第5話

 蝦夷えみし討伐計画がにわかに持ち上がったのは、皇子が征西から帰還して半年ばかり経った頃のだった。

 東国へ調査に送られていた朝臣からの「まつろわぬ蝦夷が民を苦しめております」とかいう上奏を受け、今上はたちまち派兵を決定した。うちの皇子の華々しい西征から日が浅い時節で、普段なら慎重な大臣たちもあっさり承諾した。調査に送られていた武内宿禰は第四皇子の乳兄弟でまだ若いが、稀に見るほどのタカ派だ。彼に視察を命じた時点で、今上のお心は推して知るべきところである。

 当初、大将に嘱望されたのはうちの皇子だった。身分も実力も実績も備えているから当然だ。だが、皇子と今上との協議の結果、候補に上がったのは意外な人物だった。

 「大碓皇子?」

 うちの皇子からこっそりそんなことを聞かされた俺は驚いた。それってあいつだろ、今上から美人姉妹を寝取って引き籠ってる皇子の双子の兄君じゃねえか。

 「それゆえだ。俺ばかりが武功を独占するのはあまりいいことではないし、日嗣を一人に定めるのは時期尚早だ。兄上が蝦夷討伐に赴けば、ちょうどよい箔がつく」

 まあ今上が健在なのに日嗣を定めてしまったら、何かの拍子に政局が真っ二つとかなりかねない。適当に臣下の目線は分散させておきたいんだろうけど、今は皇子の一人勝ちだもんな。西の討伐を弟皇子、東の討伐は兄皇子って腹か、安直だけどわかりやすい。

 「でもそれ、結構厳しくありません? 蝦夷遠いし」

 っていうかそもそも東国ってどこだよ。そんなぼんやりした命令下されるのは、幾ら皇子のアレな兄上でも気の毒だ。

 「遠いからちょうどよい。今回は別に平定しなくても、現地の実態を確かめてくる方が重要なのだ。荒事は麾兵に任せればいいし、時間もかかるから過去の経緯を清算するのにもうってつけだ」

 「あ、やっぱ引きずってるんですね、例の件」

 今上が召し上げようとした美濃の美人姉妹を迎えに行って、そのままモノにしちゃったという兄皇子の噂話は、そろそろ慌ただしい宮中では下火になっているとはいえ、彼の話題が出ると大体みんな想起してしまう。今上が大目に見たのだから別に問題ないような気もするのだが、まあ醜聞は醜聞だ。

 皇子は伸びをしながらぼやくように呟いた。

 「って言うか、兄上に活躍していただかないと死亡説がますます広まってしまう」

 「そういや皇子が殺しちゃったことになってるんですよね、兄皇子のこと」

 「それはまあ別にいいのだが、このままでは朝廷で兄上が忘れられてしまう……」

 うーん、と皇子は悩ましげに頭を抱える。もしや、と思って俺は水を向けた。

 「もしかして、兄皇子は乗り気ではなかったとか?」

 少し躊躇った後、皇子はこくんと頷いた。あ、多分これ、まだ内密にしておかないといけない話だ。

 「父上の勅命を伝えに行ったところ姿が見えなくて、屋敷を探し回ったら庭の茂みに隠れておられた」

 うわ情けない。咄嗟に浮かんでしまった俺の率直な表情を見て、皇子もすごい複雑な顔をする。

 「お嫌ならそう言えばいい。父上だってさすがに無理強いはしないだろうし、そもそも上に立つ者がそんな有様だと士気に関わる」

 「あれ、そういうのって断っていいもんなんですか?」

 思わず俺が首を傾げると、皇子は少し首をすくめてちらりとこちらを見た。

 「必ずしも本人が赴かなくても、代理を出した前例はある。兄上は既に封国をお持ちなのだし、名代を出せば事足りる。と言うか……」

 皇子は何か言いかけて、今度は口を噤んだ。多分こっちは、俺が聞かない方がいい話題なので、敢えて聞き出すのはやめにした。

 それより、皇子がこの話を俺にわざわざしに来たことの意味の方が重要だ。

 「……それじゃ、誰が大将になるんですかね」

 答えが知れ切った問いを尋ねるのも間が抜けている。それでも皇子はこくんと頷いてくれた。

 「順当にいけば、まあそういうことになるな」



 ――果たして、ほどなく今上から東征軍の編成を告げる勅命が下された。

 熊襲のときと違って今回は正規の軍事活動なので、それなりの人員が必要になる。大将はうちの皇子。大方の予想通りであったし、至極当然のことである。

 皇子には今上から斧と鉞が授けられた。まさかあれで蝦夷を撲殺してこいとかいう訳ではないだろうから、要するに東の土地を開墾してこいというくらいの意味だろうか。偉い人のやる儀式って、イマイチ意味がよくわからん。

