第4話

 纏向宮に凱旋した皇子は、速やかに今上の前に仕り、熊襲での戦果を報告した。

 合わせて、吉備や難波の海でちょっと賊に絡まれたりしたので、その辺を討伐したのもそれとなく知らせておいたらしい。一応討ち取ったときには名前を伏せていたが、どこか別のところから今上の耳に入るのも厄介なのでやむを得まい。

 何しろ皇子は身分を伏せていても見るからに高貴な雰囲気がだだ漏れなのである。交易船に乗っていても、金品狙いの賊が鱶のようにぞろぞろと寄ってくるのだ。まあ、皇子の可愛すぎる見た目は正直なところ詐欺のようにも思われないではないのだが、悪事を働いているのは賊の輩なので同情の余地はない。まして、俺が担いでいる鉄鍋に目を付けた不埒な輩などもいたのだから、俺としても情けをかける必要はどこにも感じていない。

 ともあれ今上は、皇子の華々しい戦果をこの上なくお慶びになられた。密命としてお送り出されていたものの、無事達成された皇子の功績については内外に知らしめるべく、盛大な宴席が設けられることになった。何日もかけて多くの山海の珍味が集められ、三日三晩に渡る祝宴の準備が進められることになった。

 さて、こういう盛大な宴会となると、実のところ俺はさっぱり門外になる。

 こういう大規模な宮中儀礼は官位を持つ大膳の仕事なので、献立も産地の選定も材料の発注も全部古式に則って粛々と執り行われる。食材は神饌として献上された後に饗応されるものだから、捌き方まで細かく決められているので外野が出る幕は全くない。俺みたいな一介の膳夫には、細々とした雑用と宴席の裏で立ち働く人たちの賄い飯を作るくらいの役割が与えられたらいいところで、貴人の口に入る可能性のある食材に触れることも叶わない。

 凱旋後の皇子は宮中で四六時中多くの人々に取り囲まれていて、俺なんかはとても近づく隙もない。偶に遠目で見かけると、皇子に救いを求めるような目を向けられることもないではなかったが、正直貴人の群れの中にいる皇子の傍に侍るなど到底無理な話だ。おまけに皇子の母君や妃など、親しい方々が必死に話しかけているときなど、まさか水をさせるものでもない。

 そんなわけで、俺は大和に帰ってからというもの、すっかり皇子とは疎遠であった。正直毎日顔を突き合わせていた皇子と会うこともなくなり、俺としては物足りない部分もないではなかったが、元はと言えば雲の上の方である。俺なんかに親しくもお声掛けを頂いたというのがどだいおかしな話なのだ。元々天真爛漫な性分であられるので、面白がって俺を野山に連れ出す感覚で熊襲にも同行を命じられたのだろうが、いつまでも小童みたいな調子でいられたら周囲も困るだろう。これだけの功績を上げてしまわれた以上、うちの皇子はれっきとした日嗣として遇せられるべきである。

 さて、宴の準備は慌ただしく進められ、俺もそれなりに忙しい日々を過ごすことになった。足りない器や調理器具の調達から、山菜やキノコの収穫、果ては逃げ出す家畜の追跡まで、厨屋周りのことは何でもこなすのが俺の仕事だ。はじめのうちは皇子のことも気懸りではあったが、宴が近づくにつれてそれどころではなくなっていた。まあ、主賓たる皇子の身の回りのことは大膳頭と内膳頭が威容を凝らすことになっているので、俺なんかが気に掛ける余地もない。薄情かもしれないが、俺は俺の果たすべき職務に没頭させていただいた、と言ったところか。

 宴の前日辺りから続々と招かれた豪族たちが到着し、宮はざわざわと騒がしかった。馬や輿だけでなく、川を続々と船が上ってきていたのには度肝を抜かれたが、まあ皇子を日嗣としてお披露目するためのものだと思えば不思議はない。大和の威信をかけた宴会だ、贅を凝らして凝らしすぎるということはないだろう。

