第二章/呼声

(1)


 目を覚ますと、目の前には鎖骨があった。

「っ……」

 一瞬息を詰めてしまったが、昨晩はアレクサンダーの部屋で寝たことを思い出し、寝ただけではなく『寝た』ことも思い出すと葵の頬が熱くなった。

 アレクサンダーの腕を枕にしていたので、今更だが腕を痛めてはいけないと身を起こす。そして、改めて眠っているアレクサンダーを見てから、シーツの上に溢れている金糸に目を瞠った。

「!?」

 またも息を止めてから目を擦り、再度目を開く。が、アレクサンダーの髪はいつも通り漆黒だった。見間違えたらしい。もしくは、軽い幻覚か。

 葵は首を振って、もう一度アレクサンダーの隣に横になった。瞼を貝のように閉じている、アレクサンダーの顔を観察する。

 意志の強さがわかる太い眉に、アレクサンダーの芯のように通った鼻梁。眠っている今でも薄い唇は引き締められ、精悍な顔立ちは男でも見惚れるだろう。意外に長い睫毛は乱雑で、櫛で梳けるなら整えたくなる。

 アレクサンダーも葵も衣類を身に着けていないが、寒い季節の早朝でも寒さは感じない。アレクサンダーの高めの体温は、傍にいるだけで伝播するようだ。

 寝息を立てているアレクサンダーの顔に手を伸ばし、指先で唇に触れ、それから頬に掌を当てる。

 眠っていても完璧に思える男が、葵を伴侶として認めている事実が、未だに信じられない。

 『執行人』として、召喚獣『双頭の蛇アンフィスバエナ』の力を引き出すのに、葵の存在が必要だからかと思ったこともあるが、葵がこの世界に喚ばれた理由を知る前から、アレクサンダーは葵への好意を見せていたのだから、それは違うだろう。

 それに、アレクサンダーはそういう理由で、好かない者を好いているように嘘をつき、傍に置く様な人間ではない。そこは疑ってはいけないだろう。

 葵はアレクサンダーの頬からそっと首筋に掌を移動させてから、身を寄せて胸板に頬を触れさせた。――が、聞こえて来る心音がやけに早い。

「………………」

 顔を引き、アレクサンダーの顔をじっと見つめていると、視線が刺さったのかアレクサンダーの頬に朱が差し、口元に徐々に震えが走る。

 葵は半眼になり、アレクサンダーの長い髪をぐいと引っ張った。

「痛い!」

「寝たふりするからだ」

 葵が低い声を出すと、アレクサンダーは途端に左右で色の違う目を開けて、慌てたように抑えた声ながらも叫んだ。

「ふりはしてない! 途中で起きただけだ!」

「だから途中まで寝てて、途中から寝たふりだったんだろ?」

 葵が目を細めて追及すると、アレクサンダーは汗を流しながら葵から目を逸らした。それでもじっとアレクサンダーの顔を凝視し続けると。それから十秒後、アレクサンダーはやっと観念して頷いた。


 アレクサンダーが色々と出張の準備を進める傍ら、葵は一人馬車に乗って町へ向かい、茉莉が働く店へと赴いた。

 彼女の昼の休憩時間に被るように行き、町中のどこかで昼食を一緒に食べようと算段を立てていたのだが、茉莉にはパン屋のイートインコーナーで食べようと誘われた。

 それを断る理由もないので、茉莉が考案した(というか元の世界から輸入した)総菜パンをいくつかとジュースを買い、外のテーブルに茉莉と向かい合う。

 茉莉とは比較的付き合いが長いので、葵に悩みごとがあることは即座に悟られた。

「今度の旅行、不安なの?」

「そりゃ少しは。けどまあ、アレックスがいるから大丈夫だと思う」

 言うと、茉莉は半眼でジュースをストローで思い切り吸い込んだ。そして、豪快に焼きそばパンを食べながら、ぼやく。

「あーあ。私も恋人作ろうかなー」

「茉莉ちゃんなら、良い人見つかるよ」

 葵もカレーパンを食べながら笑って返すが、実際茉莉なら引く手数多だろう。元の世界では色々と面倒事があり、茉莉は若干男嫌いの領域に足を踏み入れていたが、アレクサンダーには心を許している辺り、完全に拒絶している訳ではない。

