第7話
「これを下った先が伊勢ですね」
上多気の峠道を下りながら、大伴武日が川を示す。榛原から御杖、奥津と超えて多気へと抜ける道はひどい山道ばかりで、久々の平野が見えてきたのを見るとさすがに一行に安堵が広がった。ちなみに、旅の四日目の昼前に稗田が血豆を潰して大伴武日の鞍頭にまたがることになり、その夜の駅宿で大の足を確かめたらこちらも血まみれになっていたので翌朝から吉備武彦の馬に引っ張り上げられることになったのだが、そこまでなっても弱音を吐かないガキどもには正直感服した。
「この道をかつて斎王様は御杖代として女人の足で越えられたのだ」
「大神を背負い、これよりも遥かに長い旅路を渡られた末に、伊勢に辿り着かれたのだ」
名を刻む偉人の業績と我が身を引き比べ、どことなく大と稗田は悔しそうだった。まあ、お姫様とはいえ少しずつ旅の中で慣らしていけば結構な山女におなり遊ばされることもあろう。余談だが、大方の予想通り、弟彦はちょこまかと元気にしている。
「すっげー山道だったな。もうこれで終わりかー」
街道まで降りると後は早かった。道は美しく整えられ、各地からやってきたと思しき荷役が往来している。良港にも恵まれている上に、神宮へは御神饌御神酒の献上が絶え間なく行われているとも聞く。見下ろす平野の川沿いに白砂の敷かれた境界が見えるので、多分そこが目的地だろう。
「本日中には斎王様にもお目通りが叶いますね」
皇子の親征が決まったときに斎王へ先触は出ているが、昨夜、一足先に吉備武彦んところの楽々森がひとっ走り伝令に走っている。あちらも久々の甥に会えるとなると楽しみにしていることだろう。
と、吉備武彦の鞍頭に跨っていた大が居心地悪そうに身動ぎした。
「……そろそろ降ろしてください」
「その足では痛いでしょう」
「このままでは血の臭いが移ります」
しゅん、と大が項垂れる。同時に稗田も小さく肩を竦めた。
「武日様、どうぞお先に行ってください。わたしたちはご神域に入れません」
「そうだな。まあ俺たちは謁見前に潔斎するから、ここで降ろさなくてもよかろう」
ん? と俺が首を傾げると同時に、弟彦が訊ねた。
「どうした。こいつら捨てておくことになったのか?」
弟彦、言い方。
見るからにしおれた風情の大と稗田は、それでもしゃんと背筋を正して述べた。
「伊勢の斎宮は潔斎した者でなければ入れない。血の穢れを負ったものは域内に立ち入ることは許されない」
「血の穢れって、血豆じゃん。山道歩いたら普通じゃね?」
「皇子や賓客であれば大目に見ることもあるかもしれぬが、我々はあくまで随行の身。御神前で礼を失するのは本意ではない」
大伴武日は自分の鞍頭に座っている稗田の頭をぽんぽんと撫でやる。少々この弟子たちは己に厳しすぎるような気もするが、大伴武日の日頃の教育の賜物ということか。
「まあいい。お前らは詰所の中で控えておれ。斎宮様は女人の身、ぞろぞろとお目通りを受けるようなものでもあるまい」
「はい」
馬上を見上げながら思案顔をしていた弟彦が、いきなり蹴躓いた。慌てて俺も手を伸ばしたが間に合わず、盛大にずっこける。いたた、と立ち上がった弟彦はぱんぱんと袴を叩いた。
「ありゃ、俺も留守番決定だな」
弟彦は苦笑しながら掌を掲げてみせた。うっすらと擦りむいたところに血が滲んでいた。
ようやく辿り着いた神宮は、大層広大な敷地を誇っていた。
街道からつながる白砂の広場は、衛士の詰所やら献上品の受取窓口やらで幾つも建物が連なっていて、そこに多くの人々が出入りしていて大層賑わっている。宮中からの使いも折々に使わされるため、彼らの使う行宮が皇子一行のために準備されていた。とはいえ最終目的地は、五十鈴川を隔てた対岸。鎮守の森に背面を守られた、広大な神域におわする斎王の宮である。神域への立ち入りはさすがに人員も限られている。
