第3話

 熊襲討伐後の道のりは早かった。

 何しろ敵を討ってしまった後なので、帰路はそこまで秘匿する必要もない。各地の国造に船を用意させてゆるゆると内海沿いに辿っていけばよいのだから。熊襲での討伐のあらましを伝えることは今後の反逆の芽を摘むことにも繋がるので、利用しない手はなかった。交易の船団に便乗して海路伝いに日向まで渡り、速吸瀬戸を渡って穴海まで抜ける。

 「吉備に寄ろうと思う」

 早水の戸の辺りで、皇子はおもむろにそう言い出した。

 吉備は皇子の母君の祖国だ。縁者も多いから寄りたいのだろう、と俺は単純に頷く。交易船の船乗りにその旨を伝えると、すぐさま船から船へと信号が送られていくのが見えた。船団の突端から矢のように早船が滑りだしていった。

 果たして、皇子の乗った交易船が港に辿り着く頃には、既に賑やかな出迎えが待ち構えていた。

 「小碓皇子、このたびは大儀でございます」

 先頭で出迎えたのは身形のいい男だった。地位はありそうだが意外と歳は若くて、もしかしたら俺とそんなに年が変わらないかもしれない。整った顔には優しげな笑みを浮かべているが、初対面のはずなのにその面差しには見覚えがある。

 「久しいな、叔父上」

 船から飛び降りた皇子の呼びかけで得心した。なるほど、皇子をもう少し大人にして、ちょっとだけ地味にした感じの顔だ。

 吉備の首長であるその男は、皇子の母君の弟に当たる人物で、名を御鉏友耳建彦みすきともみみたけひこと言うらしい。高貴な人の名前は基本的に長くて覚えにくい。

 「武彦でいいですよ。よくある名前ですし、紛らわしければ頭に吉備とでもつけてください」

 まさか俺の顔に書いていたわけでもあるまいが、気さくな調子で彼はそう言った。ざっくばらんなところも皇子と似ているが、むしろこれは皇子の母君の気質と似ているのだろう。

 皇子と俺は、武彦が準備した馬に揺られながら街道を行く。眺めると、港からほど近い高台にひどく大きな邸宅がそびえているのが見えた。熊襲梟帥の屋敷もたいがい大きかったが、屋根が高くて飾りの華やかな吉備のそれはむしろ宮殿に近い。ぽかんと眺める俺を見かねて皇子が説明してくれた。

 「俺のひいじいさまの御代に、吉備には異国の鬼神が住み着いて民を虐げたので、皇子の一人が西道将軍として派遣された。それが武彦の祖父だ。武彦の家は三代に渡り吉備を治めていて、出雲や西国のまつろわぬ動きを平定したこともある武勇の名門だ」

 つまりうちの皇子にとっては母方の叔父であるだけでなく、父方の親戚にも当たるのか。道理でよく似ているはずだ。

 と、ちょっとだけ武彦は首を傾げてみせた。

 「まつろわぬ動きと言っても、ちょっとした地方の小競り合いですよ。たまたま親大和勢力からの援軍要請があったから加勢しに行っただけです」

 「そうは言っても、出雲はさすがに古豪だろう」

 「仲間割れに便乗しただけですよ。そういう人の弱みに付け込むのって、元々が我らの得意とするところでしょう」

 俺は思わず仰け反った。それ、あんたが言っちゃうか。

 「それに鬼神とは言っても、異国から移住してきた異相の者だったというだけです。先に吉備に住んでいた土豪との対立が深まって、土豪が大和への服属と引き換えに救援を求めたというくらいのことです。別にどちらが正しいとか、そんなのどうでもいいことです」

 この人、のほほんと見せかけてなかなか豪快な性格だ。甥とはいえ大和の皇子の前でそんなことぶっちゃけるとか、なかなか度胸ありすぎだろ。

 まあ何となく構図はわからないでもない。地方で新旧派閥の小競り合いが起きたので、仲裁という口実で中央が人を派遣して、そのまま拠点を据えたというところだろう。地元の小競り合いに兵を出してくれる勢力が近くにあれば、手を組みたい輩はいるだろうし、確かに内海沿いで港が近くて便利だから、軍事基地にもいい場所だ。大和にとってもそれを足掛かりに地方支配の拠点ができるのだから悪い話ではないはずだ。

