(6)


 二時間ほど眠っただろうか、船の上という意識が緊張を促していたらしく、睡眠は足りていないはずなのに、頭の隅が鈍いような状態で葵は身を起こした。

 眠る前に聞いた声が気になっているからか、嫌な汗をかいているので、アレクサンダーが来るまで時間があると見て、葵はブレスレットを外すと着替えを準備して、浴室へ向かった。

 浴槽のないシャワーだけの空間だったが、石鹸も備え付けられている上にきちんとお湯も出るので、葵は昨日からの汗と汚れを洗い流すことが出来た。

 バスローブがあったのでそれを身に着け、濡れた髪をタオルで拭いながら浴室を出、窓から外を見る。雲一つない晴天と、その空を映す青い湖面が見えた。

 その光景がなければ、船の上ということを忘れそうなほどに静かだ。そう思った瞬間、アレクサンダーに言えなかった疑問がまた脳裏をよぎる。

 ルデノーデリア王国の発展具合から見ると、明らかにこの船は『出来すぎている』ような気がする。オーバーテクノロジー、とでも言うのだろうか。

 葵と茉莉の暮らしていた世界では当たり前だが、この世界には電気すらないのだ。だというのにこの船は、元の世界にあっても遜色ない完成度に思える。

 とはいえ、葵は造船に詳しい訳でもない平凡ないちサラリーマンなので、考え違いという可能性もある。だからアレクサンダーにも言えなかった。

 もっと言うと、アレクサンダーが疑問を抱いていなかったこともある。葵の違和感は懸念する程のものではなく、この世界では当たり前だったりするのかもしれない。

 肌の水滴もすっかり消えたので、葵は下着を身に着け、着替えを手に取った。先刻まで着ていたものとそう変わりない、男物のブラウスにズボン、それにブーツだが、インナーに当たるシャツを着ようとしたところで、葵は手を止めた。

 旅行用の鞄を探り、目的のものを引っ張り出す。それを着てから眼鏡をかけてサンダルを履き、アレクサンダーに貰ったブレスレットを手首に巻いた。

 ふと、鞄の底にひっそりと入れていた、ソーサル・セプターが目に入る。ブレスレットと同じく、アレクサンダーが作った二色の魔石が嵌め込まれているが、セパという国では肌身離さず持っておくのは止めた方が良さそうだ。

 葵が鞄を閉じて立ち上がったところで、扉がノックされる。

「葵、起きてるか?」

「あ、うん」

 足早に扉に歩み寄って鍵を開け、葵が扉を開ける。アレクサンダーも葵と同じく汗を流して着替えたらしく、髪を編んでかなりの軽装になった姿が見えた。

 が、アレクサンダーは葵を見るなり硬直し、左右で色の異なる目を見開く。口までぽかんと開けてしまったので、葵はやや慌てて自身の着ている服の裾を軽く抓んだ。アレクサンダーが選んだ例のワンピースだが、着ている姿をアレクサンダーに見せるのは、これが初めてだ。

「に、似合ってないかな?」

 試着した際、自分的にはそうおかしくないと思ったのだが。

 葵が問うと、アレクサンダーは我に返ったように身を強張らせ、それから耳まで、どころか首筋まで赤くなった。

「ああ、うん。――じゃなくて、いや……に、似合って……というか」

「というか?」

 葵が小首を傾げると、アレクサンダーは片手で口元を覆って、葵から目を背けた。そして、ぼそりと言う。

「かっ……可愛い」

「………………」

 思わず葵も赤面してしまったが、アレクサンダーの挙動こそ可愛いだろうと思ってしまった。


 ワンピースはノースリーブなので、日除けにストールを巻くべきと言われたので、うっすらと透ける布で軽く肩を覆った。

 そしてアレクサンダーと共に食堂に向かったのだが、扉を潜って席に着くまでの間、やけに視線を感じた気がする。

 バイキング形式だったので、アレクサンダーは葵は席に残ってるように言い、一人で料理を取りに行った。葵の疲れを考慮したのと、単純に混んでいたからだろう。

 葵が備え付けの水差しからグラスに水を注ぎ、軽く喉を潤していると、また視線を感じたのでそちらを見ると、怪しい人物が葵を覗っていた。が、葵と目が合うとさっと目を逸らす。

