第6話

 東征軍の出陣式は、それはそれは華やかなものであった。

 大将、副将、参謀。靫負に筆記と誦習の舎人、そして近隣の豪族から集められた数多くの精兵。朝廷の広い前庭を埋め尽くすその軍団は、まさしく今上が満を持して送り込む東征軍に相応しい威容を誇っていた。

 日を選んで催された儀式、その後の夜通しの宴を経て、纒向宮に関わる全ての者どもに見送られる中、東征軍は発った。

 華々しく出立すること約一刻の後。平群の盆地を出て宮殿が見えなくなったころ、大将たる皇子は歴々たる兵団を前に、おもむろに述べた。

 「よし、お前たちはここで解散」

 事前に内密に伝えられていたため、さほどの混乱は来たさなかった。各地の豪族から集められた兵士たちは、それぞれに規則正しく国元へと戻っていく。その後ろ姿を見送りながら、大伴武日はやれやれといった具合でぼやいた。

 「随分とこざっぱりとしましたね」

 早くも華々しい鎧を簡素な皮甲に着替えたうちの皇子は、馬上でにかっと笑う。

 「堅苦しいのは好きではないからな」

 ――残った手勢は、全部で十名。こざっぱりというか、こぢんまりというか。

 まず、大将であるうちの皇子。しかし九人しか率いていないのに大将とはこれいかに。

 副将の吉備武彦、参謀の大伴武日。二人とも出立のときにはそれなりの格好をしていたが、飾りを全部取っ払うと、ちょっと品のいいただのおじさんだ。二人とも騎乗の姿が様になっている。

 あと靫負の美濃弟彦。義兄が元々大将に任じられていたのにそれを蹴ったという事情もあって、本来ならそこそこの地位を確保されないといけないはずの豪族の若様なのだが、今回は普通の兵卒と大差ない恰好をしているし、馬にも乗らずに徒歩でてくてくとついてきている。人見知りの気があるのか、儀礼の間は目を白黒させていたが、人が減るとようやく人心地ついたみたいだ。

 後は、軍議で動員が決定した追加人員だ。

 「大の。本日のこの様はどのように記録する」

 「稗田の。余計のことは不要。『冬十月壬子朔癸丑、尊發路之』で十分」

 「ほう、さすがは大の。壬子朔と入れば、前夜からの儀礼の様も伝わるもの」

 「ことに稗田の。拝命の儀はどう伝える」

 「比比羅木の八尋矛が肝かと。艮を封じるに柊は、安直だがわかりやすい」

 「ふむ。実はおれは斧鉞を用いたい」

 「それはよい。淮南子か」

 「さすが稗田の」

 何を言ってるのかさっぱりわからんこの二人は、見た限りでは弟彦より幼いくらいのガキだ。大伴武日が連れてきた二人組で、大体背格好も同じのチビだが、かちっとした垂髪をしている方は「大の」、頭の上で一つ髷にしている方は「稗田の」と各々を呼び合っている。

 半ば苦笑しながら、皇子は大伴武日を小突いた。

 「賢い者どものようだな、武日」

 「今わたしの手元にいる者の中で、書記として最も優れているのは大のです。簡潔に記録することに優れています。そして稗田のは、目にしたもの耳にしたもの全てを忘れません。補足が必要であれば、稗田のが一言一句漏らさず起きた出来事を暗誦します」

 「それなら稗田がいれば記録は事足りるのでは?」

 「文字になれば運ぶことができます。それに最小の文字数で記録を取れば、それだけ多くの事柄を伝えられますから」

 ほんの少し大伴武日は口元を曲げた。品はよいが、悪い笑顔だ。これから何かすごいことをやらかそうとしてる奴は、大体こんな笑顔をする。

 吉備武彦はいつもののんびりとした調子ですごいですねえ、と笑っている。拝命の儀で千人の兵を揃えてみせた吉備の王は、結局手勢の中から三名のみを残して全て国元へ引き上げさせた。

 「犬養、楽々森、留玉、この先武器を揮うことがあるとすれば、それはお前たちの役割です。心得ていますね」

 「御意」

 出陣式で王命に平服したのは三人。犬養は、名前のとおり大きな二匹の犬を連れている中年の男。楽々森は、赤毛で小柄な若者。留玉は、腰に笛を履いた優男。まだ言葉を交わしてはいないが、見た目が特徴的なので顔と名前を一致させるのはそんなに難しくない。

