第8話

 畏れながら、うちの皇子の食欲はそれはそれは人並外れ見事なものであらせられる。

 一度箸をつけたら、なぜかこちらまで誇らしくなるような勢いで一気呵成に掻き込まれる。上品な所作かはさておいて、惚れ惚れとするようなその様は見ているだけで晴れがましい気持ちすら起こさせる。見ているだけで心酔させるとか、さすが我が皇子である。

 そんな皇子であるが、俺の知る限りでただ一度だけ、食事の手を止められたことがあられた。一昨年の新嘗祭の折のことだ。

 新嘗祭は宮中の年中行事の中でも最も格式が高い祭礼で、その日は各地から集められた多くの伶人が歌舞音曲に合わせて様々な芸能を披露していた。神事の舞が間断なく奉納される中、楽人や舞手たちもひっきりなしに裏方を出入りしていた。出演者が入れ替わるとはいえ、長い舞台は腹も減るし体力も使う。自由に食えるように握り飯と汁を用意しておいたら大変喜ばれた。伶人たちは色とりどりの様々な装束を纏っているので、貴賓席から抜け出してきた盛装姿の皇子もさほど違和感がなかったのだ。

 我が皇子は、八十余りと言われる今上の子女の中でも水際立った風情を湛えておられる。畏怖を感じさせるほど容姿端麗にして、顔貌きらきらしく、かつ威風堂々たる立ち居振る舞いが身についた品行方正な貴公子であらせられるが、惜しむらくは畏まった場所で長時間に渡りもっともらしげな顔をしていることをこの上なく不得手とされていた。宴席に連なることを許された今上の側近や高位の婦人方の衆目を注がれる中、酒とお上品なお膳を運ばれても、ほぼほぼ喉を通らなかったらしい。まあ、かつてそれで毒を盛られたことがあるのだから無理もあるまい。

 逃げ込むように俺の懐に潜り込んできた我が皇子は、首や髪に巻いた珠金もそのままで、動くたびに風に遊ぶ珠簾のような音がさらさらと鳴った。ともあれ何か食いたいと腹を減らした雛鳥のように口を開けるので、賄いの握り飯を渡したら、そのままの勢いで齧り付いてうまうまと頬張った。

 その瞬間、しゃらりと鈴の音が響いた気がした。それはもしかしたら気のせいだったかもしれないが、空気を響かせる何かが過ぎった。

 ふと見れば、皇子は握り飯を掴んだ手を膝の上に落として、呆然と目を見開いていた。食事時に皇子が食物以外を見つめるのは、少なくとも俺の知る限り初めてのことだった。

 まるで時が止まっているようだった。美しく装った舞姫が目の前を通り過ぎるまで、皇子は咀嚼するのも忘れてじっとその姿を見つめていたのだった。



 尾張に辿り着いた頃には、既に秋も深まっていた。

 伊勢からの道中、鈴鹿峠から見下ろせば、連なる山々が陽光に煌めいて実に見事な紅葉だった。山道とはいえ伊勢までの伊賀越えに比べれば幾ばくかはマシである。一同、旅に足も慣れてきて、景色を楽しむ余裕もできていた。

 本当は能褒野の辺りで従軍官員と落ち合う予定だった。当地を拠点とする穂積忍山という名の豪族は、神降ろしを得意とする巫覡の一族で、父祖の代から宮中で重大な託宣を降ろしたこともあるという。未踏の地で神聖性のある権威は時に戈剣よりも強い武器となる。特に実績のある彼は適任だと思われたが、年齢を理由に辞退された。

 「腰をやってしまったとのこと」

 「ああそれは……お気の毒に」

 大伴武日と吉備武彦の言葉尻には労りが滲み出ていた。この二人より一回りほど年嵩という穂積忍山は、今上の信頼も篤く、重要な祭礼で舞を奉納することが少なくない。俺も裏方として目にしたことがあるが、普段は痩せた地味なおじさんといった風情にも関わらず、ひとたび舞台に立てば年齢を感じさせない並々ならぬ旋舞と跳躍に目を奪われた。朗々と響き渡る声に厳かな言葉撰びで下される託宣は、あまり信心深くない俺ですら感じ入るものがあった。しかしあれほどの技を極めていれば、身体も磨り減るに違いない。