「本当によいのか」
馬を行宮に繋ぎ、五十鈴川に掛かる橋のたもとで皇子は振り向いた。その両脇には、吉備武彦と大伴武日。禊を済ませて正装に改めると、ただの品のいいおじさんたちも立派な使節に変身した。盛装の皇子は言うにあらず。いつにもましてお美しい。
方や、見送るお留守番組は、なかなかの大所帯になってしまった。血豆を潰した大と稗田、手を擦りむいた弟彦、犬を連れている犬養をはじめとした吉備武彦の従者三名、そして俺。
「七掬脛は別に問題ないだろう」
「やー、俺も毎日魚捌いたりしてますしね。血の穢れが駄目なら俺がダントツでしょう」
しょんぼりとしおたれる皇子を見送って、晴れて俺たちは行宮に戻る。大門をくぐった瞬間、いきなり弟彦が奇声を上げた。
「いぇあーーーやすみだーーーー」
両腕を振り上げていきなり羽を伸ばす弟彦と、隣でこきこきと首を回す楽々森と留玉。お前ら正直者だな。そういうとこ嫌いじゃないぜ。
きょとんとした顔をする大と稗田を尻目に、若者どもはいっそ清々しいほどにのびのびとする。
「もうやだ。偉い人の前に行くのやだー。やすみだー」
「貴人の御前にお目通りするのは同じく貴人にお任せして、伊勢見物でもしましょうか」
「留玉お前元気だな、俺はとりあえず休みたい」
ぽかんとする大と稗田の頭を撫でやりながら、犬養が言った。
「我らの主は寛容な方なのでな、元々不要な随行は省いても構わんと言いつけられておったのだよ。まあ半日か一日か、主のいないところで羽を伸ばせるのは従者にとっては喜ばしいことなのだ」
「でも、斎王様にお目通りできる機会なんて我々にはそうそうないのに」
しょぼんとしおたれる大に向かって楽々森が首を傾げる。
「お目通りといっても俺たち従者は控えの間で待機だからお目にかかれるわけじゃないぞ。直会の相伴には預かれるけど、神宮の飯は珍しいけどそこまで美味いわけじゃないし」
……お前ら、一斉にこっちを見るのはどういう了見だ。
まあいい。ぐずぐず言っていた大と稗田が収まったのはいいことだ。伊勢は海に近いから物珍しい食材も多いだろう。お留守番組のためにちょっとばかり腕を揮っても、うちの皇子は寛恕してくださるに違いない。
まあ、どうせ「後で食わせろ」だろうけど。
行宮は、斎宮に正式参拝するお偉い様方のための控室みたいなもので、手狭だが大体のものが揃っている。厨屋を見れば、こぢんまりとはしているが清潔感がある。頼めば食材も持ってきてもらえるらしいので、願ってもない好待遇だ。
足が血豆だらけの大と稗田は部屋で大人しくしている。伝令でくたびれた楽々森は昼寝、留玉と弟彦はどこかに遊びに出かけていて、犬養は犬の散歩に行った。いや、山道歩いた後だろ、と思わないではなかったが、犬どもはとりあえず元気だった。
晩飯何にしようかな、などと考えながら裏手に出ると、いい具合に五十鈴川が流れていて気持ちがいい。川べりに降りて水を掬っていると、ふと視線を感じた。
「……」
見ると、川原の玉砂利の上にしゃがみ込んでいる人影があった。こっちを見ていたので、めっちゃ目が合う。
「……どうも」
ぺこりと一応会釈したが、相手はまんじりともしない。
白い衣は巫女の装束に似ているが、勾玉や菅玉を連ねた飾りを首から下げていて、垂らした長い黒髪に垂れ飾りのついた鉢巻を締めている。顔立ちは無邪気で、若い、というか稚い感じのする娘だった。見たところ、皇子よりちょっと若いくらいだろうか。