 副将は少し意外な人物だった。御鉏友耳建彦――あの吉備武彦だ。中央の重臣辺りに任命されるとばかり思われていたので、宮中はさすがにどよめいた。だが、事前の内示を受けていたのだろう、勅命に合わせて大和に乗り入れてきた吉備軍の威容を前に異を唱える者はいなかった。麾下の兵士はざっと千人くらいか、全員がぎっしりと矢の詰まった靭を背負い、腰に太刀を下げている。あれ全部鉄器なんだぜ、と俺は内心で誰とはなしに呟いた。

 武彦には今上から矛が授けられた。斧や鉞よりはちょっと武器っぽいが、木製の儀式用なので、元々吉備から佩いてきた鉄剣の方がクソ強そうだ。

 参謀は大伴武日。皇子の師傅をしている学者肌の官僚で、代々近衛を務める名門の出自だ。武門の家柄とはいえ、本人に実戦経験があるのかはよくわからないが、そういや熊襲の地理や風習にもすごい詳しかったらしいので、未知の場所に連れていくには心強い。今回の遠征は地理調査の方が重点を置かれているっぽいし、それがあっての人事だろう。

 で、問題は最後の最後だ。読み上げられた役職名は膳夫。そんなの正規軍で任命するとか聞いたことねえよ。

 ――まああれだ。自分が大将になりそうだと皇子が早々に俺に伝えに来たのは、心の準備をしておけよくらいの意味だったんだろうけど。



 さて、出発までは多少の間はあるが、そうは言っても慌ただしい。大将は単に戦場で指揮すれば済むわけではない、戦略とかも考えないといけないし、それによって軍の編成も変わってくる。従って皇子はこれから吉備武彦や大伴武日と相談しながら将兵の編成や配置を検討しなければいけない。膳夫の俺とて呑気にしてはいられない。何しろ軍全体の食い扶持を養わなければならないのだ。いきおい俺まで事前の軍議に加わる羽目になる。

 「一応、最大で二万までなら兵士は出せますよ」

 さらっととんでもないことを言い出す吉備武彦。二万って、それ大和の正規軍より多いんじゃないか。

 「それ、ばれたら吉備が大和に潰されるから」

 皇子はさらっと突っ込む。そりゃそうだ、鉄器で完全武装した兵士がそんなにうじゃうじゃいたら今上きっと泣いちゃう。って言うか二万人分の飯を毎日作るとか俺も泣いちゃうから勘弁して。

 「むしろ人員は最小限が賢明かと。未だ大和にまつろわぬ者たちの地へ赴くのです、できる限り身軽であるべきです」

 武門の出自にも関わらず学識経験者枠に収まっている大伴武日は、最近は難波で渡来の漢籍を研究していたらしいが、今回の内々示で大和に戻ってきていた。久々に会うとちょっと白髪が混じっているせいで老けて見えるけど、多分俺とそこまで年は変わらない。それで当代きっての知識人との評判なのだから、やっぱりすごい人なんだろう。子どもの頃からの師父を前に、皇子は気心の知れた感じで相槌を打つ。

 「そういえば武日は昔から東国に行きたがっていたな。視察団に武内宿禰が選抜されたときは悔しがってたもんな」

 「それはそうですとも」

 大伴武日はやけに重々しく頷いた。

 「そもそも帰還後の武内宿禰の奏上は何なんですか。「東夷之中、有日高見國、其國人男女、並椎結文身、爲人勇悍、是總曰蝦夷。」とか子どもの感想じゃあるまいし。文身なんてその辺の漁民でも入れてます。髪を椎結とか、そりゃ猟民でだらだらと垂らし髪にしてる奴がいれば報告にも値しますがね、角髪の方が割と特殊な髪型だとわかってないんですかね。そもそもこれだと文化習俗社会制度、何一つ核心に触れてこない。そもそも蝦夷って命名がおかしい。何だよエビって」

 あ、前言撤回。多分この人、頭よすぎてちょっと逝っちゃってる系だ。話題の武内宿禰と言えば皇籍に連なるすごい名門の人のはずなんだが、このおじさんにかかれば小並感と切り裂かれておしまいだ。

 「其東夷也、識性暴强、凌犯爲宗、村之無長、邑之勿首、各貪封堺、並相盜略。亦山有邪神、郊有姦鬼、遮衢塞俓、多令苦人。其東夷之中、蝦夷是尤强焉、男女交居、父子無別、冬則宿穴、夏則住樔、衣毛飲血、昆弟相疑、登山如飛禽、行草如走獸。承恩則忘、見怨必報、是以、箭藏頭髻、刀佩衣中。或聚黨類、而犯邊堺、或伺農桑、以略人民。擊則隱草、追則入山、故往古以來、未染王化!」

 ううん大伴さん、日本語でOK。唖然とする皇子と俺を尻目に、のほほんと吉備武彦が笑う。

 「すごいですねえ。暗器を用いて境界を侵す民族とは面白い。傭兵にできませんかね」

 あれ、吉備さんそこ何か琴線に触れちゃった?

