第2話 予知能力
藤原秀郷が、自殺を考えるようになったのは、いつ頃からだっただろう?
高校を卒業して、大学に入学してから一年半くらいが経った。その期間、高校三年間と比べると、想像していたよりも長かったような気がする。
ただ、いろいろ考えるところもあった。
高校三年間というの、自分は何をしたというのだろう? 受験勉強に明け暮れていた時期が三年生の頃、それは自分だけでなく、まわりが皆そうだったから、自然とそういう形になったのだが、一番高校生らしかったというと、いつだったのだろう? そもそも、高校生らしいというのが何なのか、高校時代に考えたこともなかった。
ただ、
「時間は腐るほどある」
と思っていた。
実際にそんなことを思っていると、一日一日というのは確かに、結構長かったような気がしたが、それが、1週間、1カ月と、時間を重ねていくと、想像以上にあっという間だった気がした。
そもそも、一日を長く感じた時点で、
「1週間は長いものだ」
という先入観があるのは当たり前で、そうなると、長さを意識していなければ、終わってみれば、長いと思っていた分、気が付けばあっという間だというのは、当たり前のことなのかも知れない。
これは、大学に入ってから感じる時間というものが、まったく正反対だと感じたことから始まったことだと言ってもいい。
大学に入ってからの一年間は、一日一日は、あっという間だった。
気が付いてみれば、
「ついこの間だったよな。大学に入学したのは」
と思うようになっていた。
最初は、高校時代と感覚が逆だなどということに気づきもしなかった。確かに、高校時代と大学に入ってからというのは、自分という人間が変わったわけでもないのに、まったく違う人間の中にいるような気がして、自分でも分からなくなっていた。いつだったか、高校時代を懐かしく思い、その頃のことを思い出そうとしたことがあったのだ。
するとどうだろう? 思い出らしいものは一つもなかった。ただ、
「大学に入れば、友達をたくさん作って、恋愛もして、今その大学に入るために、苦労はしているが、入学してしまえば、天国が待っているんだ」
と思っていたのだ。
大学にさえ合格できれば、放っておいても、広がっている天国にのっかることができるという思いで、必死に勉強した。
いや、苦しい勉強に耐えるための理由が自分の中でほしかっただけなのだろう。
自分に言い聞かせて、何とかごまかしながらでも勉強しなければ、大学に入学するなどということができるはずもない。
大学というところは、
「入学してしまえば、こっちのものだ」
と、先輩が言っていた。
「アメリカとかは、入学しても卒業するまでが難しい」
ということらしいが、日本の場合は圧倒的に、入学が難しいのだ。
だから、学歴社会なのだろう。
「どこの大学出身だ」
ということの方が、大学での成績よりも優先するということだろう。
昔は、卒業大学による、学閥というものが存在したらしい。
「この企業は、学閥があるから、数人はこの大学から学閥枠のようなもので、入学することができる」
というものだ。
それだけ大学のネームバリューは大きなもので、
「大学入学の時点で、すでに就活に影響を与えている」
と思っている人もいるようだ。
そういえば、子供の頃に言われたことがあった。
「いい高校に入って、いい大学に入学さえできれば、いい会社に入ることだってできるんだ。だから、子供のうちから、勉強をしておくのが大切なんだ」
と誰からだったか言われた。
子供心に、
「そんな時代遅れな」
と思ったものだが、そんなことをしばらく忘れていたのだった。
だが、それを大学時代に思い出した。そのことを思い出すと、時間というものに対していろいろと考えるようになった。
そして、子供の頃のいろいろな記憶がよみがえってくる。しかも、その記憶は、どこか時系列に沿っている気がした。
時系列に沿っていると感じたのは、次に思い出すことが、前に思い出したことの続きのように思えるからだった。まるで、
「一度見た夢が、途中で途切れて、もう一度見たいと思っていた夢を、その続きから見れる」
というような不思議な感覚だった。
他の人はどうか分からないが、自分の中で、
「途中で途切れた夢の続きは、どんなに見たいと思ったとしても、見ることはできないのだ」
という感覚である。
しかも、
「夢というものは、ずっと見ていたいと思っている夢に限って、ちょうどのところで眼が覚めてしまうものだ」
と感じていた。
