(9)


 セパという国は、白かった。

 暑い国だとは聞いていたが葵が生まれ育った日本と比べて湿気がなく、だから気温はそれなりに高いのだろうがまとわりつく様な不快感がない。

 葵もアレクサンダーもセパに降り立った時は長袖を着ていたのだが、春から夏にかけて着るものを選んだからか、案内人に先導されつつ歩き始めても、快適に動くことが出来た。

 ルデノーデリア王国は煉瓦造りの建物が目についたものだが、セパは石造りで色がない。その代わりのように、道行く人々は色とりどりの柄物の長衣を身に着け、裾を靡かせて歩いている。笠を被る人もちらほらと見受けられ、それと併せて衣類の形式が何かに似ていると思ったが、元の世界でも見ることがあった『アオザイ』という民族衣装だ。

 一方セパの国の人間はほとんどが黒髪に褐色の肌を有しており、これもルデノーデリア王国とは対照的だ。

 案内人のイーヴォ・アコンニエミという男も例外ではなく、ふとヴィルヘルミナを思い出した。セパに来る前に彼女を紹介されたのは、偶然だろうか――と考えたところで、アレクサンダーの台詞を思い出した。

 全てを語らず考えさせ、警戒させる。

 思わず苦笑してしまい、それを目にしたアレクサンダーが小首を傾げたが、そこは笑って誤魔化した。


 名は知られているが『執行人』という立場自体が微妙、しかし事前に皇太子殿下からの打診があっての公式訪問とあってか、貴族向けのホテルに案内された上に、その最上階のフロアをアレクサンダーと葵の為に貸し切ったと告げられた。

「感覚が違いすぎる……」

「歓待の度合いによっては、非礼に当たることもあるからな。諦めてくれ」

 葵の庶民的な感覚を知っているアレクサンダーが、葵の背を叩きつつそう言って笑ったので、葵は渋々と頷く。一方、普通に受け入れているアレクサンダー=貴族=お坊ちゃんに対し、住む世界が違うなあ、とこっそりと思った。

 宮殿のような巨大な建物の中は、床が大理石となっており、歩くだけでも緊張した。外から見ると五階建てだったので、最上階まで登るのかと顔に出さずにうんざりしていたのだが、イーヴォが歩を進めた先にある小部屋に、葵は目を瞠った。

「こちらにお入り下さい。最上階までお運びします」

「珍しい機構だな」

 とアレクサンダーは素直に驚いているが、小部屋に踏み入って扉が閉まると、葵は素早くアレクサンダーの袖を軽く掴んだ。

「アオイ?」

「えっと、ちょっと怖くて」

 そう誤魔化したが、葵の顔色が悪いことには気付いただろう。それでもその場では追及せずにいてくれたので、葵は胸中で感謝した。

 最上階に到着すると、イーヴォが軽くフロア内の配置について説明してくれる。

 アレクサンダー用の寝室、葵用の寝室、それぞれ隣に荷物を置ける衣裳部屋。手洗いと浴室も各室に備わっているが、様々な効能ある湧水使用の浴場が同フロア内にあるので、そちらも好きな時に使って欲しい。ホテル一階には食堂があるが、事前に希望を言ってくれれば、最上階の部屋で摂れるよう準備する。

 そんなことをずらずらと笑顔と共に述べられたが、葵はほとんど聞いていなかった。

 と、アレクサンダーが何気なくイーヴォに問う。

「ところで、暗くなったら何で灯りをともせば良いんだろうか? 俺の国とは勝手が違うようだから教えて欲しい」

「ああ、それはですね」

 イーヴォが笑みを深め、手近な扉を開く。数歩だけ入ると、壁際を示した。

「どの部屋にも、入ってすぐの位置にこういったものを備えています。これを押して頂ければ、点灯と消灯が行えます。勿論、退室の際でも点けたままにして頂いて構いません」

「凄いな、これは」

 アレクサンダーが目を輝かせ、イーヴォに言われた通りの操作を何度か繰り返す。それから葵に何か言おうとして、顔色を変えた。

「アオイ、どうした?」

「……ちょっと、気分が……」

 眩暈から吐き気が湧いたので口元を押さえる葵を、アレクサンダーが肩を抱くようにして支える。そして、葵の足元が揺れていると察すると、アレクサンダーは躊躇なく葵を抱き上げた。即座にイーヴォに言い募る。