 「特定の首長を持たない民なのですよね。通常は狩猟を生業とし、時折農作物を略奪しに現れるということですか。暗器は大陸北方の異民族が得意とすると聞きますが、もしや北方との交易でも結んでいるのでしょうか」

 「そうなのだ、大和に対抗しようとする統一した意識を持っているとも思えないが、農業をしていないのに統率力を持って組織的な戦いをできるのは素晴らしい。蝦夷の調査によって更なる北方世界への足掛かりを掴めるかもしれない。これは実に重要だ」

 「大陸も南北に広い。もしこれで大陸北方との交易の糸口になれば面白い限りです」

 このおっさんたちつええ。学者馬鹿と商売馬鹿が手を組んじゃったよ。大航海時代始まっちゃうじゃん。

 と、徐に皇子が咳払いをした。きゃいきゃいと盛り上がっていた二人がぴたっとこちらを振り向く。

 「武日、武彦。各々に目的を持つのは構わんが、一応今回の目的は東国支配の端緒を開くことだ。恐らく東国の平定には長い時間を要するが、このたびの東征はその突端として長く記録にも記憶にも残される。そのことは忘れるな」

 「は」

 さすが皇子。脱線しまくっていた軍議がたちまち元の路線に戻る。

 「記録のできる書記官を何名か随行させたいな。長旅の後、みんなで記憶を振り絞って報告するのも疲れるし」

 「では適当な人員を選定しましょう。書記のできる者と、口述のできる者を」

 字が書ける奴もすごいけど、何気に口述ってとんでもないな。まあ、専門職がいれば心強い。

 「あと、祭祀要員は欲しいですね」

 「確かに、現地での巡撫に儀式は必要ですからね」

 ふーむ、と皇子が顎に手を当てる。形式ばったことが皇子はあまり得意ではない。そこまで重視していなかったのだろうが、確かに現地の長老を説得するには宗教は便利だ。ふと大伴武日が思い出したように手を打った。

 「そういえば、鈴鹿の手前に穂積忍山がいます。彼ならば古式に詳しく、神降しの舞もできるため適任かと」

 「穂積……」

 あれ、皇子が変な顔をする。何か触れたかな、と思ったが、皇子は小さく「任せる」と呟いた。

 概ねこの辺で面子が固まったかな、と思ったあたりで、ふと俺はあることに思い至った。

 「そういや、弓矢に長けた人が欲しいですね」

 「弓矢ですか、確かに荒事は避けられないでしょうから、もっともですね」

 全員頷いてくれる。飛び道具があると便利だ。何より飯の調達もできる。

 ふと、皇子がぱんと手を叩いた。見ると実に嬉しそうな顔をしている。

 「それならば適任がいる。美濃弟彦だ」

 美濃?

 ――どこかで聞いたぞその地名。



 大和から美濃まではかなり遠い。淡海まで出て瀬田を渡るか、鈴鹿峠を越えるか、いずれにしても険しい道を越えなければならない。

 どうしたものかと思っていたら、噂の人物はちょうど纏向宮に出仕しているらしく、これ幸いと皇子は彼の元を訪れた。どういうわけか俺も伴をさせられたのだが、まあ大伴武日は記録係の手配に忙しく、吉備武彦は自軍の調練に忙しいからやむをえまい。俺も携帯食の仕込みや、旅先の駅に食料の手配を依頼しておきたいところではあるのだが、こういう裏方仕事は目立たないようにやるのがかっこいいってもんだ。

 弓矢に長けている美濃弟彦は、名代として靫負の職に就いているという。早速詰所を訪ねると、衛士や雑色の中にひときわ目立つ若者が紛れていた。

 とりあえず若い。ようやく十七になった皇子より二つか三つばかり若いだろう。まだ若木のように細っこくて、背も伸びかけといった風情だ。目が大きくて、稚い栗色の髮を無理やり角髪に結っているのが、どことなく子犬を思わせる。名前からして若そうだなとは思っていたが、ほんのガキじゃないか。