 ただ、宮中に忠義を尽くす穂積押山は、このたびの遠征への打診をこの上ない誉れと受け取ってくれた。自らの従軍は困難としながらも、信頼できる代役を立てると申し出た。託宣と舞の腕前が担保されているということで、こちらにとっては正直言ってかなりありがたい話だ。ただ手配に多少時間がかかるため、遠征軍の進路を辿りながら追って合流するとの話だった。

 「では今のところ旅程通りですので、問題はありませんね。いずれどこかで合流できるでしょう」

 さて、山また山を乗り越えてようやく平地が見えてきた。尾張の国造邸は海に面した台地にある。揖保川の河口まで来ると、既に多くの出迎え船が待ち構えていた。内海に面した場所柄もあって、贅を凝らした船が眩い。

 「建稲種、息災であったか」

 「我が皇子の御健勝をお慶び申し上げます」

 尾張国造の建稲種は皇子より幾らか年上の、まだ若い男だった。浅黒く日に焼けた肌をした、血気盛んな風情の好男子だ。

 「お越しを今か今かと待ち侘びておりました。さあ、どうぞ」

 船団は岸に沿って威容を見せつけながら渡っていく。舳先で皇子にあれこれと土地の様子を紹介していた建稲種は、ふとそわそわとした調子で隣の船に目を向けた。船縁に犬養の姿があり、その両脇から犬がもふもふとした顔を突き出している。

 もしや無類の犬好きなのだろうか、といぶかしむ俺を尻目に、皇子がにこりと微笑んだ。

 「そう言えば建稲種も犬養部であったか」

 「うちは若犬養部です。父の代で取り立てていただきましたが、四道将軍の補佐として吉備に派遣された県犬養部に比べると家格は一段下がります」

 ほう。犬養って気さくな割に何となく威厳がある気がしたが、実際いいところの出自なのか。何となく納得。

 「名を上げた者を各地に派遣して、名門が育つのを阻害するのが大和のやり方だからな。お前も中央から出されたのは、それだけ買われていると心得よ」

 「恐悦至極にございます」

 皇子は時々そういう言い回しをする。中枢から弾き出された豪族に、詭弁と感じさせないその言葉は、多分本心だ。皇子は聡明で冷静だが、多分あまり大和のことが好きではないのだろう。やむを得ない、一番割を食わされているのは他ならぬ本人だ。大和では皇子と建稲種はそこまで深い付き合いをしていた訳ではないようだが、それでも何か彼も気づいたかもしれない。

 金波銀波の煌めく岸辺に接岸し、国造邸に招かれた。若い国造に似つかわしい、初々しい白木の邸宅だった。すぐさま招き入れられて歓待を受ける。

 広間には贅を凝らした食材が並んでいた。主に海老。鱠切りの伊勢海老に、塩を振って焼いた大海老に、揚げ干しにした小海老に、何なら醬までアミエビだ。肉もあるし魚もあるのだが、火を通して真っ赤になった海老類はとにかく目を引く。食文化だろうか、それとも建稲種の食の好みだろうか。イマイチこちらの習慣を知らないので判然としない。

 尾張国造邸でも毒見役を用意しているが、形式上、皇子の側近として俺が務めることになる。まあ、元々建稲種の身辺調査は大伴武日が済ませており、皇子との関係は至って良好、どころか東征に関しては得する部分しかないということが明らかになっている。まあそうだろう、尾張は東国への足掛かりだ。東国支配が強まれば影響力も弥益すことになる。だから毒を盛られる可能性はそもそも低い。俺もそこは大して気にしていない。

 まずはアミエビの醤。海産物を使った熟成調味の類は管理が大変だが、鮮度も良好。既に期待度が高い。大海老小海老共に臭気もなく、甘みが強い。多分漁師が張り切って取ってきたのだろう。上物だ。

 一番気になるのは鱠切りの伊勢海老だ。生の海産物はただでさえ当たりやすいので注意が必要。とはいえ身の捌き方からは手際の良さが伺える。殻の表に身が触れると食中りを起こす場合があるが、膳夫はそれをわかって調理しているのだろう。雑味のない新鮮な海老の甘みが素晴らしい。そして出された酒は濁りが少なく、やや甘口で口当たりはすっきりしている。醸造のときに失敗したら毒を醸すことがあるが、雑味もない上等な口当たりに野暮な懸念はなさそうだ。

