第4話 逃げる

 2222年1月26日、土曜日。


 落ち着かないなぁ。


 彼女がそう呟くのは、もう何度目かも分からない。

 背の高い建物は緑と自然を喰い尽くし、さらには延々と続いているはずの青空を突き刺す。

 空が狭い。自然を感じられない。それだけでも、彼女にとっては死活問題に等しい。が、彼女の心を憔悴させるのは、もっと別の要因だった。

 都会は、酷く空気が汚い。

 文明と経済の発展に伴う地球の汚染は未だ衰えず、特に、彼女のように田舎からやって来た人々にとっては顕著に感じられた。

 路上を走る車も、人も多い。少し外を歩いただけでも、ついつい息切れを起こしてしまいそうになる。

 緑のメッシュを入れた黒い髪も、この街に居る間は、色褪せているようにも見えた。


 早く帰りたい……。


 すれ違う都会の人々。そのほぼ全員が敵に見える。

 モニターから流れる広告。その全てが洗脳の映像に見える。

 漂ってくるスイーツやらグルメやらの匂い。その全てが毒ガスに思える。

 都会は、最早地獄なのかもしれない。

 とは言え都会に来てから、地獄の拷問のような苦行を味わったことは無い。そう考えれば、未だ彼女の時間は平穏なのかもしれない。


 しかし彼女の平穏は、つい先程、失われてしまった。


「はぁっ、んっ、はぁ……」


 喉を枯らしながら、荒く白い息を吐く。寒い日ながらも汗が溢れ、額も、腋も、背筋も濡れてしまった。

 日頃からあまり運動をしない彼女は、少し走っただけでも息を切らす。故に彼女は普段走ることなどなく、運動不足を日に日に上達させている。

 そんな彼女が、喉を枯らしてまで走っているのには、理由がある。


 簡単な話、追われているのだ。


 彼女の名はアグラッシェ・カガミ。友人からはグラと呼ばれている。

 グラは本来、都会から離れた田舎で暮らしている。しかしこの街で働いている父に家族全員で会いに来たが故に、都会の空気に眉を顰めた。

 ……そこまでは、まだ良かった。

 グラの父は、今日、死んだ。父だけではない。共にやって来た母も、兄も、妹も、死んだ。

 否、殺された。

 グラに犯罪歴は無い。では、何故逃げているのか。

 それはグラが、殺された父からを託され、逃げ続けるように促されたからである。


 逃げなきゃ。逃げなきゃ。逃げなきゃ。逃げなきゃ。逃げなきゃ。逃げなきゃ。逃げなきゃ。逃げなきゃ。逃げなきゃ。逃げなきゃ。逃げなきゃ。逃げなきゃ。


 催眠のように自らに言い聞かせ、グラは、走り続ける。

 障害物同然の通行人を避け、建物と建物の間をすり抜け、何度も方角を変え、逃げ続ける。


「いっ!?」


 しかし、グラは知らなかった。

 街の中にある幾つもの監視カメラ。そのカメラを操作する権利は、今や、グラを追う者達の手中にある。

 グラがどれだけ工夫して逃げても、監視カメラがそれを追い、その進路は実働部隊の耳に入る。挙句、監視カメラに搭載された人工知能がグラの行動パターンを把握、予測し、この先どのタイミングで何処へ逃げるかが先読みされてしまう。

 平たく言えば、逃げても無駄、ということである。


「お嬢さん、大人しく捕まってくれないかい?」


 人の群れを掻き分け、グラの前に現れた大柄な男が言った。息も切らしていない大男は、自らの所持する力をひけらかすように、羽織ったコートに隠した銃をチラチラと覗かせる。

 グラが怯えた隙に、グラの背後、さらには左右も大男の仲間に包囲され、逃げる先を失ってしまった。


を握っている以上、俺達はお嬢さんをれない。しかしなぁお嬢さん、俺達にはそんな甘いこと言ってられる余裕は無いんだ」


 グラの後ろに居た男が、その大きな手でグラの細い腕を掴んだ。

 刹那、グラの体内に微弱ながら電気が流れた。

 男の右腕、肩から指先にかけて、何か、黒いアームカバーのようなものが装備されていた。アームカバーにしては随分と厚みがあり、よく見れば、コードのようなものが付いていることが分かる。

 男の右腕に装備されているのは、装備型のスタンガン。軽量小型化の進む中で完成した、「そもそも手で持たないスタンガン」である。

 このスタンガンは、手のひらの部分から対象に電気を流せる構造で、内面は絶縁構造であるため使用者に電気は流れない。


「悪いが、眠ってもらう」


 スタンガンで電気を流された。そんな自覚を持つ前に、グラは気絶。正面に居た大男に抱えられ、男達と共に姿を消した。

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