(5)


 御者はテントで、葵とアレクサンダーは馬車の中で毛布に包まって仮眠を取り、また真夜中と言える時間に出発した。

 つつがなく進んで数時間後、空が明るくなり始めた頃に馬車が減速を始め、方々から他の馬車も現れるようになったので、葵は目的地が近いらしいことを察した。

 窓から外を眺めていると、生い茂っていた木々や草木が減り、露出した地面が多く見られるようになる。植物の種類も、明らかに暖かい地域に生えるようなものへと変わっていた。

「水の匂いがするね」

「ああ。停泊所はそろそろだ」

 葵に頷いてから、アレクサンダーは軽く欠伸をする。そして、やや頬を染めつつ手を口元に当てた。

「失礼」

「いや、それくらい構わないよ」

 苦笑してそう返してしまったが、なんだかんだ言ってもアレクサンダーはお坊ちゃんなのだな、と思う。

 時折肉体派らしい荒っぽさや気安さはあるものの、反面、貴族、もしくは騎士の家系らしい礼儀正しさや気品が感じられる。

 ふと、葵がこの世界の生まれだったなら、葵とアレクサンダーが恋仲になる、ましてや結婚するなどあり得ない程に身分が違ったのではないだろうか、と思った。

 その想像に思わず首を振ってしまい、それを見たアレクサンダーが小首を傾げ、しかし眠気を振り切る動作と勘違いしたらしく、軽く笑う。

「乗船したら暇が出来るから、少しは眠れるぞ。ザックが奮発してくれたおかげで、俺と葵は手洗いもある個室で、汗を流すくらいなら出来る設備も備わってるらしい」

「そ、そうなんだ」

 それは有難い、と思ったが、ザカリエルの気合の入れようは何だろう、とも思う。彼が茉莉に言ったように『アレクサンダーを大事に思っているから』とも言えるが、何か違うような気がして来る。

 形容し難い違和感に、葵の眉間に皺が寄っていたらしい。アレクサンダーは身を屈めて視線の高さを葵に近付け、問うて来る。

「……何か気がかりなことがあるのか?」

「あ……うん。怒らず聞いてくれる?」

「勿論」

 気になることがあれば言え、と言われたばかりで、アレクサンダーの仕事に帯同するのなら、これは葵の仕事でもある。そして、アレクサンダーは言うなれば葵の上司、もしくは責任者か。

 なので、葵は言葉を選びつつ、言った。

「なんだか……ザックさんらしくないなって」

「?」

「アレックスを気遣うなら、もっと違うやり方をする気がする。船のいい部屋を取るとかじゃなくて」

 葵が続けると、アレクサンダーは腕を組んで小さく唸る。

「俺は、葵が同伴しているからだろうと思っていたが、それでも、か……」

 確かに、この世界にすら慣れていない葵だから、と言われれば、大半の人間は納得するだろう。

 葵も顎に手を当てて嘆息すると、アレクサンダーは腕組を解いて軽く笑う。

「葵が言った件も含めて、色々気がかりなことがあるが、恐らくザックはわざとやってるんだろうな」

「わざと?」

「わざと何かを隠して違和感を持たせ、考えさせる。結果警戒して、突発事態に対処出来る。……ザックの悪い癖だが、察知出来る人間相手にしかしない」

 アレクサンダーが苦笑したので、葵は半眼になった。

「本当に悪い癖だね」

「ああ。この旅行が終わったら、一発殴っておく」

 アレクサンダーが言ったところで、馬車が止まった。


 外に出て真っ先に目に飛び込んで来た見渡す限りの青に、海かと思ったのだが実は湖らしい。

「あまりに広すぎるから、召喚獣『暴君リヴァイアサン』が眠っているという触れ込みだ」

「リヴァイアサン?」

「ああ」

 海のように水際に波が寄せているのを眺めてから、アレクサンダーに顔を向ける。

 暑いからか、アレクサンダーは広がる長い髪を項で纏めていた。それが終わると、ジャケットを脱いで小脇に抱える。

 馬車から荷物を降ろしている御者を軽く見やってから、アレクサンダーは続けた。

「『獣王ベヒーモス』と並ぶ、最強の召喚獣だ。だが、世界の半分を覆うほどの大きさと言われているから、正直この湖じゃ広さも深さも足りない。だから、客寄せの為の作り話と見られている。そもそも、リヴァイアサンがこの世界に喚ばれたという話すらないんだからな」

「へえ……」

 アレクサンダーの説明は尤もなのだが、目の前に湖の青さと透明感から感じられる神秘的な空気を見ると、そういった作り話も信じてしまいそうだ。

 御者が船員も使って荷物を運びこむ先には、白く巨大な客船がある。葵が想像していたような、木造の船には見えない。

「っていうか、技術が……」

「ん?」

「いや、何でもない」

 思わず漏れた言葉にアレクサンダーが一瞬反応したが、誤魔化した。

 そこで御者がアレクサンダーに歩み寄って来て、恐らく荷物についての報告をし始めたので、葵はこっそりと息を吐いてから、唇を噛んだ。

 小さなことでもアレクサンダーに報せると約束はしたが、これは言いようがない。あまりにも曖昧過ぎて、アレクサンダーに伝える言葉も見つからないのだ。

「葵、乗船だ。馬車に忘れ物はないか?」

「あ、うん。大丈夫」

 アレクサンダーが葵を促したので、歩を踏み出してアレクサンダーの手を取った。


 アレクサンダーの説明通り、葵の部屋は広々としており、ベッドにチェストにデスク、クローゼットに手洗い、小さな浴室までついていた。隣の部屋のアレクサンダーも同じらしいが、アレクサンダーは『二人部屋で良かったのに』と、小さな不満らしき台詞を吐いた。

 とまれ、アレクサンダーは葵の部屋を見渡してから扉に向かい、言って来る。

「出航の時だけ揺れるが、その後は静かに動くから、横になって休んでおくと良い。朝食の時間になったら、起こしに来る。俺が出たら、鍵をかけるようにな」

「わかった。ありがとう」

 葵が頷いて礼を言うと、アレクサンダーも微笑んでから廊下へと姿を消した。

 一人になると、葵はジャケットを脱いで軽装になり、ブーツも脱いで浴室で足だけを洗ってから、室内履きに履き替える。眼鏡を外してサイドボードの上に置くと、ベッドに寝転んだ。

 窓から差し込む陽光は徐々に強くなっており、カーテンを閉めても室内が暗くなることはなさそうだ。

 それでも流石に眠気が勝り、葵は目を閉じたのだが、地鳴りのような音が響いたかと思うと、室内が揺れ始める。出航の時間が来たのだろう。

 ――と、何かが聞こえたような気がした。

「?」

 目を開けて身を起こし、周囲を覗う。耳を澄ませたが、揺れは既に収まり、船の駆動音以外は何も聞こえない。

「……耳鳴り?」

 呟いたが、違う。

 今聞こえたのは確かに、哀し気でか細く響く、助けを求める声だった。


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