 冷や冷やするこっちの気も知らず、武彦はのほほんと続ける。

 「そんなわけで西国の小競り合いに便乗して勢力を伸ばした大和の分家ってのがうちの体裁です。わたしの祖父は、正確には西道将軍の副官を務めていた弟皇子です。西道将軍には御子がいませんでしたから」

 「あれ、そうだったっけ」

 「そうですよ」

 身内でも把握しきれないくらい家系図が入り組んでいるらしいということはわかった。さすが身分のある人は大変だ。

 それにしても、と俺は気もそぞろにあちこちを見渡す。街道の広さや行き交う人々の多彩さから、吉備が相当豊かな国であることは目星がついた。何よりびびったのは、この季節にも関わらず青々とした田畑が広がっていることだ。一瞬季節外れの稲かと見間違ったが、この寒い時期だと多分麦だろう。たくさんの食い扶持を養える国は豊かだが、食い物を作るのは手間がかかるから結局人手も必要になる。人手を抱えているということは、その国は予備兵力も豊富ということになる。

 ということは、吉備は多分、すげー強い。対西国の軍事拠点もお飾りではないだろう。

 「何か気になることでも?」

 武彦がのんびりと首を傾げて覗き込んできた。この人、おっとりしているのであまり武門という印象はないが、皇子の叔父で襲名制の将軍様だ。俺も何となく言葉を選ぶ。

 「これだけの農地を開墾するのって大変ですよね……頭数めっちゃ要りそうですね」

 「そんなこともありませんよ。うちは鉄の農具を使っているため、牛馬に牽かせてもなかなか摩耗しないので土地の開墾が易しいのです」

 「鉄?」

 思わず俺が大きな声を上げると、皇子がひょいと首を突っ込んできた。

 「そうそう、吉備には異国から製鉄の民が多数渡ってきている。鉄器はどこの王も欲しがる特産だからな」

 皇子のドヤ顔に俺はつられて頷く。

 それはそうだろう。鉄って言えば、銅剣をあっさりへし折ってしまって、甲冑も簡単に貫いちゃうチートなアレだ。製造も管理も難しく、大和の豪族でも余り持ってないと評判のアレだ。

 「そんなの持ってたら無敵じゃないですか」

 俺は武術はからっきしだし武器のことも全然わからないが、鉄って素材がとんでもない代物だということくらいは知っている。まくしたてる俺に武彦は少しだけ肩を竦めると、困ったような顔をした。

 「うちでは武器はあまり作ってないんですよ。大体の場合、急ぎで大量に作らないといけないので負担も大きいですし、戈剣や人用の鏃はそれ以外の使い道がないので、依頼先が滅びたときに持て余しますし。どうしてもと言われたら作りますが、微調整が大変なので基本的にはしばらくお待ちいただきます」

 思わず俺は武彦の顔をまじまじと眺めた。鉄器で武器って言えば花形商品だろうに、納期短いから面倒ってどんな道楽商売だ。おまけに発注元が全滅したら在庫がだぶつくって、その発想はなかったわ。

 「……それじゃあ、どんな製品を主にお取り扱いで?」

 我が意を得たりとばかりに武彦は笑う。笑顔はいよいよ皇子に似ている。

 「そうですね、先ほど話しましたが、中心は農具です。後は馬具とか儀礼用品ですが、かまど周りのものも人気がありますよ」



 果たして、迎えられた武彦の邸はまさしく宮殿の如き威容だった。

 と、一言で終わらせてしまうのはあまりにアレだが、実のところ俺のような下賤にはイマイチ表現する術がない。俺の知る中で大和の纏向宮は一番でかいけど、川上梟帥の屋敷も広かったので、武彦の邸は熊襲以上纏向宮未満といったところだろうか。ほら、全然伝わらない。

 俺の理解できる範疇はあくまで俺の職分に限られる。というわけで、ぶっちゃけると武彦の邸の厨屋はすごかった。

 まずとりあえず広い。奥の方に竈神を祀る祭壇があるが、それがちょっとした神殿くらいしっかりしている。そしてそれだけ手厚く扱われる竈はなかなかお目にかかれない代物だった。何と焚口に段差があって、火力の微調整ができるようになっているのだ。しかも何口も並んでいて、そのうちの小ぶりな竈にはこともあろうに薪ではなく炭がくべられている。なるほどこれ、もしや製鉄用の鑪の技術の応用だろうか。

 赤々と炊かれた竈の一つには鉄釜まで載っており、その脇には鼎が堂々と据えられている。壁を見れば多彩な刀子がぶら下がっているが、形や大きさもそれぞれ微妙に違っていて、これらは多分用途が違うのだろう。なるほど、特産品と胸を張るだけのことはある。全国の膳夫垂涎の最先端技術が集結だ。

