(8)


 アレクサンダーに付き添われて自室に戻ると、葵はテーブルに飲物の入ったカップを置いた。アレクサンダーも日傘を適当な場所に置き、葵をベッドに座らせる。彼自身も葵の隣に腰を降ろすと、葵の手をそっと握って来た。

「大丈夫か?」

「うん……」

 頷きながらも、アレクサンダーの肉厚の手の中の自身の指先が、僅かに震え始めていることを自覚する。

「……茉莉ちゃんがさ」

「マツリ?」

 意識せずに唇から洩れた名に、アレクサンダーが小首を傾げる。それに構わず、葵は続けた。

「茉莉ちゃんが男の人苦手なのって、さっきみたいな目に沢山遭ったからなんだ」

「……うん」

 笑える話ではないのだが、葵の口元が緩む。今しがた自身に起きた出来事を、無意識に『笑い話』にしたいと思っているからだろう、と自己分析した。

「茉莉ちゃんから色々話だけは聞いてたから、僕と一緒にいる時に何かあったら、茉莉ちゃんを守る為にああしよう、こうしようっていつも考えてたけど、駄目だな。自分のことでも、上手く対処出来ない……」

「アオイのせいじゃない」

 アレクサンダーが即座に言い、葵も頷きはしたが、それで気が晴れる訳もない。むしろ自責の念が強くなり、葵は肩を窄めた。

「茉莉ちゃんが元の世界に嫌気が差してたのって、結局こういうことだったんだね。僕は茉莉ちゃんの悩みを聞いてたし、知ってた。けど、それは『分かってるつもり』でしかなかったんだ」

「アオイ」

 呼ばれて顔を上げると、眉間に皺を寄せているアレクサンダーの顔が見える。葵の手を握る指先に、力が篭もった。

 アレクサンダーは数秒だけ逡巡を見せ、それから言葉を選ぶようにぽつぽつと言う。

「自分以外の誰かの辛さや痛みを、完全に理解するのは不可能だ。分かったと思えても、それは自分の中にある想像にすぎない。だが、誰かが少しでも分かろうと努力してくれることや、寄り添ってくれる姿勢を見せてくれることが、救いであることは間違いない。だからこそ、マツリはアオイを好いたんだろう。なのにアオイ自身がそれまで否定してしまったら、それこそマツリに失礼だ」

「………………」

「マツリは元の世界よりもこちらの世界の方が、生きていて楽しいと思ってくれている。それは事実だが、元の世界でアオイがマツリの支えになった過去が、消えてなくなる訳じゃないんだ」

「……そうだね」

 アレクサンダーに言い募られ、葵は息を吐いて頷いた。

 彼の言いたいことは、痛いほどわかる。もし葵と同じ悩みをアレクサンダーが抱いていたら、葵も同じことを言うだろう。茉莉もそうかもしれない。

 それでも、理解しつつも完全に納得し切れないのが自分で、人間というものなのだろう。複雑で面倒臭い、どうしようもない生き物。

 葵が顔を伏せて思わず苦笑したところで、アレクサンダーが突然葵を抱き上げて自身の膝の上に乗せ、ぎゅっと抱き締めて来た。

「アレックス?」

 いきなり何だ、と問おうと顔を上げると、素早く唇を重ねられる。数秒もせずに顔を離されたが、鼻先や頬にも軽いキスをされて、葵はアレクサンダーの顔面に掌を押し付けた。

「何だよ!」

 怒っている訳ではないので肩を揺らして笑いながら言うと、アレクサンダーは葵の手を緩く掴んで渋面になった。

「アオイが辛そうにしてると、俺も辛い」

「…………」

 葵が虚を突かれると、アレクサンダーはまた先よりも強く抱き締めて来る。

「アオイの痛みや辛さを、肩代わり出来る術があればいいのにな。アオイが苦しい思いをするなら、俺が引き受けたい。でも俺に出来ることは、これから先アオイが辛い目に遭わないように気を付けるだけで、だがそれも完全には出来ない。それをしようと思ったら、アオイをどこかに閉じ込めるしかないというのに、そんな手段は馬鹿げてるとも分かってるんだ」

「アレックス……」

 耳元で囁かれ、アレクサンダーの背に手を回す。

 そういう風に思ってくれる、言ってくれるだけで十分だ。だがそれを言ってもアレクサンダーの気が晴れるものではないし、告げればその分、この先何かあった時にアレクサンダーは苦しむのだろう。

 それでも、口を閉じていられる程葵も我慢強くないので、葵は声を発した。

「アレックスと同じことを、僕も思ってるよ……」

 言うと、アレクサンダーは身を引いて葵に再度キスをして来たが、先よりも長い、深いものだった。


 扉が開閉する音で目を覚ますと、アレクサンダーがトレイに載った二人分の軽食をテーブルに置いたところだった。

「すまん、五月蠅かったか」

「ううん、大丈夫」

 首を振りながら身を起こすと、身体にかけられていたシーツが肩から滑り落ちる。思わず赤面し、アレクサンダーの視線を遮るようにシーツを手繰り寄せると、アレクサンダーが軽く笑って言って来た。