 「覚え辛ければ、イヌ・サル・キジでよろしいですよ、七掬脛殿」

 人の心を見透かしたわけでもなかろうが、吉備武彦はそんな風に笑った。怖い人だ、これだけのほほんと、自分の部下をケモノ呼ばわりする人がいるなんて。

 「まさか。一介の膳夫が行軍に加わっているだけでも身に余ることなのに、畏しいことを仰せになられませぬよう」

 「何を言いますか。陛下からの勅命を賜ったという意味では、あなたは我々と同格ですから」

 そう。総勢十名の殿は、まさかの俺が拝命している。

 ――ああもう、全くもって畏れ多い。



 纏向宮の皇子の東征は、文字通り都から真東に進路を取った。太陽の昇る方角、最も尊い方向だ。

 「……東国を目指すなら、鈴鹿峠か瀬田の関に向かうんじゃないのか? こっちだと伊賀の山の中だ」

 さすがに美濃出身の弟彦は土地勘がある。大声で進路に疑義を挟むのもはばかられるのだろう、俺の隣にやってくると、ひそひそと尋ねた。

 「それで正解だ。日代の皇子が正規の遠征に出るんだ、まずは手順を踏まないとな」

 「手順?」

 弟彦は子犬のように首を傾げる。そういやこいつも豪族の若様なんだから、俺より身分高いよなとは思ったが、相手も気にする様子でもないので自然とタメ口になった。

 「伊勢に坐す大御祖神への拝礼だ。これから東方に向かうなら、無視するわけにもいくまい」

 「単なる儀礼ばかりでもあるまい。伊勢におわせられる斎王は今上の妹姫、皇子の叔母上であられる」

 ふと太い声が聞こえて顔を上げると、厳しい顔の男がこちらを見遣った。足元には白と黒の二頭の犬。吉備武彦の従者の一人、犬養だ。

 「叔母上って……皇子とは親しいのか?」

 「斎王の倭姫様は今上の同母妹だ。御杖代となられた後も、稀に纏向宮と勅使の往来はある。皇子とも関わりは深かろう」

 ふうん、と弟彦と俺は頷いた。地方在住の犬養がそこまで宮中に詳しいのは少々意外な気もしたが、よく考えたら吉備武彦は大后様の実弟なのだから、その腹心が内情に詳しいのもまあむべなるかな。

 ぱちぱちと何度か瞬いた弟彦は、不意に首を傾げた。

 「で、御杖代って何だ?」

 思わず俺と犬養は同時にずっこけた。薄々思っていたのだが、こいつ結構残念な子なのかもしれない。

 どの辺から説明しようかと思っていたら、いとけない声が割って入った。

 「大神の御杖となりお仕えする方のことだ。神祀りに相応しい地を求めて諸国を廻られたと言われている」

 「大神を背負い女人の弱足で伊賀・近江・美濃・尾張と各地を廻られた末に、伊勢の地でご神託を受け祀られたとされている」

 大と稗田だ。顔立ち自体は全然似ていないのに、背格好としゃべり方が似ているせいで、まるで双子みたいだ。おまけににやっと笑う悪い顔、大伴武日にウザいほどよく似ている。

 「御方様は美濃へもお廻になられたはずなのだが」

 「お前は確か美濃の出自ではなかったか」

 「……知らねぇよ。その頃、俺まだ多分生まれてねぇもん」

 いじけたように弟彦は鼻を鳴らす。ぷ、と笑いを噛み殺す大と稗田の方が更に幼いのだが、それを認めると何だか不憫になりそうだった。

 どうやって宥めてやったものか、と思案していたら、不意にむっと馬の臭いが鼻を突いた。慌てて振り仰ぐと、馬上の皇子がいつの間にか俺の脇にやってきて、こちらを見下ろしていた。

 「あまりはしゃぐなよ、初日から飛ばしすぎては後でつぶれる。この先は峠道だ、気を引き締めろよ」

 ああ、我が皇子は安定の我が皇子であらせられる。逆光に輝く笑顔が眩しい。

 「皇子、今日はは榛原の駅站に支度をしております」

 「宇陀の峠を越えた先か。腹が減りそうだな。肉食べたい」

 無邪気な笑顔は実に眩いのだが、我が皇子。我が尊き皇子。本気で食い気だけで生きておられるのか。

 いつの間にか追いついてきた大伴武日がいとも平然と言い放った。

 「聡明な我が皇子ならばご存知のことではございますが、差し出口ながら申し上げますと、伊勢までの道中はずっと肉を召し上がってはなりません」

 皇子が肩を竦め、きょとんと弟彦は瞬いた。ホントこいつら大概可愛いな。

 「当たり前でしょう、伊勢の大神の前に参拝する前なのですから潔斎するのは常識です。伊勢におわせられる天照大御神は血の穢れをお厭われます」

 大伴武日は当然のごとくそう告げる。こいつのちびっちゃい部下二人もこくこくと頷いている。我が皇子は馬上でほんの少し肩を落とした。そう言えば我が皇子は、どっちかと言えば肉を好まれる。