 ……皇子。こら皇子。そんな羨ましげな顔をしない。俺のこれは、あくまでお仕事ですからね。

 そう言えば伊勢を出て少し経った頃、弟彦が軽い痒疹を出したことがある。何かにかぶれたのかもしれないが、直前に弟彦は海辺で漁師にもらった甘海老をつまみ食いしていた。火を通せば問題ない程度だろうが、控えるのに越したことはない。

 「念のため、弟彦殿は膾と醤をお控えください。あとはどうぞ存分に」

 宴は和やかなものだった。皇子と建稲種は親しく言葉を交わし、当地の重臣と思われる人々も次々と目通りに参上する。尾張国造に命じられたのは日が浅いとはいえ、元はと言えば古い氏族でもあるらしい。系譜が近い犬養はいつの間にか上座に近いところに連れてこられて些か居心地が悪そうだ。あと弟彦は酒を食らうや真っ赤になって寝てしまった。

 ふと、建稲種がそわそわとしているのが目に付いた。この人は考えていることが割とすぐに顔に出るらしい。戸口の方に気を遣っているので何事かなと思って目を向けると、ふと軽い足音を立てて一人の女人が入ってきた。柔らかなそうな髪の毛を揺れる髷に結い上げているが、面差しはほんの少女だ。目鼻は建稲種に似ていてくっきりとしているが、篝火でもわかるほど色が白く、ひんやりと涼しげな無表情だ。

 「宮簀。皇子の御前だぞ」

 建稲種に言われて、少女はふと微笑んでみせた。感情のこもっていない作り笑いがいっそ清々しい。

 「ほう」

 皇子は素早く意図を汲んで、にっこりと微笑んだ。こちらの笑みはいっそ艶やかだ。さすがうちの皇子は作り笑いすら華々しい。

 「そなた、名を宮簀媛と?」

 「はい。尾張国造、建稲種の妹にございます」

 涼しげで利発そうな声をしている。見れば既に作り笑いは顔から消え失せていた。元々感情をあまり顔に出さない性分なのかもしれない。

 建稲種はやや早口に皇子に語る。

 「我が妹でございます。どうか滞在中は、皇子の身の回りのお世話をこちらの宮簀にお申し付けいただければと存じます」

 「ふむ」

 皇子は盃を口元に当てたまま、ちらりと吉備武彦の方に視線をくれる。歓待を受けつつも皇子の様子に気を配っていた吉備武彦は、優雅な笑みのままさり気なく頷いてみせる。そういやこの人も皇子の妃の父だった。建稲種、もしかしたら知らなかったのかもしれない。

 次に皇子が視線をくれるのは大伴武日。こちらは大と稗田に何かを教えるのに夢中になっていて気づいていない。と言うか、そもそもこの事態も想定の範囲なのだろう。意に介す素振りもない。

 少し考える仕草をした後、皇子は盃をくいと煽ると宮簀媛に差し出した。一瞬だけ宮簀媛の目尻に朱色が散る。付き添いの侍女から酒器を受け取ると、媛は優雅な仕草でにじり寄った。つまるところ、このまま宮簀媛は皇子の妃になるということらしい。尾張とのつながりを深めておくのは、東征の中でも役立つに違いない。誰も異論はあるまい。

 並々と注がれた盃を皇子が口に運ぼうとした、その瞬間だった。

 「御館様に申し上げます」

 ふと裏口から伝令のものが飛び込んできて、建稲種に耳打ちをした。報告を耳にした彼は眉間を微かに寄せ、大伴武日か吉備武彦を招こうとする。それに気づいた皇子が視線を向けたので、一瞬の躊躇の後、建稲種が皇子の耳元でささやいた。

 皇子が表情を取り落し、盃が手の中から滑り落ちる。宮簀媛は慌てることもなく手巾を取り出して皇子の濡れた裾を拭う。

 「何事かございましたか?」

 大伴武日が沈着冷静な声を壇上に投げかける。建稲種は困惑を押し殺した声で、広間中に告げた。

 「今しがた、ご随行の方がご到着されたとのことです。名を、弟橘媛と」



 邸の大門の方には既に人だかりができていた。尾張国造の家人の中に紛れ、皇子一行の関係者として留玉が出迎えに出ている。すらりと丈高い彼は、うちの一行の中で、今夜の宿直だった。