 果たして執り行われた宴会は、大層素晴らしいものであった――らしい。

 俺たち裏方は顔を上げる間もないほどの慌ただしさで、宴会の様子を伺うどころの騒ぎではなかった。次々と運び込まれる器を洗い、とにかく腹持ちが物をいう衛士や舎人の賄い飯をしつらえる。篝火の薪が足りないと言われれば山にも走るし、綺筵が足りなくなれば繕い物までする有様だ。話によれば、各地の豪族から次々と献上品が捧げられ、皇子の戦勝を寿ぐ巫女舞が奉納され、今上が皇子に祝辞を賜るさまは涙も滴るほどの感動的な光景であったという。

 飽きっぽい皇子には長々と続く儀式が辛いだろうな、などと思いを馳せる余裕が出てきたのは、宵も更けた頃だった。

 ようやく厨屋もひと段落がついてきて、俺たち下っ端の膳夫は交代で休憩をもらえるようになった。俺は少し離れた井戸のところに腰を下ろして、少し遅い賄い飯を掻っ込んだ。鶏肉の汁を飯にぶっかけただけの代物だが、空きっ腹には結構しみた。ふと気づけば遠く楽の音色が響いていて、つまるところ宴は相変わらず続行中ということらしい。

 宴に限らず大和の儀式はとかく決まりごとが多い。熊襲の宴はざっくばらんな無礼講だったが、儀礼を重んじる纏向宮の宴はそうはいかない。料理に箸をつける順番まで細かく定められているという話なので、あの食い意地の張った皇子には多分辛いだろう。ましていつまでも終わらない舞楽や寿ぎの奏上は、うちの皇子にはかなりの苦行に違いない。おがんばりくださいませ、と俺は内心で声援を送った。

 食べ終わった器を片付けるべく、水桶に足を向けようとして、俺はふと首を傾げた。井戸の辺に屈みこむ人影が見える。げえげえと唸り声を上げているので、どうやら深酒が過ぎたのだろうと俺は目星をつけた。見たところ若そうだが、卑しからぬ身形をしているので大方宴会に招かれた貴人だろう。酒の飲み方も知らずに正体をなくしてしまったのだろうが、ひたすらえづいている姿はむしろ哀れだった。

 まあ介抱してやろうか、と近づいてその背中に手を伸ばした瞬間、その人物は凄まじい剣幕で振り向いた。腰の小太刀を抜き払い、素早く後ろ手に構える。切り付けられそうになり、咄嗟に俺は飛び退った。

 「……あれ、七掬脛」

 ふと弱々しい声が俺を呼んだ。遠くの篝火でうっすらと照らされたその面差しを改め、俺は思わず頓狂な声を上げた。

 「皇子。どうしたのですかこんなところで」

 一瞬躊躇った後、ちん、と音を立てて小太刀を鞘に納めると、皇子は困ったように微笑んで首を傾げた。



 竹筒に入れた水を差し出すと、皇子は喉を鳴らして一気に飲み干した。

 人目につくと大ごとになるので、厨屋の死角になる物置の影に俺は皇子を連れて行った。宴の主賓にお出でいただくような場所でないことは重々承知だが、憔悴した様子の皇子を突き放すのも気が引けた。伏せた甕に腰を下ろした皇子は、ようやく人心地ついた様子で溜息をついた。

 一瞬、堅苦しい宴に息が詰まった皇子が逃げ出してきたのだろうか、などと考えたが、うちの皇子はさすがにそこまで軟弱ではない。もしや、と只ならぬ予感に俺が身を強張らせるのと同時に、皇子は小さく頷いた。