 「美濃弟彦というのはそなたか」

 皇子は親しげに話しかけるが、弟彦はびくっと警戒してからようやく頷いた。こういうのどこかで見たな。犬好きの人がびびってる子犬をいきなり撫でようとしている感じの絵面だ。

 訝しげな弟彦の様子は意にも介さず、皇子はつかつかと歩み寄るといきなり本題を切り出した。

 「そなたは弓の名手と聞く。今度の蝦夷討伐にぜひ力を貸してほしい」

 いきなり皇子がやってきてざわざわしていた詰所の中が、一気にどよめいた。だが弟彦は少年じみた顔にますます不審の色を浮かべた。

 「は?」

 「そなたの弓の腕は既に聞き及んでいる。その腕前をぜひ遠征の中で発揮してほしい。そうすれば、必ずや故郷のためにも――」

 「嫌です」

 熱っぽく語る皇子を、弟彦はぴしゃっと遮った。声変わりすらしていない幼い声だ。

 「おい、弟彦」

 中堅どころと思しき衛士が弟彦を窘めるように肩に手を乗せたが、彼はそれを振り払う。そして皇子を押しのけるように外へ飛び出していく。皇子は慌ててそれを追いかけた。

 「弟彦、待ってくれ話を」

 「俺の弓矢はあんたに代わって人を殺すためのものじゃないんで」

 おい若造。皇子にそんな口の利き方をして、衛士に叩っ斬られても文句を言えんぞ。

 皇子はまるで犬に噛みつかれたみたいな顔をした。それに目もくれず、弟彦はずんずんと突き進んでいく。咄嗟に追い縋ろうとした皇子は、代わりにその場で声を張り上げた。

 「別に賊など討たなくていい。だが!」

 幼い顔で弟彦は怪訝そうに振り向いた。皇子は至極真面目に叫ぶ。

 「お前のような弓の名手がいなければ、旅先で獲物が獲れない。そんなの腹が減るじゃないか!」

 ――皇子。

 弟彦行っちゃいましたよ、多分あきれて。



 弟彦につれなく振られたので、詰所の中の衛士から別の人材を引き抜くのかと思いきや、皇子はあっさり諦めたらしい。

 「獲物獲れないとひもじいんじゃないですか?」

 「別に自分で獲ればいい。お前が一緒にいるのに飢えるはずがない」

 はいはい、大した信頼ですね。携帯食と駅站への食料手配に抜かりは許されないらしい。

 ともあれ、皇子はあっさり弓兵の手配を諦めて、大伴武日や吉備武彦と一緒になって人材集めに奔走し始めた。大伴武日はあまり気にする様子もないし、吉備武彦にはそれとなく聞いてみたが「射手が必要なら何とかしますけどね」と楽天的だ。って言うかこの人自身、アホかと思うくらい弓が上手い。徐に弓を引いたかと思ったら、一度に二本の矢を放ち二羽の鳥を同時に射落としたりしやがる。それを見た皇子も驚く様子もないので、正直皇子が何で弟彦にこだわったのか俺にはさっぱりわからない。

 そんな具合で数日が過ぎたある朝、異変が起きた。

 舎人の一人が皇子の宮の入口に、これでもかと鳥獣が積み上げられていたのを発見したのだった。

 鹿に猪に兎に貉、鴫や鵯や雉まで文字通りどっさりと折り重なっている。見れば矢傷で捕らえたもので、見事に急所を捉えているのはいいが、処理の仕方があまり上手くない。献納されたものにしてはぞんざいだし、そもそも差出人がわからないのはよろしくない。ただ残暑厳しいこの時期に動物の死体を放置しておくとえらいことになるので、厨屋の連中総動員でとりあえず始末をつけることにした。

 死んで時間が経っているのでこの際血抜きは省略。片っ端から水中に放り込んで肉を冷やし、涼しい陰に持ち込んでひたすら皮を剥いで解体する。鳥はまだいいが、兎なんかは小骨が多くて歩留まりが悪い。鹿や猪は肉が固く締まっているのもあり、一刻かけても四頭か五頭捌くのが限界だ。獲物を肉に変えるのにほとんど丸一日かかってしまい、皇子付きの下人はみんな獣臭くなってしまった。

 とりあえず肉は捌いた傍から水気をぬぐって塩をまぶし、近くの岩室に吊るしてきた。真夏でも寒いくらいひんやりしているので、密かに食材保存庫として俺が愛用している場所なのだが、あっという間にいっぱいになってしまった。秘蔵の生酒も追い出されてしまったので、できるだけ早く飲まなければならない。