厄介なものに遭遇してしまった、というのが第一印象だった。どう見てもこのお媛様、皇子と同類の気配がする。斎王は皇子の叔母らしいから、この子はその次くらいの地位なんだろうか、とりあえず全身から高貴な感じがにじみ出ている。
「ええと……」
お媛様はじっと俺を見た後、俺の来た方に目を向けた。不審がってはいないが、不思議そうな顔をしているので、慌てて補足した。
「……こちらが禁足地とは知らず失礼いたしました。行宮の者ですが、厨屋からこちらに繋がっておりまして」
「厨屋……」
お媛様が小さく呟いた瞬間。
くぅ、と可愛らしい腹の虫の音が響いた。
間違いない、このお媛様は皇子の同類だ。正体は全然わからんけど。
厨屋に戻ってとりあえず食えそうなものを探す。不思議そうな顔でとぼとぼとお媛様はついてきた。あー、見ず知らずのこの子の側近に告ぐ、誰にでもついていっちゃ駄目だとしつけておきなさい。
塩漬けの肉が出てきたので、ちょっと炒めて料理しようかと思ったら、お媛様がたじろいだ。
「どうしました。血なまぐさいのは苦手ですか?」
「いえ……」
ちっこいお媛様は肩をすぼめる。
「けつものは、国津神の神使のことが多くて。以前鹿や猪をいただいた後、少々もめてしまったことがある」
ほほう、と俺は口元を掌で覆う。なるほど御神前に奉職するとそういうところにも気を遣うものなのか。
「それなら海のものなら大丈夫ですか?」
「いろくずは、弘原海の神使が多い。それに神前に供えると、目がぎょろぎょろして恐ろしくて」
あー、と俺は額に手を当てる。お媛様はどうやらなかなかのビビり……失礼。思慮深く慎重なご気質であられるらしい。
頭を抱えている俺の仕草を見て、慌ててお媛様は早口に言った。
「あ、でも鯛は時々奉納されるし干物なら大丈夫だ。それに神宮の中は広いから、米も蔬菜も塩も大体は中で賄える」
なるほど、と俺も頷く。山の方から遠目で見たときに田圃のようなものが見えた気がしたが、どうやら神域内は基本的に自給自足なのだろう。まあ潔斎するにもそれが間違いはないだろう。
ただ、肉類が駄目、魚も苦手というのは少々困った。まあ蔬菜と穀物で食事は成立するが、このちびっちゃいお媛様にはもう少し滋養のあるものをお召し上がりいただきたい。
んーと悩んでいると、ふとお媛様はちらちらとこちらに視線を向けた。そして小さな声で呟く。
「……あ、
「あー、美味いですよね。確かに伊勢だとよく取れますよね」
お媛様はこくこくと何度も頷いた。これはあれだな、好物と見た。
「普段はどうやってお召し上がりですか?」
「普段と言っても出てくるのは大きな祭のときくらいだが……刻んで鱠にすることが多い」
あれ、と俺は首を傾げてみる。あわびの膾とか珍しいな。生でも食感があるから確かに鱠も美味しいだろうが、他に食べ方はありそうなものだが。
「焼いたり煮たりすることは?」
「……前に一度だけやってもらったが、今は料理のできる者がいないので……」
人手不足ということか。気苦労の多そうなお媛様だ。もじもじする小さな肩を見やりながら、俺はふと訊ねてみた。
「僭越ながら、うちの賄いでもよろしければお召し上がりになられますか? お口に合うかはわかりませんが」
顔を上げたお媛様は、ぱあっと破顔する。気品のある面差しだが、まるで陽光みたいな笑顔だった。
大方、都にいるときの皇子と同じような状況なのだろう。何者かはわからないが、彼女が高位なのは間違いない。制約の多い中、しかも多くの人の手を経て運ばれてくる食事は毎日冷え切ったものだろう。大したものを用意することもできないが、温かいだけで飯は格段に上手くなる。
