3



 日部と知り合ったのは、ほんとうに小さい頃だ。

 だから、初めて会った時の日部を、おれはよく思い出せない。

 でも、最初の頃は覚えている。

 幼稚園の頃も明るかったが、たまに暗い表情を見せることがあった。心臓の手術前だったからかもしれない。海外の偉いお医者さんの所に行って手術する以前は、よく日部の家族と、おれたち家族の6人で、車で少し走った先の貯水湖に遊びに行った。

 海のないこの辺りにとって、貯水湖はちょっとしたキャンプ場のようになっていた。駐車場の横の森を切り開いた真ん中には広場があり、遊具が置かれたそこでよく日部と遊んだ。

 日部がおれを追いかけようとすると日部の母親がその場で叱るので、おれも怒られてるんじゃないかってくらいの怒りにハラハラして、貯水湖では極力遊具を使わずに、体を使わないような遊びをしていた。俺はその時絵をよく描いていたから、父親から買ってもらった絵の具の収容ボックスと、スケッチブックと、紙パレットを持って貯水湖の絵を描いていた。日部は何をするわけでもなく俺の横にいて、二人で話をして時間を過ごすのが多かった。

 日部には言ったことはないが、おれは日部の母親が昔から苦手だった、多分、父さんもそうだ。

 何度目かの遊びで母さんが作ってきた弁当を見た日部の母さんが『私なら子供に食べさせられないわ』と呟くのを聞いてしまった記憶があり、それから嫌なことを言う人だと嫌悪感があった。

 思えば、そんなことを言われても付き合っていた母さんはなにか弱みでも握られてたんじゃないかと思うが、母さんのほうが積極的に日部家を誘っていたので、子供から見ても奇妙な関係だった。母さんは綺麗な人だったが、容姿は人の自信にはあまり関係がないのか父さん以上に気が弱かったから、主従関係のようなものがあったのかもしれない。

 広場から離れた池にはドーム状の屋根がついた円形の休憩所があって、よく大人たちがいる場所だったが、バーベキューの準備で広場に行っている隙を見て、二人で座ったことがある。

 そこでドームに守られ、秘密を共有するように、日部はあることを話してくれた。

『母さんは普段厳しいけど、おれのこと、本当は大切に思ってくれてるんだ』

 そうだろうか、とおれは思った。

 彼女の日部を見る目は、子供ながらに恐ろしいと感じていた。

『おれの左手にほら、ほくろがあるだろ?』

『うん』

 日部は左手を見せてきた。甲にある生まれたてのように小さな黒い点を、小さな指が、大切そうになぞった。

『おれが手術が怖いって言ったら、手を握ってくれて、母さんが言うんだ、私とおんなじよって。母さんの手にも同じ場所に黒子があって。おれ、それが嬉しいんだ』

 そう言う日部のことを、子供ながらに健気だと思った。

『河野は、そう言うのある?』

『え、そうだなぁ…』

 日部は証のことを言っているんだろうと思った。おれにはあるのかと問いかけてるのだと考え、向こうの広場で準備をしてる大人たちを見た。

 父さんと母さん、離れた位置にいる二人の会話がよそよそしくなったのは、いつからだろうか。

『ないなあ』

 口に出したら、ポロポロって溢れるみたいに、ストッパーが無くなったみたいに、つい、言いたくなった。

『母さんと父さんは、離婚するかもしれないんだ』

 日部は驚いた顔をした。

 おれは後悔した、日部に言ったところで、どうにかなる問題でもないのに。

 日部はしばらく、どうしていいか分からないって顔をして、しばらく服を掴んでイジイジとしていた。その後、思いついたように横に置いていたおれの絵の具の収納ボックスから黒いペンを取り出した。

『なに?』

『おまじないだよ』

 そう言ってキャップを開け、マジックでおれの左手の甲に点を書いた。

 ニコニコと笑う日部は『これで大丈夫』と言ってくれた。

 その言葉に、冷たくなった心がふわりと軽くなる。

 何か大切なものを日部が分け与えてくれたと思えて、おれはそれが嬉しかった。

 向こうのほうで、準備が終わったのか母さんが手を振っているのが見えた。

 おれは立ち上がって手を振り返した。

『母さん!』

 ああ、これは夢だ。

 

 

 

 

「圭!」

 おれを呼ぶ声に、はっ、と、目が覚めた。

 見慣れた天井が頭上に広がっている。

 横を向くと父さんが心配そうな顔をして座っていた。自分がベットの上に寝ていると理解して、緩慢な動作で起き上がる。

 肌にベタつくシャツ、大量の汗をかいて寝ていたらしい。

 おれが何故部屋にいるのか一瞬考えて、ナイフを持った日部から逃げてきたことを思い出した。この汗は全力疾走をした汗だ。あんなにがむしゃらに走って、車に轢かれていないことが奇跡のように思える。

「圭、大丈夫か?うなされてたぞ」

「え、あ…」

 父さんの問いかけに、ボヤけていた頭を無理やり覚醒させる。俺は部屋を見回した。

 父さんが帰って来ているということは、19時はとっくに過ぎているだろうか。勉強机の上の目覚まし時計は針の面が見えない角度になっていたが、ベット横の薄いカーテンからは日の光を一切感じないためそれくらいだと予想できる。

 寝起きの頭を回転させて、父さんにまず「大丈夫」と返す。安心させたくて言った一言だったが、父さんは変わらず不安そうにおれを見ている。

「先生から話を聞いて驚いたよ、今日は休んでるって聞いたけど、なんで制服着てるんだ?電話をかけても出ないし、登校途中で具合悪くなったのか?」

「…ごめんなさい」

 父さんにかけ直そうと思って忘れていたのか。

 変に言い訳をして拗れるより、父さんの考えるように勘違いしてくれればいいと思い謝ると、八の字の眉はまた下がった。

「昨日だって制服着たまま料理しようとするし…、なにかあった?最近変だぞ?」

 ベットから起き上がって、ゆるやかに首を振る。

「何もないよ。父さん、ご飯はまだだよね?」

「ああ…、いいから、圭はとにかく着替えなさい、そのままじゃ嫌だろ」

「…うん」

 汗が滲みた服が、肌に張り付いて気持ち悪い。手短に服を脱いで部屋着に着替える、台所に行くと父さんが立っていて、昨日のカレーに火をかけていた。おれは冷蔵庫から麦茶を取り出して、食器を整える。