 門の篝火の下で、護衛のような身形の男が二人と、大きな荷物を背負った女が一人佇んでいる。一頻り国造家の者たちに経緯を説明したのだろう、留玉に荷物を引き取られながら女は護衛たちの方を振り向いた。

 「二人とも大儀でした。今夜は宿をお借りなさい。それとこちらが証です」

 女は細い手首に嵌めた釧を外すと、男たちに一つずつ手渡した。見るからに上等そうな貝の輪だが、男の腕には小さそうだ。

 「これを持って後日忍山の邸にお行きなさい。わたしの護衛を務めた報酬を用意してあります」

 なるほど、あの貝釧は割符や手形みたいなものか。一人旅は危険が付き物だが、上手く人を使って合流地点までやってきたというわけだ。

 女は襲をひき被り、遠目で見てもわかるほど埃っぽいが、足元は丈の長い裳を引いている。旅装には見えないが、身分のある女人が旅をするときには敢えて裳を履く場合もあると聞く。正しい身形の女を襲うのは賊の名折れとされる習慣があるからだ。

 ということは、つまりそういうことだろう。

 「遅参誠にお詫び申し上げます。穂積忍山が娘、弟橘にございます。弱輩ながら祀官代として遣わされましてございます」

 暗がりにも関わらず、濡れたような黒髪が篝火を映して輝いている。朗々とした口上は、彼女の父が自信を持って送り出した名代であることを何よりも雄弁に告げていた。

 「……どうして」

 俺のすぐ脇で囁くような声が聞こえた。見れば、歓待を受けていたはずの皇子が顔色を失って佇んでいた。

 皇子だけでない、建稲種も大伴武日も吉備武彦もそれぞれの従者たちも駆けつけてきている。あ、宮簀媛まで。

 旅で汚れた裳裾を土の上に打ち広げ、皇子の眼前に平伏してみせた弟橘媛は、その所作の一つ一つが磨き上げられたように美しかった。大和盆地から離れた忍山の豪族の娘でありながら、優れた舞を高く評価され、幾たびも宮中に招かれていただけのことはある。俺もいつぞや新嘗祭で目にしたことのあるその姿。

 「このたび皇子にお目通りが叶いましたこと、誠に誇らしく存じます」

 ――なぜか鈴の音色が聞こえた気がした。



 宴の席は、たった一人の女が加わったことで見違えるほど彩り豊かなものに変貌した。

 弟橘媛の席は酔いつぶれた弟彦の席に急遽用意され、宴は再会となった。駆けつけ三杯とばかりに見事な所作で盃を煽り、まずは男たちの度肝を抜いた。

 「道中で皇子たちの足取りを見失いうろたえました。でも漁村の皆が建稲種様の船の威容をご存じであられまして、案内を辿りながらこちらへ罷り出でたところでございます」

 「それは申し訳ないことをした。うちの船団で皇子を迎えに上がってしまったのだ」

 「いえ、元々私はよく道を失いますから。本当はもっと早く合流できると思っておりましたのに少しも追いつけずに、供の者に不憫なことをしました」

 埃まみれの服を着替えてきた媛は、皇子よりもやや年嵩で、人目を引く存在感を持っていた。四肢はすらりと長く、艶やかな黒髪はまっすぐで、それを顔の周りに幾筋か残して頭上できっちりと纏めた姿はいっそ凛々しいほどだ。口振りも爽やかで、主の建稲種と快活に会話をする姿は目にも心地よい。