 せっかくなので鵯を何羽か拝借して、鉄鍋で熱した油をかけながら火を通す。皮に香ばしい色目がつけば、酒の肴にうってつけのぱりぱり揚げ鳥の完成だ。こっそり一人で味見をしようかと思っていたら、匂いを嗅ぎつけた皇子にとっつかまってしまった。将軍様が厨屋をうろちょろするのも考え物だが、主命とあらば仕方ない、秘蔵酒と一緒に揚げ鳥を房室まで献上する。

 「――手の込んだ嫌がらせですかね」

 最初は毒を疑ったが、仕留めてから少し時間が経っているだけで肉自体はきれいなものだった。人間も獣も所詮は肉の塊なので、毒が盛られていたらわかりやすいから、そこのところは多分心配あるまい。だが善意の献上にしては相手の姿も意図も見えなさすぎる。そういやどっかで、奉納品の魚を受取拒否した上に転送しまくって腐らせたとかいう話を聞いたことがあるぞ。食べ物を粗末にするのは言語道断だが、飽食に慣れた貴人の世界だとありうるのかもしれない。

 そんなことはさておいて、皇子は揚げ鳥に夢中だ。

 「皮がぱりぱりして、肉は旨味が強いし、油がじゅっと溢れてくるな。鵯がこんなに美味いとは知らなかった。もっとみんな食えばいいのに」

 「と言うか、狩るのが難しいんだと思いますよ。小さいしすばしっこくて警戒心も強いんで」

 はた、と俺は捌いた獲物を思い返す。どれも近場で獲れる鳥獣ばかりだったが、里に近いところに住んでいる奴らは基本的に警戒心が強い。潜伏してもすぐ気づかれるから大人数の狩りには向かない。ついでに言えば、大きめの獣の毛並みの荒れ方がひどかったので、多分仕留めた後に引きずったり斜面を落としたりして運んだのだろう。絞めて間もないため肉はまだ硬いが、捌けないほどでなかったのはかなり激しい取扱い方をしたせいだろう。つまり、ごく少人数で大量の獲物を運ぶ手間があったので、狩場を近場で済ませたということだろうか。だとすればとんでもない狩の腕前だ。

 咄嗟に俺の脳裏に閃いたのは、あの子犬に似た童顔だった。腕前をこの目で確かめたわけではないが、もしあの獲物を手配したのが彼であれば、弓の評判には違わない。

 だが、目的がわからない。嫌がらせか、或いは――。

 不意に皇子は呟くように言った。

 「あの肉、日持ちするようにはできるか?」

 「……小さめの倉庫を一つください。あと、めっちゃくちゃいっぱい塩があれば何とかします」

 そもそも肉は長期保存に向かない。ついでに言えば、獣肉は締めた直後より少し置いた方が美味いので、出先で食うのには基本的に向いていない。今回の遠征にしても、各地の豪族のところに身を寄せることができれば歓待を受けるだろうが、野宿になったときには現地で調達した魚介や鳥を主な食材にする想定だった。だがこれから涼しくなる季節であれば、最初の始末を間違えなければ何とかなる。

 「どのくらいでできる」

 怪訝な質問だ。出発まではまだ半月はゆうに時間がある。それに間に合わせる想定だったが、早ければ早いほどいいということか。

 「わかりました。五日――いや、三日ください」

 きゅっと酒をあおって、皇子はにかっと笑った。

 「よし、三日後だな。楽しみだ」



 高級品の塩をこれでもかと惜しみなく使えるのは、さすが皇子の権威の賜物だ。

 沸かした湯の中に塩が溶け残るほど放り込み、水飴と芹と三つ葉を加えて冷ます。肉の塊を適当な大きさに切り分けると、塩水にひたひたに浸す。カビや腐敗が出ないように気を付けながら、放置すること丸二日。漬け置く時間が長いほど日持ちするようになるので、急ぎの分とそれ以外はこの際分けておこう。

 漬け置く間に、皇子に賜った倉庫を片付ける。古くて今ではあまり使っていない高床式の倉庫で、木材が痩せてきていて、中に入ると隙間から光が差してくる。まずは中身を別の倉庫に運び込むと、壁の隙間を木材と泥で埋めていく。

 続いて山で桜の木を探す。下を探したら折れてからからになった枝が折よく見つかった。雨の少ない時期だったことに感謝しつつ、大量にかき集めた枝を刀で細かく刻んで木屑を天日に干して水分を飛ばす。木屑の手筈が整ったら、肉の世話に戻る。表面にぬめりが出ていないのを確かめて、半刻ばかり冷たい湧き水の出る泉に浸す。いい塩梅に塩気が抜けたら、水気を藁で拭って一晩倉庫の中に吊るす。