 1日寝かせたカレーはおいしいと、父さんが言っていたんだっけ、と、眠気から覚めた頭は、日常のことを考えられるようになった。

「種田先生から叱られたよ。子供の管理がなってないって」

 カレーを食べていると、父さんが肩をすくめてそう言った。

 話を聞くと、おれの学校への休み連絡の仕方が悪くて、父さんに矛先が向いてしまったようだった。

 父さんはおれが休んでいたことを知らなかったから、うまく答えられなくて「なってない」と怒られたらしい。種田先生は”おかしい”と思えば保護者にだって容赦はない。それが元で何度かクレームが来ているほどなのに、種田先生は頑固なのか、方針を変えようとはしてないみたいだ。

 父さんは見た目でわかるほど気が弱いから、先生の大声をきちんと受け止めたんだろうと想像できた。

「ごめん…」

「圭が無事ならそれでいいよ」

 父さんの声の後は、カチャカチャとスプーンが食器にあたる音しかしなくなった。

 父さんは無理には聞かないけど、その静かさが逆に居づらくなってくる。何かを話していたかった。そうしないと、さっきの記憶が、目を逸らすなと襲ってくるからだ。

 おれはスプーンを置いた。

「…考えたくないのに」」

 父さんがこちらを向いた。

「いろいろなことが頭を動かすんだ。だから、疲れちゃって」

 父さんに本音で話したのは、久しぶりな気がした。

 おれは疲れていた、帰ってきて部屋に直行して、制服を着替えるのも忘れて寝入ってしまうくらい、精神的に参ってる。

 今日のことだけじゃない。背負いきれない重荷を、無理やり背負わされているような不快感がずっとあった。

 おれは日部の家にあるものを忘れることはできていない、だって、あれは日部はすぐ近くにいて、脳が忘れようとしても日部が意識させてくる。

 母さんみたいに遠くに行って見えなくなることも、箱に隠して見えなくなることもない、だから、薄れることはない。

 おれの日部への疑いは日を増して深くなっている。

 日部は警察に通報してほしくないと言った、その真意が“捕まることを恐れてる”だけだったとしたら、おれが黙っていることは確実に正しいことじゃない。道徳的にも、社会的にも。それくらいの判断はおれにもつく。

 頭を押さえつけられるような感覚に、これ以上考えたくなくて前を向く。目があった父さんはなぜかにこりと微笑んだ。

 年のわりに無邪気な笑みだと思う顔のまま「父さんは圭の味方だよ」と言った。

「………」

 状況を知らない立場からの軽々しい言葉だと思ったが、おれが日部にしていることもそれくらいの覚悟だ。おれは片足を突っ込んだ状態なのに、どうすることもなく事態を放っている。

 麦茶を飲み、喉を潤した声が「そうだ」と明るく言う。

「明日、外に出かけようか」

「え」

 それは、天啓のような言葉だった。

「でも父さん、仕事が」

「いいんだよ、圭、行きたいところあるか?車出すから、大抵のところはいけるぞ?」

「……」

 頭に浮かぶのは、あの貯水湖だけだ。

「…貯水湖」と言うと、懐かしいものを思い出すような顔で頷いてくれた。

「圭はあそこが好きなんだな」

 俺は少し迷って、うん、と言った。嘘はついてないが、緊張している自覚があった。

 父さんに今まで言えてないことが沢山ある。

 蓋をしてきたことがたくさんあって、何から言えばいいのかわからない。

「制服は今日洗いなさい、明日の朝に乾いてなくても、休みなら大丈夫だ」

「…ありがとう」

 感謝の言葉を言ったのは、久しぶりな気がした。





 翌朝、9時に起きて、準備をした。絵の具の収容ボックスを持って、スケッチブックに描ける部分があるか、めくって確認する。それだけの準備だから時間はかからなかった。

 必要なものを両脇に持ち、玄関の前に止まった車に乗り込んだ。

 シルバーの中型車の助手席で振動に揺られる。

 正直、本当に行ってくれるとは思わなかった。

 よほど心配されてるってことだろうか、と思うと複雑だった。

 運転しながら、前日でも有給申請がすんなり通ったという父さんの横顔を見ると、ふと目があって、にこ、と微笑まれた。

「有給が溜まってるから使うように言われてたんだ」

「…そうなんだ」

 申し訳ない気持ちと、少しの嬉しさが胸から湧いた。

 父さんの会社の話はあまり聞いたことがないが、忙しいのだろうということは分かっていたので、ここ最近、遊びに連れて行ってほしいとせがむことはなかった。

 久しぶりの父さんの車は、昔と同じ、古びた線香みたいな匂いがする。

 流れゆく窓の外を眺めながら、父さんの作ってくれた朝ご飯のおにぎりを食べた。母さんの作ってくれてたおにぎりとは違う味がする。母さんはゆかりのふりかけをかけてくれたけど、父さんの握るおにぎりは塩味だ。

 目的地に向かうにつれ、外の景色に緑の田園が広がっていく。

 俺が住んでいるところも都会というわけではないが、ここらよりは都会だろうと思わせる田舎を走りながら、父さんの横顔はなんだか嬉しそうに見える。

 窓の外に視線を戻して、日の光の眩しさに目を細めた。腹も満たされた今なら熟睡できそうだと思った。昨日の夜はいろんなことを考えてしまって、結局まともに寝れたのは制服のまま寝てしまったあの時間くらいだ。

 しばらく揺られていると激しくうねった細道を進むようになり、振動が激しくて目を瞑っても眠れはしなかった。

 光を遮る木の影が多くなっていき、ほどなく車は停車した。

 車から降りて「空気が気持ちいいなー」と父さんが言うと、返事するみたいに遠くで鳥の鳴き声がした。

 平日の朝だ。二人以外の人がいない場所では、小さな音でもよく響く。

 周りには木々と水面が広がって、夢で見たとおりの貯水湖の風景だ。現実の貯水池が過去と全く変わっていないことに、世界でおれだけが変化したような不思議な感覚を覚える。

 駐車場を出て閑散とした木々の下の道を2人で歩いていると、携帯の音が空気に響き渡った。

「あ、すみません、ちょっと待ってください」

 小声で電話に出た父さんが、片手を上げて謝るジェスチャーをする。

「圭、父さんは車で話すから、遠くには行き過ぎないでくれよ」

「うん」

 頷くと、父さんは車の方に向かって行った。

 父さんは最近、帰ってきてから家で電話をとることが多かった、あの電話の先が誰なのか聞いたことはない。おれは父さんを置いて1人で歩くことにした。

 貯水湖の池の周りは、コンクリートで舗装された道沿いに腰ほどの柵がある。転落防止のための柵は小さい頃は高く思えたが、今ではひどく頼りなく映る。

 遠くに目をやると、向こうにドーム状の休憩スペースが見えた。

 その場所は、夢と同じようにそこにあった。


 



