(5)


 ほんの一瞬。

 いや、「一瞬」と言うには長いが、僅かな時間で、しかも扉一枚隔てた場所だ。

「アオイ! ――アオイ!?」

 隣室や手洗い場、浴室に行った可能性がある内は、アレクサンダーもそう声を上げて歩き回ったが、アオイの気配すら感じられないとなると、廊下にいる使用人の元まで速足で歩み寄り、告げた。

「イーヴォを呼んでくれ! 緊急事態だと!!」

「は、はい……」

「それに、アオイを知っている者全員で、このホテル内を見回ってくれ!! このフロアは俺が探すから、他の階を頼む!!」

 アレクサンダーの剣幕に怯えを見せるものの、使用人は頷いて走り去る。それを見送る時間も惜しく、アレクサンダーは廊下に出てアオイの部屋へと駆け込んだ。

 いるとは思えなかったが室内を全て見回り、次にアオイの荷物を探る。アレクサンダーの渡したブレスレットとソーサル・セプターがないのを確認すると、アオイの部屋を出て他の部屋を見て回った。

 期待していなくとも、希望を持つかどうかは別だ。アレクサンダーは僅かな希望に縋ってフロア中を見て回ったが、アオイの姿はなく、異変の痕跡すらなかった。

 それからアレクサンダーは自室に戻り、ソファに座ってじっと待った。


 一時間は経っただろうか、扉がノックされたので短い返答をすると、イーヴォが入って来る。扉を閉めてアレクサンダーの傍に歩み寄り、強張った表情で問うて来た。

「……アオイ様は」

「連れ去られた。恐らくはヨーナスに」

 アレクサンダーが唾棄するように言い捨てると、イーヴォは眩暈がしたのか指先で眉間を揉む。その様を横目にアレクサンダーは立ち上がり、手を伸ばしてイーヴォの襟首を掴んだ。

「ア――」

 名を呼びかけるイーヴォに構わず、彼を人形のように振り回して目の前のテーブルに叩き付けると、剣を抜いて切っ先を彼の顎に突き付けた。

「ヨーナスはどこだ!! 答えろ!!」

「それは……」

 イーヴォが逡巡を見せたので、アレクサンダーは更に低い声を出す。

「警告したはずだ! 政治は俺の仕事ではないと!! ヨーナスの居所を知らなくとも、心当たりくらいはあるだろう!? それとも――」

 そこで一旦言葉を切ると、アレクサンダーの髪色が赤に変わり、イーヴォの背中が着いているテーブルの天板に、赤い魔法陣が現れる。

「尋問を受けて言わざるを得なかった、という名分が欲しいか!?」

「ま、待って下さい……!」

 褐色の肌に玉のような汗を浮かべ、瞳には恐怖を浮かべているイーヴォだが、アレクサンダーは沈黙と視線を返す。その様子にイーヴォがごくりと唾を飲み、それから言って来る。

「ここでヨーナスが居そうな場所を言ったとしても、アレクサンダー様はそれがどこなのかすら、分からないのではありませんか?」

「………………」

 アレクサンダーが剣先をイーヴォの肌に僅かに埋めると、裂けた皮膚から一筋の血が流れる。イーヴォが一瞬だけ両目を閉じてから、再度アレクサンダーを見据えて言って来た。

「私が言いたいのは……アレクサンダー様が捜索をしたとしても、地の利はヨーナスにあるのですから、アオイ様を連れて逃げられる可能性が高いということです」

「つまり?」

 促すと、イーヴォはまたごくんと喉を動かし、続ける。

「アレクサンダー様は、ただでさえこの国では目立ちます。アレクサンダー様の動きは、ヨーナスに筒抜けと考えられた方が良いでしょう。私の方が、上手く立ち回れます」

「俺に動くなと……アオイを探すなと言いたいのか」

 確認するように問うと、イーヴォは数秒だけ瞑目した。首肯の代わりだろう。

「ずっととは言いません。せめて三日……いえ二日だけでも、私に預けて頂けませんか? ルデノーデリア王国に、この件を連絡をするのまでは止めませんから」

「………………」

 脅しはしたが、アレクサンダー一人が暴れまわってもどうしようもないこともある。それくらいは分かっているつもりだ。イーヴォの指摘は的確であり、反論の余地がなかった。心情的には、イーヴォの首を撥ねてやりたかったが。

 アレクサンダーは剣を引き、ゆっくりとイーヴォから離れた。そしてソファに腰を降ろすと、イーヴォも身を起こして乱れた衣服を正してから、アレクサンダーの正面の席に座った。