 さて本番だ。日の出と同時に倉庫の中に火皿を入れて、木屑を盛ったらそこに火をつける。もうもうと煙が立ち上ると扉を閉め、燃え尽きる前に中を確かめては木屑を足す、の繰り返しだ。すごい熱気の煙なので、中を覗くのも一苦労だ。倉庫の隙間は埋めたが、扉の開閉のたびに煙が吹き出してくるので、いつの間にか野次馬が遠巻きに辺りを取り囲んでいた。

 「火事にはならないか?」

 皇子が少し心配そうに確かめに来る。一緒に眺めに来た大伴武日が面白くもなさそうな顔で頷く。

 「大丈夫ですよ、中は木が燃え始めるほど熱くはならないのです」

 木屑を足して、倉庫から降りてきた俺は、言い訳がましく補足した。

 「燻製ですよ。ここまで大量に作るのは初めてなので、失敗したら許してください」

 最初は少し煤が出た。俺が顔を擦ると、皇子はちょっと笑いながら俺の頬を拭ってくれた。ああ畜生、クソ可愛いなこの皇子。

 昼頃から次第に木屑の量を減らして、倉庫の中を冷ます。吊るしていた猪肉の塊を一つ味見用に持って出ると、つやつやと綺麗な照りが出ていた。こらこら皇子、これはいきなりかぶりつく系の食べ物ではありません。

 遅れてやってきた吉備武彦が、肉の塊を見て嬉しそうに相好を崩した。

 「やあ、腌猪ですか。これは珍しいものを」

 さすがによく知っている。獣肉の調理は技術力が物をいう。これも大陸由来の調理法だ。

 「幾らかは東征に持っていきますよ」

 「幾らか?」

 ――で、いいですよね皇子? 今更名残惜しそうな顔をしてはいけません。

 仕上がった燻製は笹の葉を敷いた籠に乗せて、見目良く整える。よし、何とか日没には間に合った。

 「それでは七掬脛、伴をしろ」

 皇子は、普段よりも少し畏まった身なりをしていた。俺も着替えた方がいいかなと思ったが、まあ膳夫の正装ということで容赦いただこう。煤まみれになった襲だけを脱いで、籠を押し戴いてみせたところ、皇子は満足げに頷いた。



 皇子が向かったのは、俺にとっては意外なところだった。纏向宮から少し離れたところにある邸宅で、事前に連絡をしていた様子もなかったが、衛士に来訪を告げるとすぐに主への目通りがかなった。

 邸の主は、皇子と寸分違わぬ面差しをしていた――双子だから当然だろう。皇子の兄皇子だ。

 兄皇子は亭主の席に腰かけ、脇息に片腕を預けて微笑んでいた。双子とは言え、目上にあたる兄を前に、うちの皇子は恭しく蹲踞した。

 「兄上、このたびは改めてお願いに上がりました」

 「俺にできることなら何でも叶えてやりたいが、悪いが俺にできることは限られているぞ」

 噂ではもうちょっと険悪な間柄かと思っていたが、別にそういうわけでもなさそうだ。二人とも、どこか他人行儀な口ぶりを楽しむように悪戯っぽく笑っている。

 兄皇子の隣にいる奥方っぽい美人は、多分噂の兄媛だろう。どこかで見たような、栗色の柔らかそうな髪をしている。

 皇子はちょっとだけ頷いて、兄君を振り仰いだ。

 「兄上が荒事を好まれないお方なのは存じております。できれば将軍の任をお願いしたかったのですが、叶わないとあらば不肖私が努めます。ただ、兄上の名代にご同行いただければ、この上なく心強く存じます」

 名代。

 この兄皇子はそういえば国を封じられていた。あの美人な嫁さんの故郷である美濃。そこを代表する者が東征に加われば、一応は兄皇子が東征に協力したという面目が立つということか。

 だが兄皇子は、うちの皇子よりもうちょっと物柔らかな苦笑を浮かべた。

 「すまないが、俺は戦は好きではない。将をお前に押し付けておきながら、こんなことを言うのも憚られるが、俺の代わりを何者かに務めさせるのも望ましくはないのだ」

 うちの皇子は一瞬悲しそうな顔をした。それを兄皇子は微苦笑で受け止め、ゆるりと首を振って見せた。

 ――ああ、なるほど。

 俺は今の今まで、こいつのことをただのヘタレだと思っていた。だが、どうも単純な話では済まないらしい。

 この兄皇子、要するに東征に反対の立場なのだろう。今上の目指す拡大路線そのものを快く思っておらず、間接的にであれ加担することを由としていないらしい。

 皇子は苦そうな顔をしたが、すぐに首を振った。

 「俺はまつろわぬ民を屈服させるつもりではありません。知らない国の、知らない風景文物を知りたいのです。今でこそ蛮族と呼ばれていますが、彼らのことを知れば融和の道も図れるものと思っています」