 とはいえ、その人物は服装自体は熱帯向きのものだが、首から上を布でぐるぐると巻いており、顔どころか髪型、髪の色すら覗えない。なので、肌で感じた視線から察しただけなのだが。

 葵がその人物――恐らく体格からして男だと思う――をじっと見ていると、アレクサンダーが両手に皿を持って戻って来た。

「起きたばかりだから、油物は避けて持った来た。デザートも揃ってたから、腹具合を見ながら取ろうか」

「うん、ありがとう」

 葵が笑うとアレクサンダーも微笑み、皿をテーブルに置いてから、葵の正面の椅子に腰を降ろす。

 しばらくは黙々と食べていたが、それなりに胃袋が満たされてきたところで、アレクサンダーが口火を切った。

「セパの港に到着するのは、明日の午後だ。数時間停泊して戻って行くだけだから、船が止まってから出る準備をしても十分に間に合う。万一寝てしまってても起こしに行くから、それまで好きに過ごせばいい」

「じゃあ、この船の探検しない? これ食べ終わってからでも」

 葵が身を乗り出すと、アレクサンダーは目を細めて頷いた。


 腹八分目で食事を終え、食堂を出るとそのまま船内探索に出た。

 船が沈むとは思えないが、緊急避難路の確認も兼ねているので、歩きながら道に迷わないように順路を覚える。

 外が見えない場所に入ってしまうと、船の中だということも忘れそうなほど静かで、揺れない。

「これ、本当に動いてるんだよね?」

 葵が言うとアレクサンダーは笑い、甲板に続く扉を開けて、葵に示す。

 船首が水を掻き分ける音が耳に届き、僅かに熱気を含む風が顔に当たったので、葵は歓声を上げた。

 手摺に近付いて湖面を覗き込むと、アレクサンダーが慌てて葵の腰に腕を回す。

「飛び込んだりするほど非常識じゃないよ」

「注意してても、船が大きく揺れたりしたら危険だからな」

 唇を尖らせる葵にアレクサンダーは笑い、ついでのように葵のこめかみにキスをする。

 あまりにもスマートな挙動になんとなく悔しくなり、アレクサンダーの三つ編みの先を軽く掴んで引いた。

「いたたた」

 アレクサンダーが笑いながら身を屈めたので、葵も彼の頬に唇を触れさせる。アレクサンダーの真似だが気恥ずかしくなり、彼の腕の中からさっと逃げて距離を取ると、アレクサンダーが困ったように頬を掻いた。

「海じゃないなんて信じられないな」

 照れ隠しも兼ねて、葵が湖面を眺めながら呟くと、アレクサンダーも手摺に身を預けながら、言う。

「日を跨がないと対岸が見えないからな。だが、海となるともっとかかる」

「その内海も見たいな」

「海もこの湖に負けない程澄んでるから、旅行にはうってつけだ」

「へえ……」

 アレクサンダーに相槌を打ち、影すら見えない向こう側に目を馳せたところで。

「助けて」

「え?」

 突然はっきりと聞こえた声に、目を瞠る。背後を振り返るが、遠くにぽつぽつと他の乗客がいる程度だ。勿論、一番近い場所に居るアレクサンダーの声ではなかった。

「どうした?」

 アレクサンダーが身を起こし、訝し気に眉を顰める。それに答えることも出来ず、葵は手を添えて耳を澄ましたが。

 が、もう何も聞こえない。

「……今、何か聞こえなかった?」

「いいや。波の音か?」

 葵にそう言いつつ、アレクサンダーも同じ仕草をして音を聞く。だが、やはり何も聞こえなかったようだ。

「何が聞こえたんだ? 人の声か?」

「うん」

 今度は問いに頷き、思わず目を伏せる。耳元で囁かれたような声は、気のせいでは済ませられない何かがあった。

「『助けて』って。……確かにそう聞こえた」


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る