 アレクサンダーの出した魔法陣が消え、髪の色も戻ると、それを待っていたかのようにイーヴォが口火を切る。

「アレクサンダー様、どのような状況からアオイ様は攫われたのですか?」

「一分にも満たない時間、目を離した隙に。悲鳴すら聞こえなかった」

 他にもアオイとアレクサンダーが居た位置などを伝えると、イーヴォは思案する様子を見せる。

「ヨーナスは転移術も使えます。アオイ様が一人になった隙を狙ってヨーナスが現れたか、アオイ様をヨーナスの元へ引き寄せる術を使ったか……」

「『術を禁じる術』は、かけられていないのか?」

 犯罪がしたい放題ではないか、とアレクサンダーがやや呆れて問うと、イーヴォは眦を下げた。

「そういった措置はあるにはありましたが……魔術を使用しないと決まり、全ての魔術士が召喚獣との契約を解除させられた際に、全て消されました」

 イーヴォはそう言うが、不自然だとしか思えない。

 セパが鎖国同然で、他国の人間を一切受け入れない、もしくは一時的にでも入国させないようにしているのなら、分かる。だが観光客まで出入り出来る状態で、防犯に必要な術までを消し去るだろうか?

 と、そこで思い至る。

 そういったデメリットを許容するしかない、もしくはしても良いと思えるだけの益がある――ということか。

 ともあれ、アオイの捜索が止められている間に、イーヴォが言う通りザカリエルへ連絡をしておくべきだろう。それもなるべく早く。


 何かわかればすぐに連絡をする、という約束をして、イーヴォが退室する。アレクサンダーにまで何かあれば、本気で戦争が始まりかねないと思ったのか、警備の増強まで決めて行った。

 アレクサンダーは備え付けのデスクに向かって、ザカリエルへの手紙を時間をかけて書き、しかし使用人には任せずに、自ら郵便局へと足を運んで速達で送る手配をした。

 イーヴォには悪いが、この国の人間を信用するべきではない。この国において味方はいないと考えるべきだ。出来る限り他者の手を介さずに物事を進め、アレクサンダーの眼で確認をしておかなくては、何が命取りになるか分からない。

 薄暗くなるまで街をぶらつき、観光をしている体で歩き回ると、頭の中の地図に書き留める。イーヴォに言われたことは、確かにアレクサンダーの弱点だった。

 ホテルに戻ると食事をし、使用人に勧められるまま入浴もして寝間着に着替える。アオイがどういう扱いをされているのかも分からない今、自分だけ身を清めて食事をする気にもなれなかったが、イーヴォの提案を受け入れて、『大人しく』している姿を見せる必要がある。

 早々にベッドに入ると、アレクサンダーは目を閉じた。


 二時間ほど経っただろうか。アレクサンダーは目を覚まし、ゆっくりと身を起こした。

 夜中に動くつもりだったので一応は予定通りの起床だったのだが、アレクサンダーはシーツの中に潜ませていた剣を手に取った。

 アオイの部屋から、物音が聞こえたような気がする。微かな音で、気配までは感じ取れない。だが、アレクサンダーが目を覚ましたのはその小さな音の所為だ。

 剣帯を腰につけて剣を下げ、廊下に出る扉に向かう。しかし、ドアノブに触れかけてから取って返し、逆に部屋の奥の窓際に歩み寄った。

 硝子戸を開けて顔を出し、警備がいないことを確認すると、窓枠に足をかけて身を乗り出し、まずは庇に手をかける。腕力だけでそこに登ると、更に上の屋上へと上がった。これくらいならば魔法を使うまでもない。

 静かに移動してアオイの部屋の真上へと行くと、出て来たルートを遡るようにしてアオイの部屋へと入る。

 灯りは点いていなかったが、窓から差し込む月光のおかげで、室内ははっきりと見える。床に散っている朱も。

「……アオイ?」

 違って欲しい、という願望を込めつつ、剣を抜く。

 床を汚す血を見ると、隣室の小部屋へと続いていた。扉が細く開いている。

 そっと歩き、何が起きても対処出来るように息を顰めて進み、手を伸ばして扉を押す。

 中に魔術士がいる。

 気配で感じ、しかしアレクサンダーのこめかみに汗が浮いた。

「……アレク……様……」

 相手もアレクサンダーの気配を感じ取っていたのだろう、そんなか細い声が聞こえたので、アレクサンダーは気配を消すのを止めて、即座に小部屋に飛び込んだ。

 窓のないその部屋の灯りを点け、目を瞠る。壁際に座り込んでいる血塗れの男が、誰であるかが分かったからだ。

「申し訳……ありません……アオイを……奪われ、ました……」

 腹部の裂傷と、口元から血を流している男が、そんな台詞を吐く。

 金の髪に暗い灰色の瞳。

 アオイから聞いていた特徴そのままの男だが、謝罪の言葉を言い終えると同時に、男の色彩が変わった。金糸が輝く緋色に変わり、瞳も翠色へと変化する。

「アオイは……太陽神ケツァルコアトルの……」

 セオドア=ヴァレリア・コンスタンティンが、最後まで言えずに意識を失い、上半身を床に落とした。



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