 チャポンと、水が跳ねる音がする。

 波打った水面に何重かに弧が描かれ、溶けるように消えていく。

 静かな場所だ。

 学校や家にいたら、鳥が木から飛び立った音や風に揺れる葉っぱの音は、生活音にかき消されて意識することはない。ここに来るまでに耳にした日常の騒音を一切感じさせないこの場所は、まるで世界からここだけ隔絶されているように錯覚させる。

 水面に映る自分の顔を見ながら、おれは日部の言葉を思い出していた。

 認識しなければ、自分の世界にある物が世界の全てだという考え。

 おれには頭のいい人が考えた小難しい量子力学なんてよく分からないが、日部の言うような感覚は、おれにもあった。

 自分の周りだけが世界の全てなのだという感覚。世界が自分を中心に回っていて、他の人がすることは全部、自分の考えた行動なのではないかという妄想。

 多分、誰でも通る道なんだと思う。

 俺はもうそんな傲慢な妄想は自身の身の程を知り砕かれてしまっているが、そう考えたいという気持ちはおれにも分かる。

 それは、そう考える方が楽に生きられるからだ。

 俺と同じように、認識を歪めれば思い通りにならない厄介な現実を薄められると気づいたのか。家の中に死体がある日部も、平気そうに見えるだけで、かなり追い詰められているんだろうか。

(…言い過ぎた、よな)

 何もなかったように静かな湖を見ていると、疲れて荒んでいた心が落ち着いてくる。

 自身の行動を思い返す。冴えた頭で過去の記憶を、浮かび上がるようにゆったりと思い出すことができる。

 母さんは、おれの座るちょうどこのあたりに座っていた。

 向こう側にいたおれと日部に母さんらしく控えめに手を振って、そばに駆け寄ると鼻腔をくすぐるいい匂いがした。顔はよく思い出せないのに匂いを覚えているのは不思議な話だ。

 風に吹かれると消えてしまいそうな香り。

 あの香りは、いまなら石鹸だと分かる。

「けーい!」

 父さんの声が聞こえてきて、おれは体を離した。

 ずっと体を縁にひっつけて水面を見ていたから、腕には線の跡ができてしまっている。つい集中していたらしい。振り向くと、父さんが小走りで駆け寄って来ているのが見えた。

 そんなに急がなくてもいいのに。

 おれは、さっと横に置いていた絵の具の収納ボックスを閉じた。スケッチブックと纏めて抱え、こちらからも走った。

「1人で待たせてごめんな、ああー、あの場所懐かしいな、よく座ってたよなぁ」

「うん」

「どうだ?いい絵は描けそうか?」

 父さんは休憩所をみて懐かしそうに声を上げた、おれは軽いスケッチブックを持った方の手で、逆の方向を指差して言った。

「気分乗らなくてさ、ちょっと、周りをまわろうよ」

 父さんはおれの手に触れて、さり気なく収容ボックスを持ってくれた。2人で池の周りを回りながら、たわいもない会話をした。

 貯水湖には思い出が多い。

 日部と遊んだ記憶が自然と蘇ってきて、1度話すと呼応するように、色々と話が思いついて出て来た。

 涼しい貯水湖の風景は、穏やかな父さんによく似合うと思う。

 言わないといけないことが沢山ある気がした。

「父さん、俺のこと気にせずに、好きな人ができたら結婚してね」と、もし俺がこの場で言ったら、父さんはどんな反応をするんだろう。

「なんで離婚したの?」

 おれの言葉は、横を歩く父さんからしたら唐突な発言だったと思う。

 おれはこれを言うのに、どのくらい時が立ってしまったんだんだろうと考えていた。

 母さんと会わなくなって、もう6年は経つんだろうか。

 夢の中の母さんのぼやけた顔。もう、はっきりと顔を思い出せなくなってしまって久しい。

 母さんは写真に撮られるのを嫌ったから写真を残していないし、遠くに引っ越してしまってから、連絡も取れない。父さんにせがめば繋いでくれたんだろうが、おれから、声が聞きたいとごねることもなかった。

 おれは、母さんがしたことに父さんが怒っているんだろうってことを、なんとなく分かっていた。実際に何かを見たわけじゃなく、直感だ。直接聞いたことはない。

 2人がよそよそしくなり始めて、母さんは申し訳なさそうな顔をして逃げるように父さんを避けていたから。母さんが悪いのだと言うことを、なんとなく理解していて、それを、考えたくなかった。

「本当に好きだったよ」

 行き道を塞ぐように前に回り込んだ父さんが、おれの肩に手を置く。必然的に、おれも止まる。

 前にある父さんの顔はいつもの情けない顔と違って、しっかりと見つめる目だ。

「でも、人にはそれぞれ許せないことってあるんだ。それが、母さんと俺で違ったんだな」

「…うん」

 具体的ではないけど、誠実さを感じる言葉達。

 父さんのこういうところが、おれは好きだけど、苦手だった。

「バンドじゃないけどさ、やっぱり価値観って大事だからさ」

 おどけて言う父さんに、おれは義務的に笑った。

「圭も、そういう相手を見つけるんだぞ」

「うん」

「ごめんな」と、こぼすように父さんは言った。

「圭はしっかりしてるから、勝手に大丈夫だと思ってた。父さんが圭のことを、考えきれていなかったな」

 父さんからの評価と日部からの評価は違う。おれは父さんと話す時は意識的に言葉を発していたから、父さんはおれをしっかりしてる、と思ってるらしかった。

 おれが、母さんのいない家は広いと思ってることも、母さんのご飯が食べたいと思ってることも、きっと父さんは知らない。

「ううん、おれも聞かなかったから。あの頃はまだ小さかったし」

「そうだな。…昔はあのあたりに、日部くんと一緒によくいたよね」

「うん」

 父さんが見やる先に、先ほどまでいた駐車場の近く、森の木をそこだけ開けたような広場ある。ドーム状の休憩室からそこまでは、直線で50メートルは離れているだろう。

 そこから、おれは休憩所にいる母さんたちを描いていたのだ。

 絵を描くとき、大体日部も横にいた。

 あの頃の日部は、何をするにもおれについて回っていた。黙々と筆を走らせるおれの横に座って、何も楽しいことはなかったと思うが、絵の具の収容ボックスから絵の具を取り出して虹色に並べたり、必要な色を言えば揃えてくれたりした。

