいと思っているからです。そんなところが醜いと思うし、気持ち悪いって、軽蔑します」

 こころの膿を出すかのように吐き捨てる。

 俺は、大人である先生にあたっている。先生が大人というカテゴリに当てはまるというだけで八つ当たりをしている。スッキリするかと思ったが、ただ罪悪感が芽生えた。

「…そうですね」

 カチャ、という音の後に、足音がこちらに近づいてくる。

「真っ当な大人なんて、本当のところどこにもいないのかもしれない」

 そうポツリ、と近くなった声をこぼした。

「じつは俺は、病院から懲戒免職を食らったんです」

「え?」

「病院の情報を利用者に流した罪で」

 先生の声は、雨音にかき消されることなく耳に入ってきた。

 タオルを目から外す。

 日高先生が本気で言ってるかどうか、確認したかったからだ。

「ほんとですか?」

「俺に、偉そうなことを言う資格はありませんね」

 うなづいた先生はベットの横の椅子に座った。まるで懺悔をする教徒のように、両肘を膝に突き、手元を顎に当てている。

「俺の働いていた病院はわりと悪でして、これは学校側には伏せられてます。俺もバレたら再就職は難しいけど相手側もバレたくない事柄ですから」

「それは、なんでそんなことを」

 情報の流しと言われても、どういうものを指すのか想像できない。

 答えが返ってくるとも思えない不躾な質問をしたことに後悔したが、日高先生はほどなく薄い口を開いた。

「病院の関係者に、病院で生まれた子供の情報が横流しされていました。なぜそんなことをしているのかと疑問だったのですが、病院では、病院側が生まれた子供を、母親に死産をしたと嘘をついて私生児にしていた、という噂が流れていました。

 火のないところに煙は立たないといいますが、病院は、それに近いことを行っていたんです。調べた俺は、被害者のお子さん側の親にその情報を流しまして、病院側にバレて懲戒免職。僕が流した情報は病院の関係者のプライベートまで含まれていたので、秘密情報の漏洩だということになりました」

 言い終わると、先生は上体を起こして目を開けた。

 激しい雨音を背に、懺悔は終わった。

 俺は、先生がなぜ一生徒でしかない俺にそんなことを話してくれるのか、と疑問に思ったが、初めて対面で聞く大人の不祥事に胸が騒ぎ、また質問した。

「迷わなかったんですか?」

「優先順位の問題ですよ、仕事は確かに大切ですが、俺にとって何者にも変え難いものではないです」

「秘密ですよ?」と先生は言った。

 俺は、言えるわけない、と思い首を振る。

「言えませんよ、そんなの。俺が言っても信じてもらえないし」

「君は賢いですね、周りが俯瞰的に見えている」

「…そんなこと、初めて言われました」

「そうなんですか?自分では、自分のいいところは気付けないものですね」

 日高先生の言葉は抵抗なく俺の中に入ってくる。

「俺も、君みたいな時期がありました。信じてくれない大人に失望して、こんな大人にはなるかって思ってましたよ。今思えば、俺は大人に、1人の人間として扱ってほしかったんだと思います。今の俺が、その時の思い描いた大人になれているか分かりませんがね」

