(10)
湯船から上がったばかりだというのに、寒気が走った。
ごくん、と息を飲むと葵の喉が動き、そこに汗が伝い落ちる。葵がゆっくりと後退するのを、ヨーナス・アコンニエミと名乗った男はじっと眺めていた。無表情で、金色の瞳で。
背中が冷たい壁に着くと、葵は出来るだけ顔を動かさずに周囲を見る。
身を隠せる場所はない。武器になる物もない。脱衣籠はヨーナスの方が近い。魔石の嵌ったブレスレットは脱衣籠の中。服も、眼鏡すらない。葵は文字通り、身一つで侵入者と相対している。
無意識下で葵の腕が動き、漠然と胸元と股間を隠した。既に見られているのだが、追加で見せたくもない。
ここで叫べば、警備兵や使用人はすぐに来るだろうか? もしくはアレクサンダーか。頭の中で時間を計算しようとしたが、出来なかった。
叫んでアレクサンダーが来るのならば、それで良い。だが、アレクサンダー以外の誰かが来れば、その人物に葵の裸を見られてしまう。そう考えただけで舌が強張った。
ヨーナスが一歩前に進み、葵との距離を詰めた。
「来るな」
それだけをようやく言って、覚悟を決める。
脅しで終わらなくとも、それでいい。声に出さずに
ヨーナスがこれ以上動けば魔法を使おうと考えながら彼を睨むと、ヨーナスは微笑んだ。
「クレメント」
そう呟くと、白い魔法陣を描く。それを目にした瞬間、葵の心臓が跳ねる感覚がした。
「!?」
反射的に魔法陣を描こうとしたが、上手くいかない。召喚獣との意思疎通が困難だ。
「ヘルミルダ……ヘルミルダ!?」
焦る声を上げる葵に、ヨーナスがまた一歩近付いた。先刻彼が出した魔法陣は、既に消されている。
「無駄だ。お前の召喚獣は、俺の
「……!」
その言葉で理解した。先刻から葵に起きている寒気、それに震え。覚えがある。
ザカリエルの召喚獣『
魔法は使えないとなると、葵自身が何とかするしかない。だが、考えれば考える程、葵に出来ることは『ない』と痛感するばかりだ。
「アオイ。恐れることは無い」
ヨーナスがまた一歩、葵に近付いた。
恐れて当然の登場の仕方をしておいて、と葵が胸中で駑馬しつつ歯軋りをしたところで、硝子のない窓から突風が吹き込んだ。
「……!?」
ヨーナスが足を止め、更には一歩後退する。先まで見せていた余裕が消え失せた、ヨーナスの表情を見て取ってから、葵は己の前に蹲っている布の塊を見つめる。
それは人間で、高所のはずの窓から飛び込んで来たらしい。マントで身を覆ったその人物は、ゆっくりと立ち上がると、一瞬だけ葵を見た。暗い灰色の瞳が葵を捉え、そしてぎょっと目を瞠る。
彼は慌ててマントを脱ぐと、顔を背けながらも葵に押し付けるように渡して来た。着ろと言う意味だろう。
「あ……ありがとうございます」
船上でも助けてくれた彼だ、と察していたので、誰何よりも礼が漏れる。
葵がマントを肩にかけて前を閉じると、やはり首から上の部分を布で覆った男が、腰に差していた短刀を左手で抜いた。
そして剣先を向けながら、ヨーナスに言う。
「アコンニエミ……アオイの身に触れれば最後、貴様の穢れた指先が永久に失われることになるぞ」
「クレメント」
脅しへの返答は、白い魔法陣だ。
「アオイ、そこを動くな」
男は囁くような声でそれだけを言って、床を蹴る。ヨーナスに向かって駆けながらも、空の右手に数本のナイフを手品のように取り出し、内一本をヨーナスの魔法陣に投げる。
物理攻撃で魔法陣が壊せるはずがない。葵すらそう思ったというのに、ナイフの先端が魔法陣に接触した瞬間、魔法陣が砕け散る。
「何!?」