 壇上には皇子、その両脇に武稲種と宮簀媛。そちらをまざまざと眺めた弟橘媛は、不意に首を傾げると鮮やかな笑顔を見せた。

 「それにしても皇子。素晴らしい媛君を娶られましたこと、心より祝福申し上げます」

 顔色を失ったまま呆然としていた皇子が、不意に火を噴くほど真っ赤な顔になった。それを見た弟橘媛は、ますます楽しそうに笑う。

 「尾張国造家の宮簀媛と言えば、我が忍山の地にまで名の届く才媛でございます。またとない良縁を結ばれましたね」

 少し驚いたように宮簀媛が顔を上げた。それは自分の噂がそれなりに広まっていたということか、それとも縁組を露骨に言挙げされたことに驚いたのか。

 その隣で真っ赤な顔をしていた皇子は、しばらく唇を震わせた後、何度か首を振った。

 「……そ、それは弟橘媛の勘違いだろう」

 「皇子?」

 「別に俺は、ま、まだ宮簀媛を娶ったわけではない」

 建稲種は、表情に衝撃を隠さない。片や宮簀媛は、それを聞くなり全ての感情を顔から消し去ってしまった。

 あーーーーーー皇子、それは駄目。それは絶対駄目な奴。

 「ああ、酔ってしまったようだ。俺は休む」

 皇子はその場に立ち上がる。その傍に付き従おうとした宮簀媛を素早く手で制し、皇子は艶やかな作り笑いを見せた。

 「構わん。一人にしてくれ」

 追い縋ることもできず、その場に立ち尽くす宮簀媛。可哀想に、真っ白な無表情だ。

 どうしたものか、と一瞬の思案の隙に。

 「弟橘媛、皇子をからかってはいけませんよ。宮簀媛が聡明にして優れた媛なのは事実ですが、そうもあからさまに言挙げされては皇子も立つ瀬がございません」

 不意に長閑な声が響いた。一瞬皇子と見紛うほど眩い笑顔を見せているのは吉備武彦だ。この人もさすが皇子の血縁だけあって顔がいい。

 「我らが大将ながらうちの皇子は、どうも純情なところがおありでしてね。揶揄われてむきになってしまい、大変な失礼をいたしました。畏れながら伯父として甥の無礼をお詫び申し上げます」

 ひゃあ。幾ら血の繋がりが濃いとはいえ、日嗣にも選ばれんとする皇子を甥と呼ばわるなど、一地方の豪族が口にして許されるような内容ではない。恐る恐る表情を伺えば、盃を片手にくしゃりと浮かべた笑顔は大変人懐こく、なるほど皇子にそっくりだった。酔った勢いで口を滑らせた、という風情に、無表情の宮簀媛の緊張が一瞬だけ緩んだ。

 それを見越した吉備武彦は、煽って空にした盃をひらひらと振りながら弟橘媛に畳みかける。

 「それにしても、弟橘媛こそ大和に名を馳せる舞の名手。妻問いの声も引きも切らぬことでしょう」

 「それは困りましたね、舞の名ばかりを上げたところで、元来人前にお目にかけるようなものではございませんのに」

 弟橘媛は一瞬首を傾げる。顔の周りに垂らした黒髪が頬を撫でるのが不思議と色っぽい。

 「わたしは巫女です。神に仕える身ですから、有夫の身となるつもりはございません」

 ぱちくり、と宮簀媛が瞬く。吉備武彦は穏やかな笑みを崩さない。さては知ってて引き出したな、この狸親父。

 ふと気づけば、大伴武日は建稲種を差し向かいで固めている。その右側には筆と木簡を片手に握った大と、炯々と目を光らせる稗田。

 「ときにこの尾張の地、見れば見るほど謂れのある土地とお見受けいたしました。元々どのような神祀りがなされておられましたか、どうか後学のためにもお伺いしたく」

 皇子を追いかけたいだろう建稲種は、前を大伴武日、左右を大と稗田に固められて逃げられない。渋々といった具合で彼は呟いた。

 「……この宮で祀るのは氷上女神でございます。かつては我らの母、真敷刀女が祭祀をしておりましたが、先ごろ宮簀が祀りの跡目を継ぎました。俺は国造として尾張の地を治める立場にはありますが、正統な後継者は宮簀でございます」

 「ほう、では尾張では今も聖と俗を司る王が両立するのですな。なるほど、言わば大和における斎王が宮簀媛ということですか、それは素晴らしい」

 大伴武日はこれ見よがしに声を張る。それを受けて、吉備武彦が朗らかに述べる。

 「なれば宮簀媛いかがでしょう、この尾張の女神の加護を受けるためにも、どうか弟橘媛の舞をお納めいただくわけには参りませんか」

 上座で固まる宮簀媛、それを気遣わしげに見遣る建稲種。うちのおっさんたちはやることが見え見えの上に強引だ。

 長旅を陸路駆けてきた弟橘媛にいきなり舞を奉納しろとは無茶振りが過ぎる。普通にしんどいだろ、と思ったが、媛は片手に持った盃をぐいっと一口で煽って、ぱたんと手元に伏せる。