 「……わかっているさ。伊勢を過ぎるまでの辛抱だ」

 「魚かあ。俺、タナゴが好きだな。汁で煮たのが好き」

 弟彦の能天気さはつくづく微笑ましい。大と稗田がくすくすと笑うのを怪訝そうに眺めながら、皇子に気安げに話しかける。どうやら何だかんだで打ち解けているらしく、皇子も心なしか嬉しそうだ。それに何でも美味しく食べられるというのは、遠征には何より必要な素養だ。空腹では万全に備えられないし、飢えで身体を壊しては元も子もない。

 はてさて、大和から伊賀を抜けて伊勢へと抜ける街道は延々山道が続く。最初の難所は宇陀の峠であるが、初日ともあって何とか遅れる者はいなかった。弟彦はともかく大と稗田は心配だったが、多少稗田が疲れた様子を見せた程度で、榛原の駅宿には夕刻までに辿り着けた。

 本日の献立は川魚の焼き魚、同じく鱠、菘の酢漬け、青菜の汁物、そして白飯だ。元々山間の榛原では物流も乏しく、塩もなかなか届きづらい上に、手に入る食材に限りがある。きちんと発注分の食料を調達してくれた駅站の官員に感謝を捧げなければなるまい。

 上座に皇子、その右手には吉備武彦と三人の麾兵。左手には大伴武日と美濃弟彦に、大と稗田がちょこんと席を並べる。薄い酒を酌み交わしつつ、皇子が膳に箸をつけ、上座から順に手を付け始めた。

 「あ、美味い」

 ありがとうございます。何かこう、毎回こういう風に口に出して誉めてくれると膳夫冥利に尽きます。

 「俺、川魚はあまり好きではないのだが、これは美味いな」

 「里の者が立派なアマゴを用意してくれておりました」

 川魚は大きいほど味がいい。今日の飯が美味いのは俺の手柄ではなく、ひとえに地元の食材係の功績だ。

 「食わず嫌いするものではないな。これなら美味しく食べられる」

 「それならよろしかった。好き嫌いで七掬脛を困らせることがなくてよかったです」

 吉備武彦の口ぶりには、身内特有の気安さが滲んでいる。思わず俺も苦笑した。

 「別に好き嫌いは誰でもあっておかしくないものですよ。ただ長旅ですからね、しっかりお召し上がりいただき、山道に備えていただきたいものです」

 よく考えたらこれまで出先では、皇子自身が何かしらの鳥獣を捕えてくるので、そればかりを調理していた。ただ、纏向宮でも特に食材を残すような素振りを見せていなかったので、この皇子が偏食などとついぞ考えたこともなかったのだ。

 うまうまと箸を口に運びながら、皇子は少しばつが悪そうに言った。

 「恥ずかしながら、魚はあまり得意ではない。特に川魚は苦手だ。ただ俺がそれを言うと、漁師も運役人も立場がなくなる」

 「皇子、食事とはそもそも好き嫌いでなすようなものではありません。その地の文物を知る上でも重要な資料です」

 大伴武日はそんなことを言うが、確かにこの人ならゲテモノの類でも必要とあらば平気な顔で食べてしまいそうだ。

 一方、美濃弟彦は美味そうに食事を平らげていく。

 「魚が苦手って、こんなに美味いのに?」

 「それはまあ、弟彦は美味しい魚を食べて育っているからでしょう。美濃は水のよいところですから、元々魚も美味しいのでしょう」

 吉備武彦にさりげなく故郷を誉められて、美濃弟彦はまんざらでもなさそうだ。犬猿雉……じゃなくて吉備武彦の従者も少し離れたところで普通に箸を運んでいる。そもそも好き嫌いを言うような雰囲気の人たちにも見えないが、犬養の連れている犬に魚のあらの羹を作ってやったら、飼い主に待てを言いつけられて盛大なよだれを垂らしている。

