(4)


 葵が時折後方を気にしているからか、とうとう三度目の確認の後にアレクサンダーが問うて来た。

「何かあるのか?」

「あ、うん……」

 先刻見た馬車は、二度目の確認の際にはもう見えなくなっていた。別方向へ向かったのだろう。

 それでもまた現れやしないかと幾度も確認したのは、なんとなくだ。取るに足らないことだが、自分でも何が気になるのかわからない。葵は数秒だけ逡巡して、口を開く。

「かなり前だけど、僕らが出た後に続いて出発した馬車があったんだ」

「何?」

 葵が軽く笑いながら言うのに対し、アレクサンダーは僅かに表情を強張らせた。そして、向かい合って座っていたのを静かに移動して、葵の隣に陣取る。それから顔をあまり動かさないようにして、後部の窓から外を覗った。

「あ、見たのは一回だけだけど、なんか気になってさ」

「………………」

 葵が深刻な話ではないと言うと、アレクサンダーはしばし考え込む仕草をしてから、顔を上げる。

「アオイ、他に気になることがあったら、遠慮なく言ってくれ。ただ、アオイ自身が何度も確認するような挙動だけは避けて欲しい。相手の目にも止まりやすくなる」

「あ、うん。……言われてみれば、そうだね。ゴメン」

 今は車中だが、それ以外で移動中に何度も後方を振り返ったりすれば、怪しいことこの上ない。アレクサンダーの仕事を鑑みれば、葵の行動は危険でもあるのだろう。

 葵が謝ると、アレクサンダーは葵の肩を抱き寄せ、軽く頬にキスをした。

「謝ることはない。アオイは俺より勘が鋭いから、頼りにしている。その代わり、荒事は俺に任せてくれ」

「……うん」

 葵が思わず頬を染めて顔を伏せると、アレクサンダーが軽く噴き出す。途端に葵は肩を怒らせた。

「アレックス!」

 赤い顔のままで怒鳴ると、アレクサンダーは笑いを収め、しかし頬を緩ませたままで言って来た。

「こういう風に、誰かと楽しく旅をしたのは久しぶりだ。仕事で行くのが残念なくらいだ。その内、休暇での旅行も行こう」

「………………」

 アレクサンダーの台詞にそれ以上怒ることは出来ず、葵はただ頷いた。


 二・三時間ごとの休憩を挟みはしたものの、特にトラブルもなく順調に進み、空が赤くなり始めた辺りで馬車が徐々にスピードを落とす。

 中央に舗装された道が走る森へと入ると、やがて開けた場所で馬車が止まった。

「ここで食事と仮眠を取って、また移動する。ザックが部屋を取った船は明日の明け方出航だから、夜中にまた出発だ」

「うん」

 頷くと、アレクサンダーが馬車の扉を開け、葵が降りるのをエスコートしてくれる。

 周囲を見渡すと、旅行者が雨風を凌げるように作られた場所らしく、円形に煉瓦の壁と、それに沿って小さくはあるが竈が備えられていた。何故ここで停まるのかと思ったが、場所が理由らしい。

 感嘆の声を上げる葵に、アレクサンダーが軽い伸びをしながら言って来る。

「近くには湖があるが、一人では行かないようにな。俺と御者はともかく、森の中の一人歩きは危険だ」

「わかった」

 葵も軽い屈伸をすると、アレクサンダーが苦笑する。

「見回りも兼ねて、少し散歩するか」

 葵が賛成すると、アレクサンダーは馬車の荷台からマントを引っ張り出して、葵の肩にかけてくれた。そこで気付いたが、ルデノーデリア王国を出た時よりも、かなり暖かくなっている。

 もうすぐ夜の時間帯だからマントは要るが、明日の昼にはそれも不要かもしれない。

 アレクサンダーが御者に馬を頼んでから、脇に細く作られている舗装路を進んだ。湖への道らしいが、水を汲む旅行者の為だろう。

 十分ほど歩くと、そう大きくはないが澄んだ湖が見え、赤い空を映して控え目に輝いている。柵などは勿論ないので、誤って落ちないように距離を取りつつ、二人で湖のぐるりをゆっくりと歩くと、アレクサンダーは切り株を見つけて葵に示した。

 アレクサンダーが切り株に座り、手を引かれてアレクサンダーの膝の上に葵が横向きに座ると、アレクサンダーの腕が葵の腰に回る。

 葵はアレクサンダーの胸元に頭を預けると、ぽつりと言った。

「僕の魔法ってさ、アレックスと離れたら魔法陣なしでは使えないんだね」

 葵の言葉に、アレクサンダーが頷く気配がする。

「そうだな。もしかしたら訓練次第では自在に使えるのかもしれないが、前例がないから少しずつ調べるしかない」

 特に残念そうではないアレクサンダーだが、葵が初めて魔法を使った時の強大さを覚えているだけに、どうしても比べてしまう。念じるだけで思うように出せる魔法は、文字通り『最強』だった。魔法陣を描く時間分のタイムラグが、生死を分ける場合もあるだろうに。