あ、とお媛様は何か思い出したように外へと飛び出していく。大丈夫か、と思っていたら、物凄い勢いで駆け戻ってきた。手には何やら小さな袋を握り締めている。
「すまないが、火を起こすときはこれを使ってほしい」
見れば中身は火打石だった。小さいが白くてつるりと形のいい玉髄と、これまた小さいが形の整った火打金だ。
「随分上等なものですね」
「行宮で忌火を熾すのに使ったものだ。今はもう使っていないので、持ち出しても大丈夫だ」
わくわくとした顔でこちらを見上げてくる。ほほう、これはまた大人しそうな見た目によらず、とんだ跳ねっかえりのお媛様だ。
「竈はきちんと清めてあるから自由に使ってくれて構わない。あと、何か不自由はないか?」
「大丈夫ですよ。まあお時間かかりますので、適当な頃合いにお越しください」
叱られない程度に居場所に戻って顔を出しておいて、工作をしておいてもらえたらありがたい。そのくらいの意図なのだが、お媛様は大層切なげなお顔をなされる。ん、高貴な方のこういう表情、割と見覚えがある気がする。
こめかみをぽりぽりと掻きながら、念のために俺は補足する。
「……別に見ててくださってもいいですけど」
陽光のような笑顔がますます輝いた。
ひとっぱしり市場に行って戻ってみたら、お媛様はちょこんといい子で待っていた。幻の類でもなかったらしい、と肩を落としながら俺は下拵えを始める。
さて、あわびである。さすが名産地だけあって、なかなかの大きさのものが手に入った。とは言え高級品なので、足りない分はトコブシで補う。大丈夫、俺もそこまで味の違いがあるとは思わない。
実はあわび、宮中ではそこそこよくお目にかかる食材なので馴染みはある。しっかり擦り洗いをして汚れを落としたら、殻に匙を差し込んで貝柱を切り、身を剥がす。外套とわたを外し、硬い口と砂溜まりをちょいと切り落とす。新鮮なので肝も美味いだろう。
新鮮な身をついついついと薄く切って、醤の上澄みに肝を和えたつけだれを添える。
「鱠っていうか、刺身ですけど」
「いいのか?」
すぐ傍で齧り付きで見られていたら、さすがに長々と待たせるのも気が引ける。まずは突き出しだ。
お媛様はわくわくと箸を取り、ぱくりと口に運ぶ。そしてすぐに顔を抑えて悶絶し始めた。
「美味だ、美味だ、美味だ。どうしてだ。同じ生なのに普段の御饌と全然違う」
「多分、普段のお食事は塩で締めてあるんですね。神宮では塩がふんだんに使えるんでしょうが、あれをすると日持ちがよくなる半面、身が固くなるんです。だから細かく切って鱠にしているんでしょうね」
お媛様の口ぶりからも、斎宮の膳夫の工夫は見て取れる。神饌は神前に供えた後、直会で人の口に入るから、少しでも持つように貴重な塩を使って締めているのだろう。むしろ伝統や格式が味よりも重んじられ、忌火や食材など制約が多い中、よく工夫を凝らしている。毎日作る飯は無理がなく、きちんと続けられるものでないといけない。
俺の作る飯は、そういうものとは性質が違う。俺たちにとっては旅の飯、その場でとれた食材を適当に組み合わせて作る代物で、お媛様にとっては非日常だ。だからこそ余計に美味く感じられるのはあるだろう。楽しいと美味いは紙一重の感情だ。
お次は米の仕込みだ。大きいあわびも美味いが、トコブシだって悪くない。米を研いで、火に直接かけられる丈夫な土器の中に入れる。魚醤と刻み生姜を入れて、甘くなりすぎないようにすこーしだけ酒を入れる。薄く刻んだトコブシを入れて軽く混ぜると竈にかける。まあ米の火加減は大体いつもとそう変わらない。