 俺がふおおおと奇声を上げると、皇子がやたらと得意げな顔をした。

 「どうだ」

 「すごいです」

 調理道具も凄いが、食材も想像を越えた。窓辺には束ねられた大蒜が吊るされていて、こんな寒い季節なのに蕪や韮といった蔬菜の類まで無造作に籠に積まれている。捌きたての枝肉が転がっていて、一瞬イノシシかと思ったが、脂の乗り方を見れば多分豚だった。大きな桶には水が張られて魚が放されており、中にはアナゴやシタビラメといった捌き方に悩みそうな珍しい魚が放たれている。穀物も各種米や豆だけでなく、麦や雑穀に至るまで豊富に揃っていて、しかも雑多に混ざらずきちんと分けて甕の中に保管されている。桶の中には乾燥豆腐や干し納豆といった変わった食材が収まっていて、調味料も塩に酢に甘葛に水飴に酒に味醂に穀醤に草醤に肉醤に魚醤に、とりあえずいっぱいある。すげえ、食材の種類が豊富すぎだろ。そうか、この宮はすぐ真下の川に港があるから、あちこちの物産が届くんだな。

 纏向宮も食材は豊富だが、肉は山のものが多いし、魚に至っては基本的に川魚だ。献上される地方の珍味自体は珍しくもないが、それらは大体上座に恭しく鎮座しており、俺みたいな下っ端なんかは目にするのも憚られるというのに。

 興奮している俺を皇子はたいそう楽しげに眺めておられる。ああもう、別に皇子のお手柄ではないのに何だろそのドヤ顔。可愛いじゃないか。

 と、伴を連れた武彦が外からやってきた。皇子は嬉しそうに振り向く。

 「皇子、ご依頼の品です」

 「ああ、すまん無理を頼んだな」

 「いいえ、皇子のご依頼とあらば工人たちの士気も上がります」

 ん、と振り向いた俺は、武彦の伴に思わず釘付けになった。浅い半球状の、鉄製の楯みたいなものを捧げ持っている。あれ、それって。

 「七掬脛、鍋だ」

 「見ればわかります」

 わけのわからない返しをしてしまった俺に、皇子は笑いながら言い直す。

 「お前の鍋だ。微調整があれば武彦に言えばいい」

 え、えええ、と俺が変な声を上げていると、従者から鍋を受け取った皇子は俺の手に押し付けた。ちょうど一抱えくらいの大きさだろうか、鉄なのでさすがにずしりとくるが、試しに振ってみるとちょうど片手でも扱える重さだ。しかも外向きに大きめの耳がついているので、持ち手としてもばっちりだ。

 「おおおおちょうどいいです皇子!」

 「少し大きすぎたかと思いましたが、七掬脛殿はさすがの剛腕ですね」

 俺がぶんぶんと振り回して喜んでいるので、武彦は感心したのか呆れたのか間延びしたような声を上げた。皇子はいよいよ鼻高だ。

 「七掬脛の腕なら使いこなすだろう。土鍋だと割れてもいけないが、鉄鍋なら長持ちする」

 「え、いいんですか、ホントに俺が使ってもいいんですか?」

 吉備の鉄鍋とか、俺なんかが使えるはずもない超一級品だ。柄にもなく俺がうろたえていると、一頻り眺めていた武彦は微笑ましげに目を細めた。

 「七掬脛殿、皇子があなたのために誂えたものですので存分に腕を揮われたらよいかと。こんなことを言うと自慢になりますが、吉備の鉄はたとえ日嗣であってもすぐにはお持ちいただけない特級の品物です。あなたがそれを揮えば、たちまち皇子の威信になります」

 「もったいないです……」

 思わず俺はその場に平伏した。すげえ、さすがうちの皇子。

 と、そこでふと俺は固まった。日嗣でも待たせるという吉備の矜持はすごいが、だとしたら皇子はいつ頃発注してたんだ?