 日部はおれとばかりつるんでいたから、日部と関わりを持ちたい周りの子達は時におれを羨ましがった。おれも言って仕舞えば、自分から周りに距離を取っている綺麗な存在が隣にいることに貴重な宝石を独占しているような優越感があった。

 おれは勝手に、日部のことを全部分かっていたつもりだった。少なくとも、クラスメイトの誰よりも、日部の母親よりも知っているつもりだった。

 でも、それは揺らいできている。

(日部はおれに、どうしてほしいんだろう)

 日部の手の中で、ギラリと光ったナイフ。

 同じ形状のものを貯水湖の広場でキャンプをした際に見たことがあった。

 父親に買ってもらったと嬉々として見せられ、大人に隠れて試しに焼肉用の肉を切っていた。果物ナイフに似た刃渡りの折りたたみナイフは、切れ味の鋭さは間違いない。

 あのトンネルに手首が置かれてたことを知ってるってことは、あそこに置いたのは日部で確定してしまう。

(…わからない)

 一周したところで、父さんは背伸びをした。

 デスクワークで疲れた体が伸ばされて、パキパキと音を立てるのが少し怖い。新鮮な空気を体に入れ替えるように、大きく息を吐いて振り返った。

「昼はどうしようか。ゆっくり絵も描きたいだろうし、買ってこようか?」

「いや、学校行くよ」

「え、いまから?」

 父さんは目を丸くした。さすがに申し訳なくなったが、おれは父さんと話しながら、ずっと日部のことを考えていた。

「うん、昨日もいかなかったし。昨日、本当はズル休みなんだ。なんか、罪悪感で絵に集中できそうになくて…」

 おれは頭を下げた。

「ごめんなさい」

 顔を上げると、ぽかんとしていた顔は、あっはっはと笑顔で崩された、父さんにしては大きい声が響き渡る。

「いいよ、それぐらい元気な方が安心だ」と言い、スマホを取り出して親指で操作する。スマホを耳につけて、おれの頭を大きな手がぽんと撫でた。

「俺が学校に電話するよ。圭、次からは休む時はまず俺に言うんだよ。もう先生から怒られたくないからな」

 父さんは優しい。

 

 



 コンビニで買った昼ご飯を車中で済ませてから、家で制服に着替えた。時計は12時30分。洗濯してハンガーにかけていた制服は少し湿っているくらいにまで乾いていた。

 送ってくれると言う父さんに甘えて、学校まで一緒に行った。父さんと校門を通過して「種田先生に謝りに行くよ」と言った後ろ姿を見送る。

 教室に入ると、何人かの生徒が話しかけて来た。

 彼らの話から、日部も今日休んでいることを伝えられた。おれの心配というよりも、日部について何か知らないか、と言うことらしい。大半は女子からだった。正直にいまの日部の現状を言うわけにはいかないから、全てに「よく知らない」と返答した。

「そっか、風邪とかかなぁ」と1人の女子が言った。安堂さんだ。パチリとしたまつ毛の長い目、サラサラの肩までの黒髪が日本人形を思わせる。

 おれがなにも知らないと分かり、安堂さんたちは席に戻っていった。

 登校して早々疲れてしまった。

 遅れて、おれの方に向かってくる生徒が一人いた、中村くんだ。

 いつものようにメガネをくい、とあげる。

「昨日も休みだったけど、体調悪いのか?」

 プリントについて聞かれるのかと思ったが、そんなことはなかった。

「大丈夫だよ、ちょっとね」

 軽いものだと言外に伝えると、中山くんは不服そうな顔をした。

 一度38度の熱で学校に登校したことがある伝説を持つ彼にとっては、俺の出席態度は気に障っただろうか。

 おれは気を紛らわせるように、カバンを机の横のフックにかける。ちょうど給食時間のクラス内は机を班ごとに6つづつにまとまって、俺の席も律儀に並べられていた。

「まあ、プリントは提出してたみたいだし、特に言うことはないけど」

 昨日プリントを強引にでも提出してよかったと思った。

 中村くんはメガネの奥で日部の机を見ている。

「日部は休むの2日目だな、内申点気にしてたのに」

「……」

 内申点を気にする必要は、もうなくなったから大丈夫だろう。

 中山くんはじゃあ、と言って自分の席に戻って行った。

 彼の堅実な委員長振りには敬服する。このクラスは種田先生だけでも息苦しいのに、中村くんは競い合ってるのかと思うほど立派に学級委員をしていると思う。

 時計を確認すると、まだ昼休み終了まで30分ほど時間がある。

 教室には、ちらほらとご飯を食べおわっている人はいるが、ほとんど食べ途中で、机に給食を置いたまま雑談タイムになっている。おれの机には当たり前に給食はない。黒板前の台には、まだ余ったご飯が残ってるかもしれないけど。

「河野くんも、ご飯つごうか?」

「いや、お腹空いてないから大丈夫」

「そう?」

 同じ班の子が声をかけてくれたが断った。昼ごはんはもう食べてしまったので、どうしよう、と考える。

(日部がいないなら、そのまま帰って日部ん家に行ったほうがよかったかな)