借りた火打ち石は、とても簡単に火がついた。さすが上質なものだ、と思いながらお媛様に返すと、受け取りながら彼女は眼を輝かせた。
「すごいな、手際がいい」
「ただの慣れですよ。男所帯の食い扶持を養うのは早さが勝負ですから」
「そなたは名のある膳夫とみた」
「そんなことはありません」
大膳司のお偉方は御前で魚介を捌くこともあるし、刀で身を卸していく所作は何だか芸能でも見ている気分になる。あれはまあ見せるための料理だし、何なら毒見も兼ねているので、割と理には適っている。ついでに言えば魚介の類、意外と慣れたら捌くのは容易いが、知らない人は目の前で見るとびっくりするらしい。
余談だが、魚は細かい小骨の処理もあって面倒だが、貝類は実に歩留まりがいいので俺は大好きだ。時期によって毒が出たりすることもあるし、元々食べられない種類のものもあるが、そこらへんは食用きのこを見極めるのと大体似ている。危ない橋を渡らない、その心得が一番大切だ。
大きめのあわびを剥がして、浅く切れ目を入れる。良質な油があったので、浅く熱した鉄鍋に馴染ませると、そこに潰した大蒜を入れて香りをつける。あわびを入れて軽く表裏を焼いたら、酒の上澄みを回し入れて蓋をする。
大体火が通ったら、魚醤と酒を合わせ、潰したあわびの肝を入れて混ぜたものを回し入れる。油となじませてとろみがついたら、まあ完成でいいだろう。食べ応えのある厚みに切って、たれをかければ、皇子が好きな煎りあわびだ。
完成してから、しまった、と思い至る。うちの皇子はがっつりこってり濃い味が好きだが、女の子には大蒜は少々味がきついかもしれない。そんなことを思いながら隣を見ると、全く杞憂だったらしい。お媛様の目力が強い。
お上品な箸使いでお召し上がりいただいたお媛様、本日一番のいい笑顔。
「わたしの食べたかったものはこれだ。食べたらすぐにわかった。柔らかいのに味が濃くて、鰒の味がしっかり引き立っている。わたしの求めていた味はこれだ」
「あんまり食べ過ぎたらだめですよ、大蒜は臭いが残りますんでばれちゃいます」
「わたしは大蒜は平気だ。一部の国津神が嫌うから、遠慮して神饌に出さないだけだ」
嬉しそうにぱくついていたお媛様は、ふと箸を止める。そして少しだけ眉根を寄せた。
「ああ、でもそうか。宮中にはこの臭いが苦手な者もいるのだな。わたしが臭うと仕える者が気の毒だった」
「生の棗で臭い消しになりますよ」
「それならよかった」
罪悪感は一発で吹っ飛んだらしい。とはいえこの辺りの棗は終わってそうなので、後で市場に調達しに行ってこよう。
そうしている間に、飯が炊きあがった。火を止めて蒸らした後、飯椀にてんこ盛りによそうと、お媛様はまばゆい笑顔で受け取った。この笑顔、もう間違いなくうちの皇子の同類。どう見ても他人とは思えない。
「んーーーーーーーーーー」
頬張ったまま、お媛様悶絶。一口食べるごとに、背中の方で何かキラキラ輝いている。気のせいかな、とか喜びの表現かな、と思っていたけど、ただの心象風景は本来目視できない現象だ。でもそれを認めたら別の物事まで認めないといけなくなるので、敢えて見て見ぬふりを決め込むことにする。
「生姜がこんなに合うとは思わなかった。米が、とにかく米が美味い。鰒の旨味を吸い込んでしまって大変なことになっている。神田の稲に鰒を放ったら実る稲穂がこの味にならないだろうか」
「それは絶対やめましょうね」
あとこれあわびじゃなくてトコブシだしね。
一口ごとに周りの空気を輝かせながら感激するお媛様。お代わりを散々繰り返した頃、ふと見計らったように裏手の方から声が聞こえた。