 あ、こういう眼をするんだ、と俺は一瞬ぞっとした。さっきまで愛想よく歓談していたはずなのに、あっという間に切り替わっている。

 その熱い眼差しを見て取って、ようやく宮簀媛はこくりと頷いた。

 「承りましてございます。皆様に祝福を授けましょう。支度をいたします」



 回廊を渡り、廂房の方へと行く道を選ばず、裏庭の方を目指す。月明かりが微かに照らす回廊の片隅に、ようやく探していた人影を見つけた。膝を抱えて蹲っているが、向こうも気づいただろうに、さすがに観念したのか逃げ出すことはなかった。

 「……七掬脛」

 「皇子、あれは駄目ですよ」

 本人が一番わかっていることなので深くは言わない。隣にしゃがみこむと、皇子もこくりと頷いた。

 「妃を娶るということは別に他意のあることではない。宮簀媛は尾張を背負って俺の元に嫁ぐことになるわけだし、そこに今更感慨はない。媛のことは他の妃と同じように大切にするだけのことだ」

 そこまではきちんと理解している。元々は聡明な皇子なのだ。

 ただ、と皇子は膝の間に顔を埋めた。理解が追いつかない感情ってのは、得てして厄介なものだ。

 「別に忍山の土地を手に入れる必要はないし、優れた祀官を穢したいわけでも、誰かに見せつけたい訳でもないのに。別に妃にする理由なんかどこにもないのに」

 「いつからなんですか?」

 いつぞやの新嘗祭、まだ皇子は成人前だった。まあでも幼くても恋は恋だ。

 「……初陣の少し前に、媛が閨に来たことがある。俺が神々の加護を得られるようにと、神祇官から送りこまれたのだ。まだ俺が誰も娶ってなかった頃の話だ」

 ああ、と得心する。巫女の中にはそういう役割を果たす者もいるらしいとは聞いたことがある。神に仕える巫女は、臥所を共にする相手にその恩恵を授けるのだと。特定の夫を持たず一夜限りの妻として神の力を分け与える彼女たちは、いわば神の妃だ。

 「――別に大王にはならなくていいから、神になれるならなりたいなと、そのときに思った」

 自分の膝を抱えて悄然と呟く皇子は、年相応のしおらしさでとてつもない壮言をのたもうた。

 「あの媛にとって、俺はたくさんいる男たちの一人だと思う。でも俺が神だったら、媛は誰にも触らせたくない。神託でも何でも下して八重垣の奥に籠んでおく。その代わり他の巫女はいらない、媛だけでいい」

 他には誰にも聞かれたらいけない台詞だ。俺は皇子の頭を抱き寄せてぽんぽんと撫でやった。

 うちの皇子がそこまでの執心を露わにするのは稀なことだ。その一夜で何があったのか、どのような言葉を交わしたのか、暴くのも野暮だろう。

 「まあ、宮簀媛が可哀想ですねー」

 「すまないことをしたと思う。立場を失うようなことをした」

 「賢い子だからそっちは大丈夫です」

 建稲種も宮簀媛のことは可愛がっているし、それ以上にあの媛の聡明さは尾張の国に不可欠なものだろう。別に破談になったとしても、彼女はこの地で必要とされる人物には違いない。ただ賢い分だけ、察してしまったのは可哀想だ。まして皇子に一瞬でも好意を寄せた分だけ。

 皇子は微かに鼻を啜った。

 「俺はどうしたらいいんだろう」

 おもむろに俺は傍らの包みを解いた。竹皮で包んだ握り飯だ。宴の早々にあの騒ぎとなってしまったから、皇子はまだまだ食い足りないはずだ。皇子は少し苦笑して、躊躇いながら手を伸ばした。

 「あ、これ美味い」

 よかった、いつもの皇子だ。

 「何だこれ、普通の飯じゃない。何か味がついてる。すごい美味い」

 「瓜を塩で漬け込んで寝かした漬物です。神饌として宮簀媛が漬けたそうです。それを刻んで飯に混ぜ込みました」

 「何だそれ。それでこんなに美味くなるのか。さすが神の食い物だな」

 「変な酔い方したときって塩気が染みますよね」

 皇子はもくもくと握り飯に齧り付いて、それから食べさしの歯形の辺りをじっと見つめた。人心地ついたのだろう、仄明かりに目を潤ませたまま、皇子は少し考え込む仕草をした。