 昨日は俺とデートをしたいと言って、今日は学校に行かずに家にいる。日部の行動はよくわからない。

 連絡を取ればわかったことなのに、貯水湖から学校まで何もせずにただ車に揺られて来て、おれは日部がいなくてホッとしてるんじゃないか。

 …会ったところで、何を話すかなんて考えてなかった。 

 日部には、あの家にはいてほしくない、それは本心だ。あんなところにいて死臭を嗅ぎ続けていたら、もっとおかしくなってしまうんじゃないかと、想像する頭は止まらない。

「…」

 おれは席を立った。

 ご飯も食べないのに班で机を囲んでいてもしょうがない。種田先生のところに謝りに行ったという父さんが、どうなったのか気にはなっていた。

 一階の階段から二階に登り、A棟とB棟を繋ぐ廊下を渡ろうと角を曲がると衝撃がした。

 顔面に広がる痛み、誰かとぶつかってしまったのだ。

 相手は俺より背の高い大きな人物のようで、おれの方が後ろに弾き飛ばされてしまう。

「っあ、ごめんなさい!」

 転びはしなかったが、鼻を強打してしまって、手で抑える。

「ぅあ」

 大丈夫ですか、と言おうとして、うまく喋れなかった。

「うわっ鼻血!」と大人びた低い声。

 制服に垂れないように鼻を抑えるおれの手に、目の前のスーツを着た男性がティッシュを重ねた手で抑えてくれる。慌てて自分の手を引っ込めてティッシュを掴み、上からまた抑えた。

 離れた男性の指には、少量の血がついてしまっている。

 謝ろうと顔を上げると、知った顔だった。

「あれ」

 彼もおれを、知った顔だと認識したらしい。

「デートはどうでした?」

 昨日、トイレの場所を聞いて来た人だ。

 

 

 

 

 

 B棟一階の保健室に入ったのは初めてだった。

 テキパキと指示され、ティッシュで鼻を押さえたままベットに腰掛ける。用意してくれたティッシュでできた鼻栓を詰めて、言われるままに寝転がった。寝た状態で、頭を足より高くするように言われ、その通りにしている。

 間抜けな格好になっていると思う。

 保健室に誰もいなくてよかった。

 つん、と鼻奥に抜ける血の味が気持ち悪い。

「最近の中学生はませてますね、一年生で、もうデートするものなんですか」

 蛇口の捻る音の後に、水が流れる音がする。

 よく見えないが、視界の端に映る後ろ姿の先生が、血で汚れた手を洗っているのだろう。

 名前を知らないと顔に出ていたのか、産休に入った保健室の先生の代わりに、昨日から臨時で入った職員だと自己紹介してくれた。今はお試し期間みたいなもので、正式な配属はまだだから、知らなくても当たり前だとフォローされた。

 名前は日高先生というらしい。

 おれは産休に入ったことすら知らなかったんだが、前の先生とは廊下ですれ違ったことがあった。白い保健室は、この学校の先生にしてはまだ若かった可愛らしい感じの前任の先生の影響を強く受け、観葉植物や小物で彩られている。それらを目で追っていると、蛇口を閉める音がした。

「ぶつかってしまったことについては、すみません。まさか人が来ると思わなくて注意していませんでした。もしかして、職員室に用事でもありましたか?」

 そう言って、日高先生は横に歩いていく。ちょうどおれの位置からは、ベットの横のカーテンが邪魔をして姿が見えなくなる。

 鼻の付け根を摘んだ。

 ドクドクと、指先から感じる血、よく鼻血を出すことはあったけど、これは割と軽い方だろう、と感じる。

「俺の父親が、職員室行ってて」

「ああ、あの人かな。職員室に1人だけ見覚えのない方がいました、種田先生と話してた人でしょう」

 おれは、しまった、と思った。

「君は種田先生のクラスの生徒さんですか。もう帰ったと思いますよ。携帯に連絡来てないですか?」

「えっ、と…」

 そう言われても、先生の前でスマホを出すわけにはいかない。

 一応俺たちの学校はスマホを持ち込み禁止ということになっている。とはいえ部活で夜遅い生徒は親も心配なので、この持ち込み禁止というルールはハリボテで、ほとんどの生徒は持ち込んでいる、暗黙の了解だ。

 先生の前でさえ使わなければ、先生も咎めないようになってるが、ルール上、使っているところを発見されれば問題になる。

 先生がカーテンから顔を出した。

 おれの顔を見て、ああ、と納得したような反応をする。

「出してはいけないんですかね、すみません、まだ分かっていないことが多くて。この保健室も、任されたのはいいんですが観葉植物との付き合いがよくわからないんですよ」

 日高先生はベット横の窓に顔を向けた。窓から差し込む光に照らされてキラキラと光る観葉植物達、胡蝶蘭に、シュモクタケに、サボテンまでずらりと整列している。

「特別な液体とか必要なんですかね」と、ぶつぶつと言いながら、またカーテンに隠れた。

 おれはベットのシーツを手でいじりながら、考えていた。

 日部とのデートの日、日高先生にバレたあの時、問題ないと思ったのはこの人がおれを知らない新人教師だと思ったからだ。おれが種田先生の生徒だと知った今、あの日のことを種田先生に教えてしまう可能性がでてきてしまった。

「あの…」

 声をかけると、カーテン越しに影が返事をする。

「はい?」

「昨日、俺と会ったこと、種田先生に言わないでもらっても、いいですか?」

「秘密ですか?いいですよ」

 すんなりした返事が返ってきた。

「種田先生は怖そうですからね、気持ちはわかります。俺も怒られないように気をつけないと」

 冗談めかして、ほとんど無表情で二つコップを持ってまた現れ、一つ、ベットの横の机に置いた。開いた手でポケットに手を入れ、取り出したピーナッツが入った袋も、コップの横に添えられる。

「鼻血が止まったらいただいてください」

「…いいんですか?」

「はい、先生には内緒ですよ」

 日高先生は窓際の机の椅子に座って、コーヒーをのんだ。

 保健室の先生なのに白衣を着てなくて、スーツ姿はピシッとしてる、言動の節々のゆるさが顔の冷たさと、アンバランスな印象を受ける。

(なんか、誤解を受けやすそうな人だな)