 「熊襲行きが決まったときに、武彦に知らせを遣ったんだ。詳しいことは知らせていないが、とりあえず鍋が欲しいと」

 鍋の納品期間がどのくらいかはわからないが、順番待ちがあるんじゃなかろうか。俺が訝しんでいると、武彦が補足した。

 「皇子はうちの婿でもありますから。大王もそうですが、吉備の媛を娶った方の依頼は他の何にも優先します」

 鍋を抱えてしばらく黙り込んだ後、俺はようやく呟いた。

 「……皇子、いつの間に結婚してたんですか?」

 皇子はきょとんと首を傾げた。

 「武媛とは、お互い生まれる前から決まってたぞ。というか大和の両道媛とも去年婚礼をしているし」

 何を今更、と言わんばかりの顔をされて俺は正直うろたえた。あ、そうか十六になったら男は結婚できるんだっけ。いや、しかしうちの皇子に限ってそんな色っぽい話は全然ピンとこない。っていうか皇子その若さで一夫多妻とかマジパネェな。

 困惑している俺を見かねたのか、徐に武彦が口を挟んだ。

 「吉備の媛は、王の姉妹の元に生まれた男児の元に嫁ぐしきたりになっているのです。縁の薄いところへむやみに吉備の血を広げないためのもので、別に他意のあるものではありません」

 「両道媛とも婚礼以来顔を見てないしな。ま、妻って言っても国や権威を与えられたときのおまけみたいなものだから気にするな」

 おい。

 さすがに皇子でもそれは聞き捨てならない。仮にも娘の結婚に「他意はない」とか、武彦も武彦だ。そりゃあ偉い人が惚れたはれた云々で下々の人間を振り回すようじゃいただけないが、結婚が一人でできるものじゃない以上、相手には相応の配慮ってもんが必要だろ。皇子の口ぶりだと、実際のところ妻はいらないんだけどって本音がだだ漏れだ。

 そりゃあ、皇子の立場を考えたら割り切らないといけないところなんだろうけど、どうも釈然としない。せっかくの鉄鍋が腕に重く圧し掛かる。

 そのとき、ん、と俺は瞬いた。厨屋の戸口に小さな人影が閃いたのが見えたのだった。逆光にふわふわした髪の毛が明るく透けている。色の鮮やかな着物は身分の高い女児のものだろうが、伴らしき人の姿は周りに見えない。俺の角度からしかその女児は見えないが、彼女は大きく振りかぶると、おもむろに礫を投げた。見事に礫は皇子の頭にぶち当たる。

 「痛っ!」

 「武媛っ!」

 皇子が頭を抱えるのと同時に、武彦が素早く身を翻した。女児も慌てて身を隠して逃げる。とてつもなく機敏な武彦に続いて従者が、そしてそれを嗜めようと頭をさすりながら皇子が追いかけて出ていく。おおう、これって俺がぼっちになってしまう流れだ。追いかけた方がいいのかなとは思ったが、まあどうせ俺が行ったところで役に立たない。

 あれが噂の皇子の嫁だとすれば、犬も食わない類のやつだ。放っておくに限る

 そろそろ夕餉の準備が始まる時間なので、主膳と思しき男に手伝ってもいいかと聞いたら快諾してもらった。よし、鉄鍋よ早速出番だ。



 さすがに真新しい鍋なので、まずは井戸の傍でがしがしと洗った。触ってみればいよいよ質の良さを実感してしまう。びーんと弾いた音まで麗しい。

 っと俺が悦に浸っていると、不意に視線を感じた。ん、と振り向くと、何かえらく冷ややかな目をした女児が俺のことを見下ろしている。ふわふわした明るい髪には見覚えがある。

 「……えーと、武媛?」

 あのとてつもなく機敏な武彦を撒けるものとも思えないのだが、実際のところ追手の気配はない。こいつ、できる。

 「お前は小碓皇子の従者か」

 おおう、幼いながら様になった高飛車口調。武彦はやたらと腰が低いが、この媛様はなかなかの手合いだとお見受けした。あのとてつもなく機敏な武彦をどうやって撒いたのやら。