だからこそ、夢の続きは決して見ることができないと思うのであって、
「それが人生なのではないか?」
と、まるで、夢を人生の縮図のように感じるのだった。
そういえば、
「夢というのは、どんなに長い夢であっても、目が覚める寸前の、数秒間で見るものである」
という話を聞いたことがあった。
その話を聞いた時、
「ああ、なるほど、その通りだな」
と感心したものだった。
言われてみれば、ちょうどのところで眼が覚めてしまったことで、その続きを見ようと、必死で寝ようとするのだが、今度はなかなか寝付けない。もし、眠れたとしても、続きの夢を見ようとしても、続きの夢どころか、夢というのを見たことがなかったのだ。
そんな時、秀郷は考えた。
「夢って、見れる時の方が珍しい気がするんだけど、ひょっとすると、いつも見ているものではないか?」
という思いであった。
「いつも目が覚めるにしたがって、忘れていくものであり、覚えている方が珍しいのではないだろうか?」
という感覚だった。
だから、夢というものは、目が覚める寸前の、まるで
「ロウソクの炎が消える寸前」
のような漢字で、記憶に残らないものなのではないだろうか?
いや、夢というものを、覚えていたくないという意識が働いているのかも知れない。夢は夢であり、しょせんは現実ではないのだ。夢がリアルであればあるほど、すべてを現実だと思うか、夢であると思うか、自分でも分からなくなり、そのうちに、
「どちらかを否定しないといけない」
と思うようになる。
だから、必死で夢を否定しようとするのではないだろうか? そうしないと、現実の方を否定してしまう自分を感じるからである。
そんなことを考えると、ハッと我に返ってしまう。
「また、俺は夢の世界に引きずりこまれてしまったんだな」
という思いである。
実際に、起きている時と寝ている時、夢と現実が交互にやってくる。そのうちに、
「どちらが本当の自分なんだ?」
と考えるようになると、考えなくてもいいことに、引きずり込まれ、それが夢の世界だと思い込んでしまう。
「ということは、夢の世界だと思っていたことは、本当は夢の世界ではないのかも知れない。それは、一体どこの世界なのだろう?」
と哲学的なことを考えさせられる。
夢というものには、人間が感じる、
「五感」
というものがあまり感じられないと思っている。
「視覚、味覚、触覚、嗅覚、聴覚」
と呼ばれるものだ。
その中で、味覚と触覚と嗅覚は、
「言われてみれば、感じたことがないような気がする」
と感じられる、
確かに、おいしかったという記憶はあるが、
「どんな味だったのか?」
と聞かれて、分かるものでもない。
触覚にしても、何かに触れたと思ったり、痛いと感じたとしても、感じたという思いが残っているが、どんな痛みだったのか、思い出そうとすると分からない、
つまりは、普段、起きている時の生活の中で、
「こういう状況の時には、痛いと感じる。あるいは、こういうものを食べると、おいしいと感じるという思いが、感じようとした時にはすでに意識の中から消えているということなのではないか?」
ということであった。
つまり、前述のように、夢の中で感じることは、時系列や普段感じている時間とは、感性のようなものがまったく違っているのではないかということだ。
もっといえば、
「普段から、臭いであったり、味であったり、痛みなどというものは、それまでの経験から、記憶の中にあるものが、出てきているだけではないか?」
ということである。
「感じるということには順序があり、まずそれを見た時に直感で、どういうものなのかということを感じたことで、その感覚を自分の中で最初に形成してしまう。だから、実際に感じた時、その時に感じたと感じるのだ。それだけ、感覚に差がないということであり、それらが一瞬のうちに頭の中で巡ってしまうことなのだからであろう」
と考える。
だから、最初の一回ですべてを理解していて、その思いがあるから、痛いと思うことでも、これを食べれば、辛いと思うことでも、事前に心の準備ができるというものだ。
それが、いわゆる第六感というもので、人によっては、予知能力として、特別なものだと思っているだろう。
いや、人によってというよりも、ほとんどの人が第六感を、ヤマ勘のような、予知能力的なものだと思っているが、それは実際に自分の中にあるもので、それがまるで夢の世界とを混同させている感覚になることで、第六感が、
「特殊な人間だけにあるもの」
という認識を与えるのではないだろうか?