ヨーナスでさえ驚き、しかし即座に彼は次の魔法陣を描いた。自身と男の間に張り巡らせるように、小さなものを複数。
――が。
「しゃらくせぇ!」
男がどこか聞き覚えのある声を発し、今度は残りのナイフをまとめて投擲した。それらは寸分違わず、先と同じように魔法陣を次々と砕き、更にはヨーナスがまた動く前に、短刀を彼目掛けて振りかぶる。
そもそも男は命を獲るつもりはなかったのかもしれないが、白刃はヨーナスが咄嗟に避けただけで頬を軽く裂くに留まり、しかし微量の鮮血が舞う。
体勢を崩したヨーナスに追撃をしようと、男が更に一歩踏み出したところで、ヨーナスが一瞬葵を見た。
次の瞬間、葵の足元に白く光る魔法陣が現れる。
「えっ!?」
「――アオイ!」
男が顔色を変えて身を翻し、葵の足元に短刀を投擲した。その切っ先が魔法陣に触れると同時、男が人差し指と中指を揃えて短刀に向けながら、叫ぶ。
「アモス!!」
間近だったからだろう、葵の目には短刀の刃に小さな魔石が嵌っているのが見えた。男が叫んだ途端、魔石が輝くのも。
そして葵の足元にあった魔法陣も、涼やかな音と共に砕ける。が、葵は男に叫んでいた。
「後ろ!」
「!」
葵の短い警告でも、察したらしい。先刻の魔法陣は葵を攻撃すると見せかけた、囮だということも。
ヨーナスが隠していたらしいナイフを構え、男の首筋を薙ごうとしたところで、廊下に続く扉が、浴場側に弾け飛んだ。
「!?」
ヨーナスが手を止めて男から距離を取り、ナイフを構える。扉の残骸と共に飛び込んで来たのはアレクサンダーで、備え付けの浴室で入浴していたらしく、下はズボンを履いているが上半身は裸で、長い髪は湿り気を帯びている。
アレクサンダーは身を起こすと長剣を構え、状況把握の為に浴場内を一瞬だけ見渡した。そして、目を細めて男を見た。
それで察した。葵はマントで裸を隠している。その足元には短刀が突き刺さり、葵に一番近い場所に居るのは、窓から飛び込んで来た男だ。ヨーナスは葵から尤も離れた位置におり、ナイフを構えているがイーヴォと同じ顔。
これらを見て、アレクサンダーがどう思うか。
「貴様、アオイに何を――!!」
予想通り、アレクサンダーは男に向かって怒鳴り、同時に彼の髪が緋色に染まる。その色と同じ魔法陣がアレクサンダーの前に現れたので、葵は叫んだ。
「アレックス、違う!」
「えっ?」
冷静さを失っていたようだが、我を忘れるまでではなかったらしい。虚を突かれたアレクサンダーに隙が出来たところで、男が窓に駆け寄ったかと思うと、虚空に身を躍らせた。
「あ――」
呼び止める暇もない。何で逃げるんだと思ったが、それよりも。
「アレックス、その人――」
ヨーナスが敵だと言おうとしたが、顔を向けた先には既にヨーナスはおらず、しかし遁走はしないまま、壁際に移動している。
様子がおかしいと気付いたアレクサンダーが、油断なくヨーナスを見ると。
「また会おう、『魔導士』アレクサンダー」
ヨーナスが歪んだ笑みを残したかと思うと、彼の足元に魔法陣が現れて、光を放つとヨーナスの姿を掻き消す。
「……召喚術? 転移?」
「……そのようだ」
葵の呟きにアレクサンダーが息を吐き、葵に歩み寄る。既に彼の髪は、漆黒に戻っていた。
「何があった?」
「僕にも……何が何だか」
大きな息を吐き、何とか苦い笑みを浮かべてアレクサンダーを見る。アレクサンダーも軽く笑い、そして、目を伏せる。
「……『魔導士』とは、どういう意味だ?」
そんな呟きが、彼の唇から洩れた。
第二章:呼声(終)
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