 「……毒を盛られていた」

 ふと俺は厨屋で見かけた貴人の膳を思い出した。漆で塗られた卓の上に、美しく盛り付けられた料理が一品ずつ盛り付けられていた。あれなら毒を盛るのは容易いだろう。

 「よく気づかれましたね」

 「変な味がしたんだ。宴会の料理は、食べるときに塩や醤で味をつけるからほとんど味がついていない。それなのに素材以外の味がして、すぐに喉に焼けるような感触があった」

 思い出したように皇子はう、と口元を押さえる。だが、先ほど水を飲みながら何度も吐き出したので、もう胃の中身は残っていないようだった。

 「厠に立って酔ったふりですぐに吐いたが、見張りがついていた。何とか追手を撒いたところだ」

 「何者の仕業でしょうか」

 宴の主賓たる皇子に、それも熊襲討伐に功のある日嗣皇子に毒を盛るなど、言い逃れのできない謀反である。厳罰に処するほかない。だが、この凶行を報告しようとした俺を皇子はすぐに制した。悲しげな目をしていた。

 「だめだ、騒ぎにしてはいけない」

 「しかし」

 いきり立つ俺を宥めるように皇子は肩を掴んだ。そして何度も首を振る。

 「……俺がまずかった。目立ちすぎたんだ」

 皇子はぽつりと感情の読めない声で呟いた。困惑する俺に、皇子はゆっくりと聞かせた。

 「俺は第三皇子だ。まだ上に二人の兄上がいるし、下にも八十余りの弟がいる。父上はご健在でまだまだ日嗣を定める必要などないからそのままにしておけばよかったのに、うっかり俺だけが目立ってしまった。兄上や弟たちが望んでいなくても、縁のある皇子を日嗣にしたい者は幾らでもいるとわかっていたのに」

 「皇子」

 違う、と言いかけた俺は自分の言葉を飲み込んだ。

 皇子は当初、熊襲討伐を密命として承った。それゆえ復命も最初は内密なものだった。それにも拘らずその功績を華々しく喧伝したのは他ならぬ今上だ。

 恐れ多くも今上が、日嗣をめぐる諍いに思い至らなかったのだとすれば――それならば、まだよい。

 恐ろしい可能性に思い至り、俺は密かに身震いした。

 皇子はじっと俯いている。あの美貌を賑々しく着飾らせているのに、憔悴した姿はひどく哀れだった。

 「――すまん。人に聞かせるつもりはなかったのに、うっかり七掬脛の顔を見たら気が緩んだ」

 元はと言えば父親の不始末を片付けてきただけなのに。それも、兄たちが不甲斐ないから皇子にお鉢が回ってきただけだというのに。やり場のない憤りに肩を震わせる俺を宥めるように、皇子はふと笑みを見せた。

 「ありがとう。七掬脛が怒ってくれたから気が済んだ。忘れてくれ」

 皇子は徐に腰を上げた。たまらず俺はその腕を掴む。意外と皇子の手首は細かった。

 「?」

 「……俺は、何かお力にはなれませんか」

 皇子はほんの十六歳だ。まだほんの小童なのに、とんでもないものをたった一人で背負わされている。俺が口にしたのはあまりにも不遜な言葉だが、皇子の身近な大人としてこの状況は見逃しかねる。

 じっと俺の顔を見やった皇子は、不意ににこっと笑ってみせた。見慣れた屈託のない笑みに、思わず俺は面食らう。

 「それじゃあ、何か食わせてくれ。実は腹が減って仕方がなかったのだ」



 ――まあ、考えてみれば無理もない。幾ら食いしん坊の皇子でも毒入りの飯を食うわけにはいかない。

 しかしあの腹っ減らしの皇子がこんな時間までほとんど何も食わずに頑張ってたのだから、驚嘆を通り越して哀れを催してくる。とにかく早く食えるものに限る。しかも毒を食わされかけて散々吐き出した後だ、できればあまりきつくないものがいい。

 俺は皇子を外に残したまま、素知らぬ顔で厨屋の中に戻る。

 「七掬脛、遅かったな」

 「ああ、酔っ払いの汚れ物の始末に手間取って」

 誰も疑わないのは俺の日頃の勤務態度の賜物だということにしよう。交代で次の膳夫が賄い飯を椀によそって外に出ていく。皆何だかんだで宴の浮かれた空気を感じてみたいらしい。手隙になった厨屋に残っている連中は、うたたねをしているか奥の方で談笑をしているか。こちらに気づく気配がないのは好都合だ。