それを思うことが、自分にとってどういうことなのか、考えようとしない。考えてしまうと、せっかくの第六感が、自分に備わっていることを納得しなければいけない。そんな納得したくないという思いが、人間の中に潜んでいるのではないだろうか?
例えば、痛みを感じる時、そう、注射を打たれる時という意識で考えてみよう。
医者が、腕まくりをして、肩をさすったその時から、アルコールで打つ場所を消毒する時に、すでに、痛みがどれくらいのものなのかということを、ハッキリと認識しているという人がどれだけいるだろう。
きっと、ほとんどの人がそうではないかと思うのだ。
注射の針がチクッと肌に刺さり、次第に、沁みてきた状態が痛みを誘う。
「注射というのは、痛みの中でも、段階を追う痛みを感じさせるものだ」
という意識を持っている。
その痛みが、独特であればあるほど、その痛みの記憶は残っているものだ。
普段は、忘れていても、その恐怖が現実として迫ってくると、自分の中で心の準備をさせようと、痛みという感覚を、その瞬間が近づくにつれて、リアルさを増してくる。
そして刺さった瞬間に、そのレベルが、まったく同じにシンクロすると、痛みというものは、
「錯覚に変わってくれるのではないだろうか?」
と感じるような気がするのだ。
それが、痛みなどの触覚だけではなく、味覚や聴覚のような他の感覚と結びつくことで、感じることで、得られるショックや衝撃を、少しでも和らげてくれようとする感覚を、動物は持っている。それを、第六感というのであれば、
「予知能力のようなものだ」
という感覚になったとしても、それは無理のないことであろう。
そんなことを考えていると、
「錯覚というのも、五感と似たようなものではないか?」
と考えるようになった。
錯覚というのは、考え方として、
「勘違いのようなものだ」
と言えるかも知れない。
ということは、錯覚というのは、本当のことではなく、幻や蜃気楼の類だと思うようになってくる、しかし、そうではなく、錯覚だと思っていることが、実際には存在していることなのかも知れないと感じることもできるだろう。
夢の世界から見れば、今実際の世界で起こっていることも、
「幻だったり、勘違いではないか?」
と思っているかも知れないと思うと、今本当のことだと思っていることが、夢の世界での錯覚なのかも知れないと感じるであろう。
人間はいや、動物全般に言えることなのかも知れないが、
「目の前で見えていることだけが、真実だ」
と思っているのかも知れないが、それは、そう思うことで、自分が納得できることを感じたいからなのかも知れない。
それを思うと、何が幻なのか、本当に分からなくなってくる。そのいい例が、逃げ水などと呼ばれる、蜃気楼なのだろう。
これらは、過去の科学者によって、その理屈が究明され、
「幻が幻ではなくなった」
と言えるであろう。
しかし、この理屈は、不可解な現象を、恐ろしいと感じなくするためには、功を奏しているのかも知れないが、果たして、自分の中で納得するという意味で、功を奏していると言えるのだろうか?
それらのことは、人によって教えられるものではなく、自分自身で感じないといけないことで、それを納得できずに感じてしまうことは、結局、最初に、
「恐怖は恐怖なんだ」
と感じなかったことで、予期せぬ恐怖が発生した時、納得できていなかったことから、却って恐怖を煽ることになってしまうだろう。
そういう意味で、感受性の幅を、もっと広げる必要があるのではないか? と思うようになったのだ。
感じ性というのも、ある意味で、五感に近いものではないだろうか? この時の、
「感」
というのは、五感すべてを差すものであって、それを受け止めるだけの感性をどれだけ自分が持てるかということだ。
だから、その幅が広がることで、自分が物事を納得できる幅も広がるというもので、その納得が増えれば増えるほど、予知能力のような第六感が働くようになり、恐怖や、痛みへの、
「心の備え」
ができあがっていくというものではないだろうか?