 「……宮簀媛は娶らないとな。尾張と正式に縁組をしないまま、関わりだけ結びたいとは虫がよすぎる話だ」

 東征をする上で尾張はどうしても地理上の要所だ。いくら戦に行くわけではないと言えども、協力を得ないことには苦戦を禁じ得ない。

 「いいじゃないですか。美味い漬物めいっぱい食わせてもらえますよ」

 わざと冗談めかしてみたが、皇子はしおらしく頷くばかりだった。

 「両道入媛も吉備武媛も山背菊森媛のときも平気だったのに、宮簀媛には悪いことをした」

 あれ、いつの間にか増えてない?

 「それはまあ、これからちゃんと埋め合わせをしましょうね」

 こくりと頷き、残った握り飯をぱくぱくとあっという間に平らげた皇子は、指先に残った塩気をしゃぶっている。その無防備な頭を撫でやって、俺は小さな声で囁いた。

 「弟橘媛の方は、まあゆっくり考えましょうや。どうせこれから共に長旅にあるのですから」

 皇子はようやく顔を上げると、くしゃりと表情を歪めてみせた。不器用なその表情は、ぎりぎり笑顔に見えなくもなかった。

 「――それはむしろ辛いな」



 皇子に付き従って表に戻る。広い中庭には既に明々と篝火が焚かれていた。舞台となる地面には絹畳が広げられて、四つ角に長い竹が据えられており、縄と幣で空間が区切られている。

 貴賓の席として一段高い台座が据えられており、祭主となる宮簀媛と建稲種、そしてもう一席、皇子のものが用意されていた。宮簀媛が指示を飛ばし、宮の者が素早く準備を進めていく。訓練された動きはなかなかのものであった。すっかり皇子が大人しくなったのもあって、たちまちのうちに壇上へと連れ戻される。

 やがて宮簀媛が朗々と祝詞を延べるとともに、伶人たちが持ち場につく。笛の旋律、琴の響き、笙の和音が響く中、鈴の音色が聞こえた気がした。

 舞台袖から姿を現したのは弟橘媛。まるで中空から舞台上に舞い降りたかのように、隙のない仕草だった。やがて裳裾を払い、優雅な旋舞を見せる。袖を宙に打ち上げ、それをくるりと翻し、裳裾を蹴り上げて音もなく優雅に跳躍する。無駄のない洗練された動きの一つ一つが楽の音と完璧に調和する。

 それにしてもこの媛、散々長旅してきた上にあれだけ呑んでるのに、何でこんなに動けるわけ?

 皇子は眩そうに舞台上を見つめている。その眼差しに映る篝火が、焦げそうなほどに熱い。

 不意に宮簀媛が朗々と声を上げた。

 「真幸く 氷上の宮に居坐ます尾張の大神に 畏み畏み白さく」

 楽の音に合わせて、弟橘媛の舞はますます鋭さを増している。篝火でも浮かび上がるほど、その頬を迸る汗が眩い。

 「あをによし大和に坐します 今上第三子日本武尊の 東の国に幸いでまして 悉に山河の荒ぶる神及伏はぬ人等を言向け和平したまはんと まかりもうでたまふ」

 宮簀媛の声は凛と響いて美しい。涼しげな無表情で舞を見つめながら、晴れやかに声を上げる。

 「かけまくも氷上宮に仕え奉るこの宮簀と 亦還り上らむ時に婚ひせむと 期ちぎり定めんとて」

 皇子が、はっと弾かれたように宮簀媛を見遣った。

 「――噂に違わぬ聡明さだな」

 いつの間にか俺の隣にいた大伴武日が、眉根を寄せながら笑ってみせた。

 「あくまで皇子とは婚約ということにしておいてやる。帰りまで待ってやるから、それまでに胆を据えてこい――ふむ、なかなかの口上だ」

 宮簀媛の祝詞が終盤へと差し掛かる。しゃん、と鈴の音色が響いた。弟橘媛の舞に合わせて、その音色は時折鋭く響く。

 皇子は息を呑み、それから再び正面を見据えた。

 一際高い跳躍。

 弟橘媛の裳裾が宙を舞い、そして華のように舞台の上に打ち広げられた。

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