 いまいち感情が読めなくて冷たい印象を受けていたが、話してみると気さくで、イメージは変わる。

「でも、バレたら怒られるってことですか…」と、指を口元に当て考える姿は探偵みたいだ。

 スラリとしている背格好もあって、様になっている。

 おれの周りでのイケメンといったら日部くらいだが、日部ほどの華やかさはないが、鋭い切長の目は迫力があってカッコいいと思う。

「そうか、学校の外に出て制服デートってとこなんですかね」

 日高先生は表情の乏しい顔で、人差し指を上に上げた。

 種田先生に言わないでくれるならいいと思ったが、日高先生の口ぶりはおれのデートに興味がありそうで、それもまたおれにとっては不都合な気がした。

 デートの内容についてまで聞かれそうだ、男同士のデートをなんと説明するか考えるのは面倒だったので、話を逸らすことにした。

「あー、あの、…先生は、ここにくる前はどこで働いてたんですか?」

 話の流れをぶった斬る内容だったが、新任の先生に向けるなら無難と思われる質問を投げかけてみた。

「大学病院です、助手をしていました」

 それは意外な返答だった、てっきり、どこどこの中学にいましたとか、地域的な話に広がると思っていたからだ。

 大学病院の助手とは、どう言う仕事をするのか知らないが、頭がいいのではないだろうか、と平凡な脳みそが考える。

 それが学校の臨時保険医に転職なんて、おれにはもったいないと思えてしまう。

 広げて、会話を逸らすにはちょうどいい話題でもあった。

「え、なんでやめちゃったんですか?」 

「長く働いたんですが、元々向いてなかったんだと思います」

 淡々と説明する口調は、たしかに、診察をする時の病院の先生の落ち着きに似てる気がする。

「俺の働いてたところは、いじめ、パワハラの温床で、離職率高かったですし、患者の個人情報を私的利用したり、大学病院内の派閥争いに巻き込まれたり」

 テレビドラマじゃあるまいし、現実でそんなことが起きているのかと、うわ、と気分が下がる話だった。

「え、…病院って、やっぱり大変なんですね」

「俺は全然ダメダメでしたよ。怒られてばかりでした」

 明け透けな人だ、初対面でここまで自分を飾らない人もめづらしいんじゃないか。

「もったいない…」

 こぼれ出た言葉に、切長の目が、意識しないとわからないくらいに微笑んだ。

「俺は最後まで下っぱでしたけど、上にいく人は判断力がありましたね。判断の連続ですから、それは医者にとって必要な素質だと思います」

「日高先生も、そう言うのできそうですけど」

「いやいや。おれは向いてません」

 謙遜するが、日高先生の見た目は冷静沈着に見える。

 おれがいまいち納得できていないことに目高先生は気づいたのか「そうですね、たとえば」と言葉を発した。

「命の優先順位の概念が、医療現場では見られることがあります 臓器移植が必要な人は日本にたくさんいるんですが、その人たち全員に移植できるほどこの国にはドナーはいない。

 だから移植をするために、移植を待つ人たちには優先順位がつけられるんです。その優先をどういう風に決めるのかって、年齢や、ステージによるんですが、極端な話を言うと、同じ発病レベルの患者だと、おじいちゃんと子供なら、子供の順番が先になります。実際はもっと複雑で細かな判断基準があって、プログラムに則って、移植する患者の順番がきまっていくんですね。

 その順番によっては、間に合わなくて助からなかった命は出てきてしまう」

 スラスラ、語る口調は迷いやつまずきはなく、やっぱり、医者に向いているんじゃないかと、素人のおれからすれば思ってしまう。

「えっと、なんとなく分かります」

 誰かが助かるために、他の誰かは助からない。

 一時期流行ったトロッコ問題のような話だろうか。

 5人を見殺しにするか、1人を殺すかというトロッコ問題は、分岐路を動かして一人を殺す選択をする人の方が圧倒的に多いらしい。

 おれは目の前に分岐路があって、助けられるような状況になったとしても分岐路を動かさないだろうと言う自信があった、だって、命の選択を自分がするなんて怖すぎないか?

 おれが判断に迷っている間に、トロッコは人を殺してしまうだろう。

「不完全な社会で生きる以上、全員を救うことは難しいですが、それが最良だと分かっていても判断が本当に正しいのか、俺は疑ってしまう性分でして。

 自分には、あのまま続けてても上にはいけなかったと思います。トリアージなんかは本当に苦手でした」

 先生はコーヒーを一飲みして、目をこちらに向けたあと、頭を軽く下げた。

「すみません、つまらない話をしてしまいましたね」

「あ、いえ、すみません、おれの思考が追いついてなくて」

 返事が遅かったことで、勘違いをさせてしまったらしい。

 決して退屈だったわけではない。

 すぐに返せなかったのは、日高先生の落ち着いている様子が気になったからだ。

 おれが接したことのある大人は親か先生達くらいしかいないが、その中でも日高先生の考えや雰囲気が、成熟している。アンバランスだとは思っていたが、見た目の年齢の若々しさに合わないような気がしたのだ。

 女の人相手なら失礼だろうけど、男性だからいいだろうか。

「あの、日高先生って何歳なんですか」

「38です」

 あっけらかんとした告白だった。

「…」

 俺は驚いた。その衝撃は、ヘタをするとトンネルで手首を見たとき以上かもしれない。

(いや、流石にそれはないんだけど)