「済まない。今日はもう休ませて貰っても良いだろうか。長旅の疲れだろう」

「は、はい……アオイ様のお部屋はあちらです」

 足早にイーヴォが歩き、アレクサンダーもそれに続く。

 葵用の部屋の扉をイーヴォが開けると、アレクサンダーは軽く礼を言いつつベッドへと向かった。葵を横たわらせてから靴を脱がせ、ブラウスのボタンを上から数個外す。

 葵の額を軽く撫でてから、アレクサンダーは身を起こしてイーヴォに堅い声で告げた。

「俺とアオイの荷物は、俺の部屋に全て運んでくれ。何か頼むことがあるかもしれないから、その時は……」

「廊下に使用人を控えさせておきます。私への言伝もお申し付け下さい」

「ああ」

 短い会話をすると、イーヴォは素早く、かつ静かに退室する。

 足音も聞こえなくなってから、葵はアレクサンダーに言った。

「アレックス……この国、おかしいよ」

「何?」

 水差しに手を伸ばしていたアレクサンダーは、葵の台詞に眉を顰め、そして身を屈めて顔を近付ける。

「どういうことだ」

 問われるが、葵は目を閉じて眉間に皺を寄せた。またあの声が聞こえたからだ。

「助けて……」

「この世界には、ないはずなんだ……」

 か細い声をかき消すように、語調を強めて声を吐き出す。

「何が……」

「僕のいた世界には当たり前にあったけど、こっちにはないはずなんだ……!」

 がばりと身を起こし、アレクサンダーに叫ぶ。アレクサンダーが気圧されたように身を引いたのを見て、葵はやや声を押さえた。

「船に乗ってる時も感じたんだけど、この国に来たらはっきりした。文明が進みすぎてる。さっき使ったのは昇降機エレベーターだ。ここからそう遠くないルデノーデリアですらないのに、なんでこの国にはあるんだ!?」

「……『エレベーター』?」

「そうだよ。それにあの様子じゃ、使われ始めてから結構な年月が経ってる。……ザックさんがこの異常さに、気付かないはずがない」

 ザカリエルの名を出すと、アレクサンダーの顔色も僅かに変わる。

 葵がまた横になると、アレクサンダーは思案する様子を見せ、それからそっと言って来た。

「アオイ、まずは身体を休めよう。この件は、万全の態勢で臨む必要がある。それに、到着したその日にあれこれ動くと、怪しまれかねない。だから気付いたことがあれば、全て俺に言ってくれ。……いいな?」

「……うん」

 アレクサンダーから見れば荒唐無稽な話だろうに、戸惑いはあれど疑うこともなく聞き入れてくれている。葵はほっとして大きな息を吐いた。

 途端、葵の腹が派手な音を鳴り響かせる。

「………………ごめん」

「いや、元気が出たようで良かった」

 赤面する葵にアレクサンダーは肩を揺らし、口元に手を当てた。


 人が多い場所では気を遣うだろうと、アレクサンダーが使用人に指示を出して食事を運ばせてくれた。

 アレクサンダーが言ったように長旅の疲れもあったらしく、あまり多くは腹に入らなかったが、気力は回復したので、葵はフォークを置くと同時にアレクサンダーに言った。

「折角だから、イーヴォさんが言ってた浴場を使わせてもらおうかな」

「大丈夫か?」

「うん」

 葵が頷くと、アレクサンダーはベルを鳴らして使用人を呼び、入浴の準備をするように言いつけた。


 イーヴォの指示か、最上階フロアは階段や昇降機付近に警備兵と思われる人影はいるものの、使用人共に最低限の人数に抑えられている。

 小市民の葵としては、大勢が廊下にいては気詰まりに感じそうなので、この国なりの配慮と捉えることにした。

 使用人に案内された先にあった大理石の浴場は、屋根はあるが露天風呂に近い形で、窓にはガラスが嵌っておらず風通しが良い。星の光が良く見えるようにだろう、少ない灯りの中で湯の表面が煌めいている。

 なんだかんだで時間が経っていたので、窓枠から見える空は、既に紺色に染まっていた。

「……すごい」

 感嘆の声を上げながら服を脱いで脱衣籠に入れ、やや濁った湯が溜められている浴槽に浸かると、適度な温かさに安堵の息が漏れる。

 思わず長居しそうになったが、のぼせてしまってはまたアレクサンダーが心配すると思い至り、名残惜しかったが葵は身を起こした。

 浴槽の外に出て、身体を拭くタオルを取ろうと手を伸ばしたところで。

両性具有者アンドロギュノスか」

 闇から湧いたような低い声に、ぎくんと身を強張らせた。数秒の硬直の後、顔だけを何とか動かしてそちらを見ると、金色の瞳にぶつかる。

「……イーヴォ、さん?」

 掠れた声で彼の名を呼ぶと、光の届かない浴場の隅の暗がりから、先刻見た男と同じ顔の人物が進み出て、白い歯を見せた。

「違う。――俺は召喚獣『太陽神ケツァルコアトル』と契約した魔術士、ヨーナス・アコンニエミ」

 彼は自己紹介をすると、葵を見据えたまま目を細める。

「アオイ、君は選ばれた。俺と一緒に来てもらおう」

 ヨーナス・アコンニエミは舌なめずりをするように、唇を軽く舐めた。


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