 「吉備も近海からよい魚がとれますから、魚好きは多いですね。大の稗田のも海沿いの出ではありませんか?」

 全然顔が似ていないのに、双子みたいな二人組は嬉しそうにお揃いの笑顔を見せた。

 「わたしたちは難波で渡来の博士に学びました。難波はよい港で魚も美味です」

 「特に青魚の類は賢くなると言われたので好んでいただきました」

 「え、うそ俺サバめっちゃ好きだけど勉強嫌い」

 弟彦まで乱入すると何だかちっちゃいのがわちゃわちゃしてて大変可愛い。飯時に子どもが楽しそうにしている姿は見ているだけで心が和む。

 「確かに正直なところ、都の魚はあまり美味しくないだろ。海から遠いし、人が多くて川が濁っているので川魚も泥臭いし」

 他意はないのだろうが、皇子の口ぶりに思わず俺は苦笑した。飯の美味い不味いは、膳夫の腕前だけではどうにもならない部分もある。俺は少なくとも、纏向で食う飯は結構悪くないと思ってるんだが。

 「川魚は鮮度が命ですからね。宮中の食材はたくさんの人の手を渡ってきますから、なかなか鮮度を保つのは難しいんですよ。海魚の鮪なんかは締め方さえよければ日持ちしますから、案外港よりも味がよくなってることもあるんですよ」

 「そうは言っても、俺は七掬脛の飯の方が断然美味いと思うぞ」

 嬉しいことを仰せになられる。

 まあ、旅の空の飯は一味違って感じられるもの。まして長旅を共にする仲間との飯は、まんざらでもないものだろう。



 駅站の夜。

 部屋をきちんと用意されていたので、旅とは言えどもなかなか快適に過ごすことができる。吉備の従者三人が交代で宿直をしてくれるとのありがたい申し出。俺も加えてくれたら構わないと言ったのだが、何だかんだで固辞された。

 火の始末を確かめて回り、房室に戻る。今日は月がないから手探りをしていたところ、ふと仄明るい明かりの漏れる扉が見えた。

 「大の、寝ないの?」

 「稗田の、もう少し」

 記録係のちびっ子たちの部屋だ。忍び足で扉の隙間から伺うと、小さな明かりを前に筆を持っている大の姿が仄見えた。何やら一生懸命書きつけている。

 「……稗田の。この駅站の管理者は何者だったか」

 「さて。聞いてない」

 「記録が功績の元になるし、後の証拠にもなる。残しておかないと」

 「ふむ」

 稗田は相槌を打つが、どうも眠そうだ。大はどうも生真面目すぎるのか、一向に記録が終わらないらしい。旅も初めてのことだろう、目新しいことばかりでついつい書き残したくなるのだろうが、がんばりすぎると油が尽きるし夜も明けてしまう。

 「……こんを詰めすぎるなよ。明日も早い、そろそろ休め」

 しばし悩んだが、扉を押し開いて声をかける。衾を肩まで掛けた稗田がぱちくりと瞬いたが、大はこちらを勢いよく振り向くとそのまま矢継ぎ早に尋ね始めた。

 「これは七掬脛殿よいところに。今日の夕餉の献立を今一度教えていただけないか」

 え、まさかそれまで記録するつもりかよ。

 さすがにたじろいだ俺の背後から、ふと楽しげな声が聞こえた。

 「大の。張り切るのは悪いことではないが、こいつの飯は全部美味いからいちいち記録すると木簡がすぐに尽きるぞ」

 大は筆を放り投げ、稗田はその場に飛び上がって平伏する。振り向いてみると、夜着で寛いだ風情の皇子が佇んでいた。

 「うむ、記録は後々に残すものだからな。この東征は今上の事業として名を残し長く語り継がれることにはなろう。だが旅先で功のあった者は、俺がその都度評価する。逆も然り。必要以上に今上に報告する必要もないから、そこまで細かく書かなくていいぞ」

 薄明りの中でも皇子は相変わらず美しい。涼しげな鼻筋に光を宿しつつ、ふと口元を微笑ませた。

 「わかりきったことは省略すればいい。旅は長い、どうしても長くなる。お前が今日の飯に感激したのは大体わかるが、どうしてもそれを伝えたいなら紀伝の最後に『名は七拳脛、恒に膳夫と為て従ひ仕え奉りき』とでも書いておけ」

 どうせ毎日のことだから、と皇子は楽しげに笑って俺の背中を叩いた。全くこの皇子には敵わない。

 ちびっ子二人が衾褥に入るのを確かめて、俺たちはその場を離れる。

 「……よくお気づきになりましたね」

 「何の。お前を探していただけさ」

 さては、と思う前に皇子の声は笑みを湛えた。

 「小腹が空いた。だが火も消えたようだな、朝餉を楽しみにすることとしよう」

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