 ふと、思いついて言う。

「……ザックさんとか、どう思ってる? あの人、茉莉ちゃんを気に入ってるよね」

「それは痛いほど伝わって来てるけど、無理だわー」

「無理なんだ」

 即答する茉莉に苦笑するが、ここでザカリエルはお買い得だから手を伸ばすべきだ、とは言えない。葵から見てもザカリエルは好漢だが、茉莉から見ればそうとは限らないのだ。

 葵の表情から、また何かを察したらしい。茉莉は片手を振って笑って来る。

「私も、ザックさんは悪い人じゃないと思うよ。っていうか悪ぶってるだけで、なんだかんだで周囲の人を気遣ってるのも分かる。けど……そこまでは考えられない」

「うん」

 笑いつつも目を伏せる茉莉に、彼女は彼女で色々と考えているらしいと察した。ザカリエルの性格云々だけではなく、彼が皇太子殿下ということもあるのだろう。例え友人としてでも、近寄り難い立場ではある。

 次に茉莉に会えるのは旅行から帰った後となるので、明るい話題をと思い、葵は話を変えた。

「何かお土産のリクエストとか、ない? お菓子とかアクセサリーとか……暑い国らしいから、特産品があるかも」

 言うと、茉莉はにこりと笑った。

「初めての国外旅行なんだから、今回はアレックスと楽しむことだけ考えてよ。私のことは次の機会でいいから。帰って来たら、話を聞かせてね」

「……うん」

 茉莉の気遣いに素直に頷いたところで、声がかけられる。

「アオイ?」

「?」

 後方から名を呼ばれたので振り向くと、見覚えのある宝石色の髪と瞳が見えた。

「テディさん。こんにちは」

「セオドアだっての」

 渋面になりながら両手を腰に当てるセオドアに笑い、紅玉ルビー色の髪が映える、紺色の隊服を身に着けているのを見て、小首を傾げる。

「任務中ですか?」

 問うと、セオドアは空いている席に腰を降ろし、手に持っていた紙袋を掲げて笑う。パン屋のロゴが入っているので、葵達と同じく、茉莉の働いている店で買ったらしい。

「任務中だが、今は昼飯」

 言ってから、彼は茉莉に目を向けて片手を軽く挙げた。

「よう、元気か?」

「はい、お陰様で」

 笑いながらそんなやり取りをする二人を交互に見て、彼らは接点があまりなかったはずだが、と思っていると、茉莉から説明してくれた。

「テディさん、最近うちの店にパンを買いに来てくれてるの。それだけじゃなくて、この間助けて貰っちゃって……」

「何かあったの?」

 苦笑する茉莉だが、元の世界でも見た表情だと気付く。実際茉莉は、聞いた覚えのある説明を続けた。

「……お客さんの中に一人、しつこい人がいて……店の外で待ち伏せされたところを、テディさんに助けられたんだ」

「そう……」

 茉莉が男を苦手としている理由が、決して少なくはないこういう類の出来事だ。

 元の世界では命の危険とまではいかなかったが、犯罪行為すれすれの被害に遭ったこともある。葵は助けになりたかったが、実際出来ることは少なく、歯噛みする思いを幾度も味わった。

 セオドアの様子から見て、その場しのぎの中途半端な助けではなかったようだし、騎士が釘を刺したなら、相手も流石に諦めただろう。

「テディさん、有難うございます」

 葵からも礼を言うと、セオドアは頬を染めつつも唇を尖らせた。

「いい加減その呼び方止めろ」

「でも、『テディ』の方が可愛いじゃないですか」

「うん。愛嬌があって似合ってます。アレックスもそう呼んでるんですよね?」

 葵と茉莉が畳みかけるように言うと、セオドアは半眼になる。

「まあ、お前らはアレクサンダー様の友人だから、その呼び方で許してやるよ。敬語もいらねーから」

 渋々ながらの許可に、葵と茉莉は笑みを深めた。


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