「…先生は、俺が見てきた中で一番まともです」

 思ったまま伝えると、先生は「よかった」と安心したように言った。

 俺は、なぜ日高先生が他の大人と違うのか分かった。

 この人は大人なのに、俺のことを対等に尊重しようとしてくれている。

「…」

 体の毒が抜ける感覚がする。

 俺の直面している事態の要素一つ一つが整理されて、自分にも取り扱えるものだと考えられるようになる。

「さ、そろそろ教室に戻ったほうがいいです」

 椅子から立ち上がった先生に促され、温くなったタオルを大きな手のひらに返した。

「さっきより腫れは引きましたね」

 顔を近づけ確認してくれる先生に「ありがとうございます」と目を見て言う。

「…先生」

「はい?」

「もし、死体があって、傷つけられていたら、犯人はどんな罪になるんですか?」

 俺の唐突な、変な質問に日高先生は眉を寄せたが、じっと黒い瞳を見つめると顎に手を当てて考えてくれた。

「死体損壊罪ですかね、たしか、3年以下の懲役じゃなかったでしょうか」

「…、死体損壊罪…」

 声に乗せると、ずいぶん冷たい、無機質な言葉だと感じる。

 コンコン、とノック音がして、先生は立ち上がってドアに向かっていく。

 開けられて聞こえてきた声が俺を呼んだ。

「…悪かった」

 中山くんだった。

 初めて見る弱々しい顔でドアの前に立っている。

 察したような先生に中に入るように促され、一歩一歩と向かってくるその足取りは、自信のなさに満ちていた。

「俺が、先生に言ったんだ」

 謝りに来てくれたことに驚いたが、返事をする。

「いいよ」

 俺の目の腫れは彼の密告の罪に、こんなに響いたのか。

 中山くんは、自分がしたことを初めて実感したのかもしれない。

 それまで見えなかったから、分からなかっただけなのかもしれない、と思えた。

「ピーナッツすきですか?」

 近づいてきた先生の手には、昨日と同じピーナッツがあった。

 俺にだけではなく、初めてきた人には配るようにしてるみたいた。

 案の定それは中山くんに即拒否されていた。教師からお菓子をもらうなんて真面目な彼にすればあり得ないだろう。

 先生は初対面なら知らなくても無理ないのかもしれないが、人にあげるのを見ていると教師としては不適切な行動な気がする。やめたほうがいいと言うべきだろうか。

 断られても大して落ち込むことなくポケットにしまって、苦笑いする俺に向き合った。

「そうだ、まだ名前を聞いてなかったですね」

 そういえば、まだ名前を教えていなかったことに気づく。

「河野です。河野圭」

「河野…?」

 先生は切長の目を見開いた。これでもかというほど開かれた目はすぐに下をむき、科学者のように口に手を当て、何かを考える仕草をしている。

「どうしたんですか?」

「いや、そんな偶然、いやでもこの辺りの」

 黒い瞳が俺を見た。

「どっちだ?」

 独り言のように呟かれた声に、かすかな不穏さを感じる。

「…あの」

 ぶぶぶ、と携帯のバイブが鳴った。

 根拠もなく、日部だと思った。何度も振動している、電話だ。

 俺は先生を見上げた。日高先生は、しまったという顔をした後、取り繕うように中山くんに何かを言い、入り口まで連れて行ってくれる。

 俺は元いた場所に戻ってカーテンに隠れた。

 中山くんが部屋を出る音を聞き、スマホをポケットから取り出す。表示されているのは日部の家の電話番号だ。

(なんで家の番号なんだ?)

 躊躇いなく通話ボタンを押し、画面に耳を押し当てる。

「日部?」

 応答はない。

「家にいるのか?」

 相手から何も聞こえてこない、問いかけは雲をつかむようにから回って、俺の声だけが虚しく響く。

 日部がどこかに行ってしまうのではないか、という漠然とした不安が身を包む。

「日部、返事しろ」

『もうそろそろ、見つかるだろうから』

 やっと聞こえた声は、覚悟を決めたかのように単調な声だった。

 その声に、俺は怯む、見つかるというのは母親の死体のことしかない、と冷静に考えて、恐る恐る確かめる。

「お父さんから、連絡が来たのか?」

『父さんは死んだよ』

 その言葉の衝撃は、横から頭を殴られたようだった。

『宮崎の海岸で見つかったって警察から学校に連絡が来たらしい。顔を確認してほしいから遺体を安置してる警察署に来てってことで、これから行かないといけない。種田先生には「家にいる母さんと一緒に行く」って言って、学校を出たんだ』

 頭を整理するのに必死だった。

 日部の父親が死んだ?

 種田先生に呼ばれたのはそのため?

 家の電話からかけてきたのは、宮崎に行く準備のために家に戻っているから?