 「お前、鍋なんか洗って何をしている」

 「鍋なんかって……」

 思わずむっとなりかけたが、よく考えたら自然な疑念だ。

 「……俺、膳夫なんですよ。皇子のお食事のお世話のために随行しているんです」

 武媛は首を傾げる。まあ無理もない、皇子がただ一人遠征に連れてきた従者と言えば、どれだけ腕の立つ兵と思うだろうに、よりによって料理人とか肩透かしにも程がある。

 「お前、これから皇子の食事を作るのか?」

 「まあ、邸の膳夫もおられるので、俺は材料お借りして一品くらい作らせてほしいかなーって……」

 ふわふわの髪を揺らして、武媛は徐につかつかと近づいてきた。そして鉄鍋をまじまじと見やると、俺の顔を見上げた。

 「よし、一人では大変だろう。手伝ってやる」

 思わず俺は凍りつくが、武媛はえらくご機嫌で厨屋の中までとてとてとついてくる。

 一応申し添えると、俺は丁重にお断り申し上げた。

 貴人の手を煩わせることでもないし、相手が料理のできる人かそうでない人かは、一目見れば大体見当がつく。この媛様、誠に申し訳ないがどこから見ても料理なんかやったこともなければ、あまり器用な方でもなさそうだ。多分結っていただろう髮を何かにひっかけて崩したのだろうが、束ねる紐の結び方が実に大胆不敵な性格を反映している。

 皆までいう必要もなかろうが、こういう手合いは大体言い出したら聞かない。

 案の定、俺は説得に失敗した。媛様は多分ほとんど足を踏み入れたこともなさそうな自宅の厨屋をわくわくと眺めている。

 「おい、お前」

 「できれば七掬脛と呼んでいただける方がありがたいのですが」

 「それではナナ。これから何を作るつもりだ」

 きらっきらと光る眼で武媛はこっちを見上げてくる。うん、実に厄介だ。多分刃物を持たせたら速攻指先を刻んでくれる。だが、彼女の意図するところはわからんではない。むしろわかるがゆえに面倒だ。

 媛様にお手伝いいただいて失敗しない料理。材料が揃うんだろうか、と首を捻りながら俺は蔵へ足を向ける。蔵の中には、米ではない穀物も普通に積まれていた。案の定、麦がある。素晴らしい。あれが作れる。

 早速断りを入れて引っ張り出してきた俺は、石臼にかけて麦粉を作った。塩と水を加えて適当にまとめたところで、武媛に引き継ぐ。

 「武媛、これを捏ねてもらえますか?」

 「任せろ」

 このくらいの水加減だと、なじんでくれば耳たぶくらいの固さになるので、布巾に包んで生地を少し休ませる。

 厨房の外から運ばれてきたのは脂の乗った豚肉だ。イノシシと似てはいるが、やっぱり脂の甘味や身の柔らかさは段違いだ。いくらか塊を分けてもらい、捌いた肉に背脂を加えてまずは叩く。刻んだ蕪菜をたっぷり混ぜ、更に大韮と塩を加えて、粘りが出るまで再度叩く。挽きたての肉は匂いも食感も全然違う。これは仕上がりが楽しみだ。

 生地を丸く絞るように切り取ると、打ち粉をした台の上で伸ばす。掌に収まるくらいの大きさに広げた皮の中に、肉あんを適量載せると折りたたんでちょいちょいとひだを寄せる。別にひだがなくても水気で皮はくっつくのだが、やっぱりこういうのは気分の問題だ。伸ばした皮を渡すと、武媛は喜々としながら指先を動かした。

 「マントウか?」

 次々とできあがっていく料理を前に、武媛は目を輝かせる。

 「舶来の料理上手が作ってくれたことがある。これを茹でて食べるんだろ?」

 そうか、そう言えば大陸では大国が倒れて群雄割拠の時代を迎えているはずだ。滅びた小国も数知れず、亡命してきた者も少なくない。この料理もかの国ではかなり歴史が古いらしいから、交易の盛んな吉備で食されたことがあっても不思議はない。

 だが、せっかくの鉄鍋だ。皇子から賜った鉄鍋を精一杯活用させていただかざるを得ない。何より武媛謹製の種は、肉あんぎっしりすぎて茹でたら分解は避けられない。

 洗っただけの火にかける前の鍋に胡麻油を敷いて、一口に包んだ種を並べる。いっぺんに焼きたいので、ぐるりと花のように並べてしまう。

 まずは蓋をして中火。次に、麦粉を水で伸ばすと鍋の中に回し入れる。じゅじゅじゅっと景気のいい音が響く。少し火を弱めると、やがて鍋の中でぱりぱりといい音が響き始める。最後の仕上げに、鍋肌に胡麻油を流す。にぎやかな音とともに、香ばしい香りが立ち上った。