 葵の気分が沈んでいると察したのだろう、アレクサンダーはやや慌てたように続けた。

「あの『罪人』がイレギュラーだっただけで、それまでは俺も一人で何とかなっていたんだ。余程のことがない限り、アオイまで戦いに駆り出されることはない」

「わかってるけどさ……」

 葵が望みすぎだ、ということはわかっている。突然降って湧いた力を、過信しすぎだということも。

 唇を尖らせる葵を見て、アレクサンダーがそっと立ち上がって葵を地面に降ろした。そして、葵の手を取って湖に歩み寄る。

「アレックス?」

 そのまま進めば入水になるのでは、と葵が名を呼ぶと、アレクサンダーは口元を緩めた。途端に、アレクサンダーの髪が銀色に染まる。

 一体何を、と問おうとしたが、その前にアレクサンダーが湖面へ一歩踏み出した。靴底は水面に波紋を生み、しかし彼を水中に引きずり込むこともなく、アレクサンダーをしっかりと支える。

「……風の魔法?」

「ああ。……だがこれは、一人でやったら駄目だぞ。アオイといるから出来ることだ」

 アレクサンダーは悪戯っぽく笑い、歩を進めて葵をやんわりと促す。それに釣られて葵も湖面へ進むと、アレクサンダーと同じく水面に立つことが出来た。

「手を離さないようにな」

「う、うん」

 やや緊張してしまったが、湖の中央へと進む内、それもすぐに消えた。

 いつの間にか真上には輝く月があり、その光を受けてアレクサンダーの銀の髪が更に煌めいている。葵と双頭の蛇アンフィスバエナを共有している状態だからか、彼の双眼は透明な碧に変わっていた。

 僅かな風でアレクサンダーの豊かな髪が揺れて神秘性を増し、誰かが見れば彼を湖を守護する精霊か何かかと思うに違いない。

 湖の中央に到着すると、アレクサンダーは葵と向き合う形に手を握り直し、もう片方の手を葵の腰に回す。

「僕、ダンスは出来ないよ」

「舞踏会じゃない。適当でいいんだ。ほら、手を俺の腕にかけて」

 葵の台詞にアレクサンダーは目を細め、葵が指示通りにアレクサンダーの上腕に手を添えると、葵をリードする形でステップを踏み始めた。

 アレクサンダーに倣うようにして葵も足を動かすと、次第に形式などを気にする意識も薄れ、彷徨っていた視線もアレクサンダーの顔に固定される。彼の嬉しそうな表情に釣られて、葵の口元にも笑みが浮かんだ。

 視界が回るとアレクサンダーの髪が靡き、その髪が月光を周囲に鱗粉のように散らす。湖面にも映るそれは、どんな豪華なシャンデリアよりも輝いているのだろう、と葵は思った。

 十分ほどそうやってダンスを楽しんだだろうか、ゆっくりとアレクサンダーが足を止め、歯を見せる。

「御者に心中と思われそうだ。戻るか」

「……だね」

 葵が笑いながら頷くと、アレクサンダーは身を屈めて葵を抱き上げる。そして、葵が何か言う前に風の魔法で大きく跳躍し、一足飛びで草地へと戻った。

 即座に葵はアレクサンダーの髪を掴み、怒鳴った。

「驚くだろ! 先に言えよ!!」

「痛い痛い痛い」

 葵の怒りに対して、アレクサンダーの顔は緩んだままだ。彼は葵をそっと地面に降ろしてから、葵の前に片膝を着く。

 アレクサンダーは懐から何かを出すと、葵の片手を取って手首にそれを巻いた。

「?」

 思わず小首を傾げてしまったが、細く頑丈な銀の鎖に、いくつもの紅と純白の小さな石が連ねられているブレスレットだと気付くと、アレクサンダーの顔を見る。

「これ、魔石?」

「ああ」

 葵の問いにアレクサンダーは頷き、立ち上がる。

「ルタザールとヘルミルダの魔法を込めた。セパに着いたら、『執行人』だと知られている俺はともかく、アオイが魔法を使えることは出来る限り悟られない方が良い。だから、万一の時はこの魔石で魔法を使うんだ」

「……わかった」

 葵が頷くと、アレクサンダーは続ける。

「魔石を小さく加工しているから、一つにつき一度の魔法しか使えない。それだけは覚えておいてくれ。使い方は、ルタザールかヘルミルダに呼びかければいいだけだ。この魔石が、魔法陣の代わりになってくれる」

「ん……。ありがとう、アレックス」

 葵が礼を言うと、アレクサンダーが微笑んで身を屈め、葵に軽く口付けた。



 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る