「……おかしいだろ」

 一つ一つが何一つ理解できていないまま、口にした言葉が俺の本心だった。

「なんで父親が死ぬんだ。海岸?海に飛び降りたのか?」

『そうだろうな』

「…日部は知ってたんだ。父親が死んでること。だからそんなに冷静なんだ」

 脳で考えるよりも、口から出た言葉に俺は納得する。

 そうだ、日部はずっと、父親が死んでいることを知っていたのだ。

 俺が日部の立場であれば、母親があんな風に死んだら離婚していたとしても真っ先に父親に連絡するだろう。中学入学前に離婚したというが逆に言えばまだ2ヶ月とそこら、そこまで時間は経っていない。日部は父親とは仲が良かったと言っていた。連絡先を知らない理由も、しない理由もない。

 あるとすれば、電話をしても通じないと分かっていたから。

 知っていたのはいつからだ?

 中山くんとの会話が頭を掠める。

 ready

 ”準備ができている”

 あれは俺に見つけてもらうために日部が書いた文字だろう。聞いてはいなかったが、俺は断定的にそうだと思った。

 死体が警察に見つかるまで、なぜ待ってたのか。

 頭の中で、イメージが浮かんだ。

 父親が母親の腹を刺し、母親がトイレに逃げ込む。

 トイレの内側のドアノブにもついていた血、父親はドアノブを開けようとしたが、母親もドアノブを抑えていた。開けられなくて諦めた父親が外に出る。最後の力を振り絞った母親は、ドアノブから手を離して、そのまま下に。

 うつ伏せになった死体の、歪に浮き上がった背。

 そうだ。

 体が浮き上がっているのは、お腹に何かの支えがあるからだ。

 腹に、いまも刃物が刺さっている。

 日部のナイフじゃない。

「日部は犯人じゃない」

 俺の声が、鮮明な輝きを持って脳を揺さぶる。

『父さんから連絡を受けてたんだ、土曜日の夜にいまから飛び降りるって。だから知ってた』

「警察、」

 ぐるぐると高速で回転する脳みそ。

 日部が言っている言葉の需要度よりも、今は俺の思考の重要度の方が高い。

 父親が死体で見つかったということは、日部の家に警察が来る可能性が出てくる。遺体の引き取り手が子供でいいわけがない、母親の不在は不審に思われるはずだからだ。

 先生経由で伝えられた以上、種田先生も家に行くだろう。

 種田先生は日部の母親は生きていると思っている。日部は母親と行くと言って学校を出た。種田先生の性格上、母親の携帯と繋がらないのだから、どうなったのか家に確認しに行かないわけがない。

 警察か先生どちらが先だとしても、このまま見つかるとまずいことがある。

『河野、おれ』

「家で待ってろ!」

 何かを言いかけた電話を切って、保健室を出ると扉の前に先生が立っていた。前傾姿勢でぶつかりそうになり、寸前で立ち止まる。

 誰も来ないように見張ってくれていたのか。

 高い位置にある日高先生の顔が、膝を曲げて俺の顔の位置に合わせてくれる。

「河野くん、大丈夫ですか?中山くんは教室に行きましたけど、電話は終わりました?」

「日高先生」

「2回目のチャイムが鳴りましたから、もう授業が始まってるはずです、急がないと…」

 さっきの先生の言葉は引っかかっていたが、今は日部のことしか頭にない。

 日高先生の言うところの、優先順位の問題だ。

「先生、黙っててください。いや……俺はまた戻ってきますから、俺がクラスにいなくて誰かが聞きに来ても、しばらくここにいるって言ってくれませんか、お願いします!」

 俺の懇願に、先生は乏しい表情ながら困惑している。

「それは構いませんが…、河野くんはどこに行くんですか?」

「言えません。先生、俺は大人なんか怖くない、本当に怖いのは、俺が今掴めるものを、掴めないことです」

 正確に伝えられる文になりきらない言葉を聞き、先生は切れ長の目を横につ、と動かす。

「…待ってください」と言い、保健室の中に入っていった。

 ドア横に立てかけてあった黒い傘を持ち、俺に差し出した。

「雨が降ってますから」

 

 

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