「もし、主上。そちらにおられるのではございませんか」
ぴょんっとお媛様の膝が跳ねる。見ると、勝手口から人影が覗いていた。見れば凄まじい美人だ。こちらも巫女のような恰好をしているが、隠しきれない色気が胸元から溢れ出して滴り落ちている感じ。
「……う」
「これは、主上が甚だお世話になりました」
美女はしゃなりと進み出て艶やかに微笑むと、鈴を振るような美声で告げた。あー、これはあれだ、ご褒美ってやつかな。
「
「主上の御身はさほど心配しておりませんが、どなたかにご厄介をおかけではないかと案じておりました」
う、とお媛様は身を縮める。もしかして常習犯なんだろうか。
美女はお媛様の前に片膝を突くと、労しげに目を細めた。
「わらわめの料理が不得手ゆえに、ご不便をお掛けしておりますことは心苦しいことでございます。とはいえ、余り郷に忍び出ていただきますのも」
「わかっておる……鈿女だけではない。わたしも料理は下手だ」
それは見ればわかる。膳夫を即急に雇用されることをおすすめしたい。
お媛様、食べかけの椀をまじまじと見つめた後、不意に美女に差し出した。
「仕方ないとずっと諦めていたのだが、やっぱり
長い睫毛でじっと見つめていた美女は、主の思いを汲んだようにぱくりと一口食べた。ぶわっと謎の圧力が湧き出してきて、裳裾が捲れ上がる。あ、もうご褒美はその辺で結構です。
「……これが本業の仕業ですか」
「ね」
二人は深く頷いた後、徐にこちらに目を向けた。お媛様の眼差し、うちの皇子と完全に一致。これを落胆させるのは忍びない。忍びないのだが。
「……そなた、もし構わなければ、神宮の膳夫となる気はないか」
「申し訳ございません、先約がありますので」
――もし皇子と出会っていなければ、そもそも俺はここにはいなかったということで。
お媛様と美女がすっかり料理を平らげてしまったので、もう一度あわびを捌くところからやり直す。外出していた連中が戻ってきて、さあ食べようかと思っていたら、外の方が賑やかになった。慌てて飛び出してみれば、斎宮に参内していた皇子たちが戻ってきたところだった。
「腹が減ったぞ七掬脛」
存じ上げておりますとも、我が皇子よ。
「斎宮の直会は量も少ないし味もイマイチだから食べた気がしなかった。こっちはめちゃくちゃ美味そうな匂いがしてるな」
吉備武彦と大伴武日が苦笑している。二人とも錦で包まれた荷物を恭しく捧げ持っているので、早いところ受け取ってあげないとおっさんたちの二の腕が死んじゃう。
吉備武彦が捧げているのは形を見るだけでわかる。剣だ。
「天叢雲剣だ。神宝なのだが、叔母上が授けてくださった」
神話に出てくる宝剣じゃないか。俺ですら名前を知っている。さすが皇子、とんでもないものを受け取って戻ってこられた。
もう一つ、大伴武日の捧げているのは、高脚の器に載った小さな袋だった。
「これは火急のときに開くように、との神託があったとのことだ」
皇子に危機が訪れたときに開く秘密兵器ということか。これもなかなかやんごとない。
上座に据えられたそれをしげしげと眺めていると、皇子が耳元に来て囁いた。
「こっそり覗いてみたら、火打石だった。火種が尽きたら使わせてもらおう」
迷わず覗き見る辺り、さすが我が皇子であらせられる。
――女神二柱には、できれば別の膳夫にお声掛けをいただきたいところである。
皇子に万一のことがあるまで待つなどと、そんな剣呑な言伝はお控えいただきたく。
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