(7)
それからまたゆっくりと歩き回ると、客が入られる場所は粗方周り終えた。
昼食までまだ時間はあるのでデッキに戻ると、葵はふと思いついて舳先に移動し、鳥のように両腕を広げてみる。
「どうした? アオイ」
「あはは……」
背後にいるアレクサンダーに問われ、なんとなく笑いで誤魔化して手を下げる。そして、振り返りつつ赤くなった頬を掻いた。
「えーと……僕が住んでいた世界の実話をベースにした物話で、登場人物がこうする場面があるんだよ。確か、勝利の女神が降り立ったところを演じた……だったかな?」
葵の説明にアレクサンダーは目を細め、問うて来た。
「面白いな。どんな物語なんだ?」
「豪華客船が沈む話」
「………………」
「………………」
アレクサンダーが無言になって青褪めたところで、葵は両手で先よりも赤くなった顔を覆った。
「ゴメン、縁起が悪かった。そういうつもりじゃなかったんだけど」
「はは……」
アレクサンダーは苦笑してから咳払いをすると、雲一つない天を仰いで言う。
「日差しが強くなって来たな。中に入るか?」
「もう少しここにいたいな。風が気持ちいいし」
「じゃあ、何か飲物と日除けになる物を持って来る。アオイはここで待っててくれ」
葵の台詞にアレクサンダーはほっとしたように笑ってから、周囲を覗って葵に顔を寄せる。
「何かあったら、気にせず魔法を使うんだぞ」
「わ、わかった」
考えすぎでは、と思ったが、アレクサンダーの経験則もあるのだろう。軽くは捉えずに頷くと、アレクサンダーは葵の肩を軽く叩いてからその場を去った。
陽はすっかり高くなり、風は涼しいが陽光が当たる肌は徐々に熱くなって来る。日本の夏とは異なり湿気がないから不快感はないが、油断すると日焼けで辛いことになるかもしれない。
この世界には日焼け止めとかあるんだろうか、と何とはなしに考えていると、
「ねえ、君」
と、声をかけられた。
柵に手を置いて遠景を眺めていた葵は、振り向いて小首を傾げた。見覚えのない男が、そこに立っている。ブラウンの短髪に、これといって特徴のない人物だ。当然、乗船してから挨拶をした覚えもない。
「何か?」
船員が注意しにでも来たのだろうかと思ったが、アレクサンダーの衣服と似たような平民服で、客にしか見えない。
葵の問いかけに男は軽く笑い、葵の前に一歩進み出た。元々小柄な葵である上、この世界では成人男性の規格は日本人よりも大きい。なので、目の前に来られると思わず身が強張った。
なんとなく嫌な予感がしたのだが、男が発した台詞でそれが当たっていたことを知る。
「さっきから見てたんだけど、同行者の男は貴族?」
「……そう、ですが」
『執行人』であることを言う必要はない。だから肯定だけに留めたのだが、男は白い歯を見せて片手を腰に当て、もう片方の手の指先で葵を指して来た。
「君は? 兄妹とかではなさそうだけど……旦那様の妻子に内緒の、お忍びの旅行か何かかな?」
「失礼ですよ」
暗に主の愛人という立場だろうと言われ、葵は眦を吊り上げた。迫力がないのは承知の上だが、それでも男の顔が僅かに強張った。
胸中で汗をかき、どうしようかと悩む。
この世界に来てそれなりの時間が経ったが、元の世界にも存在したような大昔の階級制度が色濃く覗えるだけあって、人によっては自身の地位を盾にして他者を見下す者もごく稀にいる。というより、葵が『仲良く』しているザカリエルやベネディクト、セオドアのような人間の方が珍しいのか、緩い空気はルデノーデリアならではであって、国外では通用しないのか。
いずれにせよ、出自が分からない人間相手の場合、口調や挙動一つにも神経を使わなければならないということは、葵にも分かっていた。
控え目に否定をする葵に、男はなんとか取り繕うように表情を戻し、しかし片手を伸ばして葵の背後の柵に置く。距離が縮まったので、葵は思わず肩を窄めた。
他にも乗客がいる場所だ。滅多なことはしないだろうが、傍から見れば目の前の男が葵の連れかどうかなど分かる者はそういない。葵が声を上げない限り、助けが来る可能性は低い。とはいえ、葵がこの船に乗っている理由を鑑みると、騒ぎを起こすのも気が引ける。アレクサンダーが言ったように、魔法を使うとしても、下手すると男が湖面へ自由落下し兼ねない。
葵が躊躇っていると、男が葵の耳元に唇を寄せ、低い声で囁いて来た。
「どうせご主人様相手に毎日尻尾を振って、寵愛を得て暮らしてる身なんだろ? 隙を見て抜け出して来れば、気晴らしをさせてやるぞ」
「……っ!」
基本温厚な葵でも頭に血が上り、頭で考える前に身体が勝手に動き、右の拳を男の頬にめり込ませていた。非力でダメージも大したことはないだろうが、男からすればこれ以上ない拒絶だろう。
が、その後のことまでは考えていなかった。
「この……!」
男は空いている手で葵の右手首を掴み、柵に置いていた手を離したかと思うと、その手で拳を作って振り上げた。
殴られる、と葵は目を瞑って歯を食い縛った瞬間。
「止められよ」
男のものではない、しかしアレクサンダーのものでもない声が耳に届き、そっと目を開ける。
見ると、男が青褪めて硬直し、彼の喉に白い刃物が押し当てられていた。背後には、食堂で見た怪しい青年が立っている。
その人物が、囁きに近い声を発した。
「やんごとなきお方とお見受けする。貴殿も、このような場所で恥をかくのは本意ではあるまい。今なら誰も気に留めておらんが、貴殿の行動如何では、喉を裂くことも躊躇わんぞ」
抑えた声色だが、どこかで聞いたような、と思う。だが、頭部に巻いた布の隙間から見える髪は金、瞳も暗い灰色なので、明らかに脳裏に浮かんだ人物とは違う。
ともあれ、男が葵からゆっくりと手を離したのを見ると、青年も静かに刃を引いた。
「
青年のその一言で男が遁走すると、葵は真っ先に礼を言った。
「あの……ありがとうございます」
「礼はいらん。……ああいう輩はどこにでもいる。連れの傍を離れるなよ」
それだけ言って、青年は葵に背を向けて歩いて行く。礼は言ったものの、それでは足りないような気がして、葵が呼び止めようとしたところで、今度は慣れた声がした。
「アオイ!」
「アレックス」
駆け寄って来るアレクサンダーにほっとしつつ、葵からも歩を進めて距離を縮めると、アレクサンダーは日傘を小脇に抱えて両手に飲物を持った姿で、葵の前で立ち止まる。
「遠くから見えた。何があった?」
「男の人に声をかけられただけ。助けてくれた人がいたから、何ともないよ」
「………………」
葵が出来るだけ笑顔を作って言うも、アレクサンダーは厳しい顔をする。そして、両手を塞いでいた飲物を葵に渡して来る。
「すまん、俺の分も持ってくれるか」
「あ、うん。全然構わないよ」
頷いて受け取ると、アレクサンダーは日傘を片手に持ち直し、もう片方の手で葵の肩を抱き、動くように促す。
「一旦部屋に戻ろう」
「うん……ごめん」
「アオイが謝ることはない」
アレクサンダーは微笑んでそう言ったが、葵は初めて抱くと言っても過言ではない感情に、思わず俯いた。
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