 失礼ながら、まじまじと見てしまう。

 針艶のある健康的な肌に、整えられた白毛ひとつない黒艶の髪、切長の目の、目尻に少し皺があるが、老けているとは思わないほどのものだ。

「ええ?見えないです」

 二十代、いや、二十代後半には見えるが三十代後半には見えない。

 38って、もうすぐ40ということだ。

 種田先生がたしか35、どう見てもあの種田先生より年上に見えない、風格が弱いとか言う話ではなく、日高先生の見た目が若すぎる。

「そりゃあ、化粧水とか使ってますから」

 それだけでそこまで若さをキープできるなんて、それは本当にただの化粧品か?不老のエキスとかではないだろうか。

「はぁ、日高先生が38なら、俺の父親は60に見えてしまいます」

 衝撃に当てられて、呆けたような声が出てしまう。

「はは」と先生は笑い、切長の目が細められた。

 先生は席を立って、ベットのそばに歩いてきた。近くで見ても、やっぱり若々しいと思う。

「治ってきましたか?」

「…たぶん」

 鼻の付け根を触り、血が流れる感覚がないことを確認する。

 鼻栓を外してみても血は垂れなかった。

 ティッシュを捨てようとあたりを見ると、先生が机の下にあったゴミ箱をこちらに持ってきてくれたので、それに捨てる。

「ありがとうございます」

「いいえ」

 表情の乏しさと見た目のクールさから、すん、とした印象を受ける日高先生だけど、話した感じは気の利いた、優しい人だ。

 おれは横の机に置かれた、先生が入れてくれたコーヒーを見る。

「あの、いただいていいですか?」

「どうぞ」

 何か飲みたいと思っていたのだ、喉奥に張り付くような血の味をコーヒーで誤魔化す。

 寝ていた状態の角度じゃ見えなかったが、コーヒーにはミルクとシロップが入れてあって、程よく甘かった。

 鼻血を出しただけなのに、見合わないほど良くしてもらっていると思う。

 昨日赴任したばかりなので、生徒とコミュニケーションを取ろうという気概がそうさせているのか分からないが、おれは恩に報いければと言う気持ちになってきた。

 先生との会話のおかげで、少しの間だけど日部を意識の外に追いやれた、現実逃避じゃないやり方で、気が紛れて落ち着けた恩だ。

 窓の方、自然光に照らされた観葉植物を指差す。

「その胡蝶蘭」

「はい?」

「あまり水をあげすぎると枯れてしまうので、一週間に一回、コップ一杯分くらいの水でいいみたいです。本当は、水拭きみたいなもので根元に吹きかけるのがいいらしいんですけど、なかったらどっちでも多分大丈夫です」

 最後に知らんけど、とつけたくなったが、おれは言い切った。知識は間違っていないと思うが、あまり自信はない。

 先生はへえ、と息を吐いた。

「詳しいんですね」

「前に育てたことがあったので」

「へえ、胡蝶蘭を?花が好きなんですか?」

「いや、そう言うわけじゃ 絵を描いてて、そのモチーフに」

 おれが好きだったわけじゃない。

「へえ、それなら、美術部なんですか?」

「いや、…その、もう描くのはやめたんです」

「あ、そうなんですか、なぜやめたんですか?」

 俺が先生のやめた理由を聞いたように、先生もその理由を聞いてきた。

 胡蝶蘭と、俺の描いていた絵、付随して出てくる思い出に、足を取られたように答えにつまる。

「意味がないからです」

 忘れていたのに、嫌なことを思い出してしまった。

 おれの返答に、日高先生は椅子に座って少し黙った。

「まだコーヒーを飲み終わるまで時間がありますね」

 優しい声で先生はそう言った。

「おれは大学でカウンセリングの資格も取ってますから、少しは話し相手になれると思いますよ。なにかあるのでしたら」

 いい先生だと思う、新任で、いままで病院で働いてたということだけど、こんな調子ならすぐに生徒の人気を集めるだろう。

 でも、先生にそう言われても、どうしようかと思った。

 俺が今、直面してる重大な事態というのは、他にある。

 日部と、日部の母さんの死体のことだ。

 元医者に匿名で聞くことができるなら、聞きたいことはあった。

 死体が死後どのくらいで腐るのか。

 密室に死体を隠した場合、死臭はどのくらい匂うのか。

 未成年者の殺人は、どのくらいの罪になるのか。

 人を殺して、死体の手首を切る人間の心理状態は、どのようになっているのか。

 でもこんなこと、誰であっても聞けるわけがない。

 おれと、その事件の関係性を探られたくはないし、日部との約束がある。

「あの」

 おれは、心の片隅にあるものを引っ張り出した。

 貯水湖と、胡蝶蘭で引き摺り出されたおれの過去、それについては、切り出していいという気持ちになっていた。

「普通、離婚したら親権ってどっちがもつんですかね」

 おれの質問は、先生は予想外だっただろうが、冷静に答えてくれる。

「専門外ですのでよくは分かりませんが、母親が多いんじゃないしょうか」

「そうですよね」

 チャイムが鳴ったのは、おれの言葉とほぼ同時だった。

 休み明けのチャイムは、終了時になるチャイムと違って、終了の5分前に一度、終了に一度と、2度なるようになっている。

 校庭で遊んでいる人たちが授業に遅れてくることが多かったための措置らしいが、昼休みの終了時間と、チャイムが2度なる仕組みを目高先生はきちんと把握できていなかったようだった。

「授業に遅れてしまいます」と慌てた先生に背中を押され、すぐに送り出された。

 残ったコーヒーが勿体ないと思ったが、おれは保健室を出ることにした。

 

 

 

 

 教室に行く前、トイレでスマホを確認すると、父親から連絡がきていた。

 ラインで「もう帰るね」とだけ送られてきている。

 他の通知も確認したが、日部からの連絡はなかった。

 チャイムギリギリに教室に戻る。

 五限目の古典が終わり、六限目の英語と、退屈な授業が続く。

 英語の教科書をパラパラとめくる、先生の流暢な英語が、おれの耳を素通りしていく。

 疲れた頭が休息を求めている。

 微睡に支配される脳、抗わずに、重力に従って、おれの意識は溶けていく。

 

 

 

 

 母さんがおれを褒める。

 おれは嬉しくなる。

 母さんが好きな花、胡蝶蘭に囲まれて、家の中で微笑む母さんはすごく綺麗だ。

 おれは父さん似だけど、母さんの綺麗な顔に似て生まれてきたらどうだっただろう、と何度も考えたことがある。

 コンクールにおれの描いた絵が入選すると、母さんは嬉しそうに褒めてくれた。「圭は天才ね、こんなに綺麗に描けてすごいわ」母さんの声は優しくて、柔らかくて、温かい体温の手のひらに、頭を撫でられるのが好きだった。