 「それが結果的に、父上の征服欲を加速させることになってもか?」

 「それを変えられるのが我々だと思っています」

 何だかんだでこの二人、兄弟である。考えていること自体はよく似ている。その方法が真逆なだけだ。

 兄媛がはらはらと見守る中、兄皇子は首を傾げてみせた。

 「お前が弟彦に声をかけたことは聞いたぞ。あの子はあれで気が優しい、敵にとはいえ弓を引かせたくはない」

 「はい。ですから俺は、食料の調達のために同行してほしいと頼みました。敵を殺すためではなく、俺たちを生かすために同行してほしいと」

 兄皇子はくすりと笑った。笑うとますます皇子に似ている。

 「お前は食い気が旺盛だからな。あれでは足りなかったか?」

 ふと、堂の帳がちらりと揺れた。見ればふわふわとした栗毛が灯火に照らされている。いっそ幼いほど華奢な体躯で佇んでいるのは、あの弟彦だった。憮然とした表情だが、薄明りに浮かぶ面差しは改めて眺めると兄媛とよく似ていた。

 「……義兄上を害するつもりなら、俺は容赦しないからな」

 「これ、弟彦!」

 兄媛は鋭く窘めた後、慌ててその場に身を屈める。

 「申し訳ありません、この子はわたくしのたった一人の弟なのです、ご無礼をどうかお許しください」

 あくまで私的な邸の中にいるせいか華美に着飾っているわけではないが、この兄媛、しみじみ眺めると今上が所望しただけあってかなりの美人だ。兄皇子が横取りしたのも、なるほどわからないわけではない。

 ――だが、一緒に噂になっていた弟媛は?

 鈍い俺にもようやく正解が見えてきた。ただ、その内容が少々俺の想像を超えすぎていて、事実だとなかなか認めがたい。

 困惑する俺を尻目に、うちの皇子はにっこりと笑って見せた。ああ、眩しゅうございますその笑顔。

 「――兄上はお優しい方です。私が餓えると言っているのに見す見すお見捨てになる方ではありません。弟彦に命じて獲物を届けさせたのは兄上、あなたですね」

 「……別に狩りの獲物でなくてもよかったのだが。まだ暑い時期に生肉とか、弟彦さすがにそれは嫌がらせではないか?」

 のんびりと兄皇子が視線を向けると、弟彦は拗ねたようにそっぽを向いた。

 ああ、うんまあ、仕方ない気もする。豪族の坊ちゃんの常識だと狩りで獲った獲物は勝手に料理になって出てくる。気になるのは猟果だけで、日持ちなんて意識したこともないだろう。

 「おかげさまで、うちの膳夫が腕を揮うことができました。せっかくの珍味ですのでどうかお納めください」

 「せっかく届けさせたのにお前の分が足りなくなるだろう、と言いたいが、日持ちを考えたら返すのも非礼だな」

 兄皇子はちょっとだけ肩を竦めた。

 目上の人にこんな感想を抱くのもどうかと思うが、どうやらこの人、すごいいい人だ。得てして手料理のお裾分け品を嫌がらないのは、基本的にはいい人だ。

 皇子の目配せを受けて、俺は捧げ持つ籠に被せていた蓋を開いた。磨き上げた古い木材のような照りの出た燻製の、一番柔らかくて味のいい三枚肉の部分を、あらかじめ摘まめるほどの大きさに切ってきていた。笹の葉に載せたそれを皇子は取り上げて、兄皇子たちの前ににじり出る。

 「これは?」

 「どうぞそのままお召し上がりください」

 燻製に仕立てた三枚肉は、塩漬けも乾燥も保存食用に比べると短い。その代わり、脂の旨みがしっかりと残っている。献上する寸前に軽く焼き目をつけてきたので、香りも十分立っている。