 今夜の賄い飯は、とっておきの白米に葱と鶏肉の入った濃いめの汁物だ。別々に食ってもいいが、ぶっかけて食べると最高に美味い。ただ、皇子にお召し上がりいただくには少々品がない。

 少し思案した俺は、幾らか潰さず残しておいた鶏の籠を改めた。案の定、卵が転がっていたので拾ってくる。ついで、小さな鍋に汁と具を取ってまだ火の残っている竈にかけた。少しだけ酒を足すと、すぐにぐつぐつと煮立ってくるので、そこに卵を割り入れて手早くほぐす。ふんわりと火が通ったら、すかさず椀によそった白飯の上にぶっかける。汁物の吸い口にしていた三つ葉を散らせば出来上がりだ。

 俺が周囲を気にしながら椀を運ぶと、皇子はたちまち目を輝かせた。箸を取るのももどかしく口の中に頬張る。

 「だしの染みた卵がふわふわだ。甘くて優しい味がする」

 「皇子、お静かに」

 俺が囁き声で注意すると、皇子はこくんと頷いて再び椀を掻っ込み始めた。喋らなくてもその音だけで勘付かれてしまいそうだ。

 「七掬脛、これは何と言う料理だ?」

 「……俺は親子丼って呼んでます。鶏と卵で親子なんです」

 口に出してから、その命名の皮肉に俺は少しだけ慌てた。だが皇子は意に介するでもなく、美味そうにはふはふと食べている。

 「やっぱり七掬脛の料理が一番美味い。大膳の形式ばった料理は俺の口に合わない」

 空っぽになった椀を差し出しながら、皇子は嬉しそうに笑った。褒め言葉なんかなくても、空っぽの器と笑顔だけで十分伝わるというのに、うちの皇子はいちいち律儀だ。照れ隠しに俺は小言じみたことを呟く。

 「皇子、宮中ではそんなわがままは通じませんよ。俺はホント、下っ端の下っ端なんですから」

 「うん、そこが残念なんだ。俺が日嗣になれば、七掬脛を大膳にできるかなと思ってみたんだが、その腕前をあの堅苦しい料理に使わせるのももったいない」

 腹がくちくなって機嫌が直ったのか、皇子はとんでもない軽口を叩き始めた。そもそも大膳も内膳も相当地位の高い内官だ。俺みたいなどこの馬の骨とも知れない奴が担える仕事ではない。それをわかっているのだろう、皇子は肩を伸ばしながら呟いた。

 「いっそずっと旅をしていれば、毎日七掬脛の飯を食えるのにとか思うんだがな」

 「ごめんですよ。俺は枕のあるところで寝たいです」

 肩を竦めてみせると、皇子は悪戯っぽく歯を見せた。子どもっぽい表情の裡に、どこか訳知りの色が滲んでいた。

 「味気ない飯を食うのもそろそろ飽きた。多分これは、俺を宮中に長居させないためのはかりごとなんだ。ということは、それに応じれば少なくとも誰かは喜ぶ」

 「皇子」

 旅枕、草枕。旅先にあれば宮中の諍いとはしばし無縁でいられる。いっそ皇子の平穏のためには、それが一番なのかもしれない、などと柄にもなく俺が思っていると、皇子は徐に立ち上がってぱんぱんと衣の裾を叩いた。

 「よし、美味いもので満腹になったら元気が出た。また高貴なふりをしてくるよ」

 「大丈夫です、俺が見たところ皇子は大体いつも高貴ですから」

 ありがとう、とひらひら手を振る姿は、いつもの屈託のない皇子だった。こちらを向いたまま数歩後ろ向きに歩いて、それからくるりと踵を返す。驚いたことに、宴席へ戻る背中はもはや貴人のそれだった。

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