「なんで捨てちゃうの?」

 箪笥の横に、積み上げられた絵。

 それを捨てるというと、日部は悲しそうな顔をした。

「離婚するから」

 そう言うと、日部は驚いた。

 おれは一番上に重ねられたスケッチをとって裏返した。

 胡蝶蘭の絵ばかりの中で、貯水湖で描いたその絵は、休憩所で並ぶ父さんと母さんが描かれてる。

 描いたその日には透き通って見えたブルーも、時間が経つと色褪せて見える。

「もう必要ないし」

「だめだよ」

 強い声がした。

 日部はおれの手を掴んで、その絵を見る。小さな体のどこにこんな力が隠れていたのかと思うほど、腕を掴む力は強かった。

「これは、ダメだよ捨てたら。大切なつながりなのに」

 純粋な目だった。

「どんなに酷いことがあっても、つながりがあれば大丈夫だよ」

 日部の純粋な瞳に、おれは怒鳴りつけたくなった。

「だから、もういいんだよ」

 お腹から、叫び出したくなるような渦が湧き上がってくる。

 日部の純粋な瞳は、おれを見透かしているようだった。

 おれは絵が好きだから絵を描いてたんじゃない。

 おれが絵を描くと、母さんが喜ぶから絵を描いていたんだ。

 おれを見て欲しかったから、おれを認めて欲しかったから。

 そんな動機を、不純だと咎められているような気がした。

 手を掴む日部の手には、黒い黒子があった。

 おれにはもう、繋がりなんてないのに。

「日部は幼稚だ、手のほくろなんて、それがなんだって言うんだよ!」

 おれは何も知らなかった。

 家で日部がどんな扱いを受けているのか、どんな傷を負っているのか、想像ができていなかった。

 おれの言葉に、日部は傷ついているように見えた。

「なんで」

 日部の言葉なのか、おれの言葉なのか。

 ポタポタと流れる涙が、どちらのものなのか。

 目を上げると、そこはトンネルだった。

 おれはいつものようにキョロキョロと、辺りを見る。

 まるで自分自身の、自分の周りのことを見たくないとばかりのこの癖は、右側の壁に文字を見つけた。

「ready」

 急速に浮上する意識。

 がく!と体が浮く感覚がして、驚いて目を開ける。

 英語の先生の声が、教壇からクラスに向けて響いている。

 1人の声以外響かないクラス。近くの生徒だけが、チラチラとこちらを見ている。急に起き上がったから、変に思っているのだろう。

 おれは手で口元を拭って、寝ていたのだと自覚する。

 先生がチョークで書いている黒板の文字に、readyを含んだ長文が書かれていた。それで、あのトンネルの文字が夢に出てきたのだろう。

 おれは息をついた、心臓がまだ高鳴っている。

(また昔の夢だ)

 心の奥の、小さなおれが問いかけてくる。

『なんで、俺を捨てたの?』

 小さな悲痛な声に、おれは今まで、気づかないふりをしていた。

(…考えたくない)

 母さんと父さんが離婚したのは、おれが小学校に入る前だ。

 母さんと父さんは、親権で争っていない。離婚調停裁判というものをしていない。これは、その時にはすでに成人していた従兄弟に話を聞いたので、間違ってはいないだろう。

 両親は調停をするまでもなく、話し合いで解決をしたということになる。

 一度スマホで調べたことがあるが、離婚後には、8割、母親が親権をもらうらしい。

 母さんは、なぜ争わなかったのか。

「…」

 自分は捨てられたんじゃないかって、考えつきたくなかったから、思考に蓋をした。

 おれが日部に、現実逃避だと言うと、日部は怒った。

 おれには言われたくなかったのだろう。

 おれはずっと逃げている。

 あんなに走らなくたって、日部は走ることができないのに。

 今も、日部から逃げている。

 

 

 

 

 チャイムが鳴った。

 教師が去り、クラスが喧騒に包まれていく。

 六限の終わり、これであとは掃除をして、ホームルームを受けてから帰るだけだ。

 何も書かれていないノートと教科書を片付けていると、「河野」と呼ばれた。

 声のした方向を見ると、中山くんが近づいてきていた。

「どうしたの?」

 机の前にきた中山くんは、いつもより険しい顔をしているように見える。神経質な手振りで、メガネを指で調節する。

「さっき、寝てたろ」

「…うん」

 不機嫌さが身を纏っている中村くんはおれに対して怒っているようだった。昼から登校してきたのに午後の授業を寝るなんて、と、彼の許容を超えてしまったのだろうか。

「ごめん、疲れてて」

 謝ると、中山くんははあ、と露骨に溜め息をついた。批判が続くかと身構えたが、そうではなかった。

「日部が学校に来ない理由、河野が知ってるかと思って聞きにきたんだ。2人って幼馴染だよな?」

 中山くんは居眠りの注意ではなく、委員長の役割として日部のことを聞きに来たみたいだ。

 給食の時にも答えたが、十分に問いただせてないと考えたのかもしれない。

 中村くんと話していると、監視されているような気分になるのはおれだけだろうか。

 一体どこからモチベーションが湧くのか不思議なほどの真面目さに内心うんざりしつつも、突き放しても不自然だと思い平静に言葉を返す。

「ああ、ごめん、分からないんだよ」

「ラインとかもしてないのか?」

「うん、日部が昨日休んでたってのもさっき知ったから」

「そうか…」

 委員長は腕を組んで、考えこんでいる。中学生らしくない仕草だ。彼は大人びていると言うよりも、そうあろうと背伸びしているように見える。

 時間が経てば大人になるのだからゆっくり構えていればいいのに、と考えるおれの気持ちを中山くんは理解できるだろうか。多分、言ったところで軽蔑を含んだ嫌な顔をされるだけだろう。

 中山くんの前では努力しないことと怠惰はイコールなんじゃないかと思う、これは勝手なイメージだけど、おれは彼のそういうところが苦手だ。

 中山くんが帰ることもなくしかめ面で黙るので「どうしたんだろうね、風邪でも引いたのかな」と白々しく言ってみる。

 何も知らない体で会話を続けるのは悪い気もしたが、これ以上話すこともない。会話が終わればいいと適当に吐いた言葉に、中山くんは神妙にうなづいた。

「先生が親とも連絡つかないって、直接自宅に行くとか言ってたけど、何してんだろうな、親も」

「え」

 おれは、思わず身を乗り出してしまった。

 はずみで動いた椅子の音に中山くんがこちらを見て、怪訝そうな顔をされる。

「何か知ってるのか?」

「あ、いや」

 体を元に戻して、背を椅子につける。誤魔化すように机に転がるシャーペンを持ち、コツコツと机に打った。

「ほんとに知らないよ。ちょっとびっくりして、先生、日部ん家に行くって?」

「そう言ってたぞ。いつかは知らないけど、近々行くんじゃないか?」

「2日休んだだけで」

「親と連絡つかないのが問題なんだろ?」

 中山くんの言うことは、ごもっともだと思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る