 兄皇子は皇子から肉を受け取ると、かぷりと一口で齧り付いた。そして口元に上品な笑顔を浮かべると、隣の兄媛と弟彦にそれを差し出す。兄媛は一瞬躊躇ったが、こちらに小さく会釈してから口にして、睫毛の長い目を瞠った。義兄と姉の姿を見比べていた弟彦もようやく意を決したように手を出して、怪訝そうに齧り付いたところ、一口で目の色を変えた。大きめの塊を受け取っていたのに、がぶがぶと一気に食いつくしてしまう。ほほう、ここまで反応がいいと、膳夫冥利に尽きる。

 不意に兄皇子は物柔らかに告げた。

 「弟彦、お前はどうなんだ?」

 「どうって……」

 弟彦は義兄の意図を汲みかねて、眉間を寄せる。そして齧り掛けの肉にじっと目を落とした。

 「遠征中の飯は全部この七掬脛が作るぞ」

 皇子、いらん茶々を入れるでない。

 弟彦は少し俯いた。

 「だって、俺が離れたら、姉上が……」

 「兄媛は俺の妻だ。父上がどう言おうと俺が守るさ」

 「だって、義兄上は、東征が……」

 「腕自慢のお前の弓を、今一番望んでいる男がいるのだが。お前は自分の実力を試したいとは思わなかったのか?」

 ぎくっと弟彦は肩を震わせた。ああ、やっぱり、と妙なところで腑に落ちた。

 あの量の獲物を一人で獲るのは大変だったはずだ。それでもあんな無茶をやったのは、誰にもできないだろうことをやりたいという矜持があったからだ。東征は不安も大きいが、俺だってどこかうずうずしている。こんなやんちゃそうな若造にとって、きっと魅力的だったはずだ。

 「俺の名前を背負うことはない。お前は美濃弟彦だ、お前の定めたことであれば、義兄として俺は応援するよ」

 それでよかろう、と兄皇子はこちらに目を向けた。皇子は微かに肩を竦めたが、小さくこくりと頷いた。

 燻製肉を握りしめて弟彦は俯いた。じっと動かない弟彦が、ようやく小さく頷いたのを確かめて、皇子と俺は邸を退くことを決めた。



 「皇子はどこから知ってたんですか?」

 何だか俺は最初からはぐらかされていた気がする。別に知る必要のないことと皇子が判断していたのだから、それはそれでいいのだが、やっぱりどこか釈然としない。

 「んー……美濃の弟媛が男だった時点からかな」

 「ものすごく根本的なところですね、それ。

 思わず脱力してしまう。三日間燻製の準備で全力疾走した疲れがどっと圧し掛かってきた。

 「最初に美人だと評判になったのは、当然だが兄媛だ。で、采女として出仕させるに当たりついてきたのが弟媛――と言うか、女の形に扮した弟彦だったのだ。まああの調子なので、見た目は愛らしいが仕草がひどくて浮いていた。兄媛にびったりついてきて離れないので、父上は兄媛ごと召し出そうとしていたのだが、下手をすれば弑逆の罪を着ていたかもしれないな。とにかく面白い奴なんだ」

 そこを面白いとか流すなよ皇子。

 まあうちの皇子とて人のことを言えた立場などではないな、と麗しい横顔を見ながら俺は肩を竦めた。

 「……本当は、彼を兄皇子の名代にしたかったのではありませんか?」

 と言うか、弟彦でなければ意味がなかったのはその部分だ。そこを削ぎ落されてしまったのは、皇子の趣旨には反するところだろう。それは結局いいんだろうか。

 ふと皇子は何とも言えない表情をした。月明りに照らされた表情を、何て感情に分類したらいいのか今一つわからない。

 「兄上はお優しい方なんだ。兄媛のことも大切にしているし、弟彦のことも可愛がっている。今は都の邸にいることも多いが、封国の美濃に戻れば多くの民に慕われている。日嗣の座をめぐる攻防に兄上を巻き込むのは、やっぱり忍びない気がする」

 そこはまあ、本人たちを見たら理解できる。あの兄皇子は多分美濃の民にとって、都での地位をなげうってまで自慢の媛を今上から守ってくれた存在だ。むしろ彼が大和での役目を負わされなければ、美濃では誰からも慕われる王になるのではなかろうか。

 そしてうちの皇子は――東征を成功させれば、日嗣の座は盤石になる。この国にとって、きっと望ましいことだろう。

 だが、それが皇子にとっては喜ばしいことなのか。

 思わず俯いた俺の背を、皇子はばんと叩いた。

 「で、あの燻製肉は食わせてくれるのか?」

 「……はいはい、帰ったらすぐに作りますよ」

 出立までの日は短い。まして皇子のつまみ食いを勘案すれば、この先の準備は休みなしだろう。やれやれと俺が肩を回すと、皇子は嬉しげに鼻を鳴らした。

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