「気にしなくてもいいぞ」

「僕は気にするの。あっち向いてて」

 葵が顔を顰めながら言うと、アレクサンダーは口元に笑みを残しつつ、また扉に向かう。

「十分後に戻って来る。鍵だけかけておけ」

 そう言って廊下に出て行く背中を見送って、葵は息を吐きつつ髪を掻いた。

 陽も高い内から、しかも船上で致してしまった。意外と燃えたがそれはともかく。

 恋愛ごとに慣れていないので比べようもないのだが、自分はこういう人間だっただろうか、と密かに悩む。それとも、これが普通なのか。

 アレクサンダーが置いて行った食事を見ると、揚げた肉と野菜が挟まったサンドウィッチ、それに果汁ジュースだ。昼過ぎなので空腹になっていても、重いものは無理だろうと配慮されたメニューだ。

 そういう小さな事柄でも目の当たりにすると、葵の胸の奥に熱いものが灯る。今までそれを、アレクサンダーを可愛らしいと感じているものだと思っていたが、今更ながら勘違いだったと気付いた。

 『愛しい』だ。



 葵が軽く汗を流した頃にアレクサンダーが戻って来たので、そのまま二人で昼食を摂ったのだが。

「さっき食堂に行った時、アオイを助けてくれた男に会ったから礼を言ったんだが……」

「どうかしたの?」

 アレクサンダーの表情が微妙だったので首を傾げると、彼は僅かに眉を顰める。不快なのではなく、当惑しているといった風情だ。

「甲板では遠目に見ただけだったが、人違いではないはずだ。だが、アオイを助けた覚えはない、と言われた」

「へ……?」

 思わず、そんな声が漏れる。

 アレクサンダーの瞳は左右の色が異なるが、それは双頭の蛇アンフィスバエナとの契約のせいで、オッドアイ特有の視力の弱さは特にない。仕事柄、目で見たものを覚える能力にも長けているだろう。

 なので、目を引く格好をした人物なら尚更、間違えるなどあり得ない。

「……人違いじゃないとすると、気を遣われたくなくて嘘をついたとか……?」

「……そう、か?」

 アレクサンダーも釣られたように首を僅かに傾げ、そして続けた。

「……顔はよくわからなかったが、彼は魔術士だな」

「そういうの、わかるんだ」

 葵が目を丸くすると、アレクサンダーは頷く。

「なんとなく、だがな。自分と契約している召喚獣との相性によっては、活動に影響する場合もある。相手も勿論、俺の中にいるアンフィスバエナの存在を察しただろう。特に何も言われなかったが……」

 そう言って、アレクサンダーは手の中のサンドウィッチを一口齧った。


 セパへの旅は一応『仕事』なので、無用なトラブルを避ける為、その後は出来る限り部屋に篭もり、外に出る時は必ずアレクサンダーと共に動くようにした。

 そうして次の日、葵はアレクサンダーと共に礼服に近いものを、そして葵は女性用ではなく着慣れた男性用の衣服を身に着けて、港に降り立った。

 盛大な出迎えまではないだろうと思っていたが、公式にルデノーデリア王国の『執行人』が来るという話は予想以上に広がっていたらしく、出迎えではないと思われる人波が覗える。

 その中から一人の男が進み出て来、アレクサンダーの元へ真っ直ぐに歩み寄った。

「アレクサンダー=ダクマルガ・ヴォルフ様ですね」

「君が案内人か」

「はい。身の回りのお世話をさせて頂きます、イーヴォ・アコンニエミと申します。なんなりとお申し付け下さい」

 アレクサンダーの前で腰を曲げる黒髪に褐色の肌の男に対し、アレクサンダーも頷く。

 イーヴォなる人物が顔を上げ、金色の瞳が葵を捉えたので、葵も自己紹介した。

「僕はアオイ・コガと申します。よろしくお願いします」

 緊張しつつ何とか微笑んで言うと、イーヴォも善良さが伺える笑みを浮かべた。そして、葵にも口を開く。

「助けて」

「えっ?」

 葵が思わず眉を顰めると、当惑の表情が返される。それで察して、アレクサンダーに顔を向けた。

「……今、何か言った?」

「いや、何も言ってないが」

 イーヴォと同じような顔をするアレクサンダーに、またか、と思いつつ葵は笑顔を作った。

「あ、そう? ……何だろうな。耳鳴り?」

 言いつつも、幻聴ではないと頭の中で確信する。

 船の中でも聞いた声だ。しかし、周囲にそれを発したと思われる人物はいない上、葵にしか聞こえていないようだ。

 イーヴォの先導に従ってアレクサンダーと肩を並べて歩を進めつつ、葵は思案した。

 これについて、アレクサンダーにどう伝えるべきか。


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