 鍋を振るうと、薄い羽でくっつきあった種が空中で翻り、ひっくり返って鍋の中に着地した。見事な焼き色だ。

 「おおっ!」

 武媛がきらっきらと目を輝かせた。何を隠そう、俺自身の目も輝いてしまう。

 ――まさか鍋貼餃子を作れるとは。まさしく感無量である。



 大皿に特大の羽付き餃子を載っけると、恭しく捧げ持つ武媛の介添えをしながら俺は広間に向かった。ちょうど夕餉時で皆様お揃いである。上座に皇子が、そのすぐ脇に武彦がいる。その隣には、目も覚めるようなすごい赤毛の美人が座っているが、紹介されるまでもなく武彦の妃だろう。武媛にそっくりだ。

 「あ」

 「構わん武彦」

 武媛に気づいた武彦がすごい勢いで腰を浮かすが、辛うじて皇子がたしなめる。まあうちの皇子は頑丈だから、あのくらいの礫をぶつけられたくらいではびくともしない。

 「それより七掬脛、それは何だ」

 「恐れ多くも武媛様のお力添えを賜りお作りいたしました。どうぞご賞味ください」

 湯気を立てる料理を前に、皇子は早くも涎を啜りあげた。一瞬それを制しようとした武彦夫妻は、さすが娘の腕前をよくご存知であるが、皇子は構わず箸を伸ばした。

 ざくっと軽やかな音が響く。あふれる肉汁に皇子は咄嗟に腕で口元を拭う。

 「美味い。皮の中の肉から旨味がじゅわっと溢れてくる。口の中を火傷しそうだ」

 はふはふ、と猫舌を唸らせながら皇子は次の箸を運んだ。あ、こら、形のいい奴ばかり選ぶんじゃありません。

 と、武彦が恭しく箸を差し出した。敢えて形の悪いのを選んだのは、さすがよくわかっている。品よく餃子を口に運んでざくざくと美味そうに一口で食べると、武彦は娘の方に目を向けた。

 「武媛、おめーてごーしたんか?」

 「んー」

 「ほんまかーうめーがー」

 「んー」

 両親に褒められて、武媛はすすすっとその間に挟まると嬉しそうに頷いた。お国言葉丸出しだと何を言ってるのかさっぱり見当がつかないが、多分よくできていると褒めているのだろう。

 ふと、仲睦まじく娘の初めての手料理を突く夫婦を眺めながら俺は首を傾げた。

 もしかしてと思ってたが、武媛の母君を見る限り、武彦の妃は異人の血がかなり強い。だが異国の鬼神は遥か昔に討伐されたのではなかったか。

 と、皇子がちょいちょいとこちらを手招くのが見えた。これ幸いと俺はこっそり皇子の傍に侍る。

 「これ、あの鉄鍋で作ったのか?」

 「せっかくですので」

 皇子は嬉しそうに頷いた。

 「武媛の顔を立ててくれたのは助かった。あれで武彦は子煩悩だし、妃にも頭が上がらない」

 恐妻家と言うより、餃子を取り分けている仕草はどう見ても愛妻家の類だ。そんなことを考えている俺に皇子は目配せする。

 「武彦の妃は鬼神の直系だ。かつて西道将軍は鬼神の首魁を討ったが、首魁の首と引き換えに講和を結んだので、その部下や親族は丁重に扱った。異人の専売だった製鉄技術を手にしたのもそのためだが、そんな経緯があるので取扱いには慎重なんだ」

 何となくその辺は見当がついた。往来を歩いていても、見慣れない風体の人間は珍しくなかった。仕草や歩き方が独特なのは何かの職人かもしれないが、明らかな異相の者もざらにいた。かつて地元と外来の人々の間で衝突があったにも関わらず、今では普通に往来を擦れ違っているのだから、多分その間を取り持つために西道将軍や武彦の父祖は相当心を砕いただろう。その関係を保つためには技術の安売りは避けたいし、微妙な匙加減が必要になるはずだ。

 「味方になれば心強いが、敵には回したくない相手だ。俺は一応、一族に連なる者として扱ってもらえるらしい」

 皇子はひっそりとぼやくように呟いて、次の餃子に手を伸ばした。また形のいい方を取ろうとするので、おれはこっそり耳打ちする。

 「皇子、そっちの隣のもお召し上がりください」

 「馬鹿でかくて破れてる方か?」

 女心のわからない皇子だ。吾兄の君に手料理を振舞いたいという乙女心を理解しろ。

 憤る俺の前で、やむを得ないとばかりに皇子は武媛の作った餃子に一つ手を伸ばした。ざくざくはふはふと美味そうに味わって、一度大きく頷いた後、皇子はこっそり囁いた。

 「……やっぱり七掬脛の作る料理が一番美味い」

 ――ああもう、これだからうちの皇子は。

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