夢というものが、その手助けをするものであり、錯覚を錯覚として見せないことで、自分が納得できるのだとすれば、それはもう、錯覚ではなく、
「第六感ともいえる、納得させるための、予知能力なのではないだろうか?」
と言えるだろう。
予知能力というものも、第六感と呼ばれるものも、一種の超能力と呼ばれるものに似ているのではないか。
予知能力はm実際に超能力という認識があり、他の人に分からない自分や、そのまわりの将来が分かるというもので、世界全体が分かってしまうと、どこか胡散臭いと言われても仕方がないが、自分とそのまわりくらいが分かるのであれば、それは、信憑性の高いものだと言えるのではないか。
うがった考えをするとすれば、
「小規模な超能力は、誰も苦しめることはないが、世の中を揺るがすような予言は、そのほとんどに信憑性がなく、最期には、詐欺呼ばわりされるものではないか?」
ということになるであろう。
「夢の世界ということで終わらせていれば、これほど平和なことはない」
と言えるようなことも、解釈を間違えてしまうと、まわりを巻き込んでしまったりして、収拾のつかないことになってしまうのではないだろうか?
「一長一短があるのが、夢というものではないだろうか?」
と、最近考えるようになったのだ。
そんな予知能力のようなものを、
「誰もが持っているのではないか?」
と感じたのは、
「ドッペルゲンガー」
という言葉を聞いた時だった。
ドッペルゲンガーという言葉、どこで、何がきっかけで聞いたのか、実は覚えていない。なぜか、頭の中に入っていて、知り合いとの会話の中で出てきたことから、話題になって、その友達から、ドッペルゲンガーの何たるかということを教えてもらったのだった。
ドッペルゲンガーというのは、
「もう一人の自分」
というような意味のようだ。
「世の中には、自分に似た人が三人はいる」
といわれる、ソックリさんではないようだ。
要するに、
「同一次元において、同じ時間に、もう一人の自分が存在している」
というものであった。
最初にそれを聞いた時、
「夢の中の自分なのか?」
と、感じたが、それもおかしい。
どうしてそういう発想を持ったのかというと、
「夢と現実の狭間で一人の自分が彷徨っているのか?」
とも思ったが、そうでもない気がした。
それよりも、以前、友達から教えてもらって、興味を持って調べた話に近いものを感じたのだ。
その友達というのは、やはり、ドッペルゲンガーというのを教えてくれたその友達で、
「俺にとって、どこまで言っても、自分の助けになるやつなんだろうな。最初は腐れ縁なのかって思っていたけど、そんなこと言っちゃあ、失礼だよな」
と思えるようなやつだった。
彼が教えてくれて、興味を持った話というのは、
「ジキル博士とハイド氏」
という話だった。
一人の人間の中に、別の人格があり、薬の効果で、裏に潜んでいた自分を表に引っ張り出すことに成功したのだが、そのもう一人の自分というのが、とんでもないやつだったということだ。
秀郷が感じた思いは、他の人とは少し違っているのかも知れない。彼が感じたのは、
「もう一人の自分、つまり、ハイド氏という性格は、隠すべくして隠しておかなければいけない人物で、なぜ誰が隠したのかは分からないが、本当の表に引っ張り出してはいけない人物で、押し込めておいたのは、あくまでも、封印していたのだった」
という風に感じたのだ。
あの小説を読んで、たぶんほとんどの人は、
「人間には、もう一つの人格が存在し、その性格は、自分とはまったく違う正反対の性格である」
ということを感じたことだろう。
しかし、それはあくまでも、
「衝撃的な内容に、ビビッてしまったので、驚愕が頭から離れない」
という、直接的に神経を刺激した内容としての記憶と、衝撃に違いない。
しかし、秀郷は違った。
一歩進んでいるというのか、すでに他の人が感じたようなことは、密かに感じていて、その上で、
「どうして、裏に回っていて、普段は絶対に表に出てこないようになっているのか?」
ということを考えさせる話だと感じたのだ。
確かに、物事には、理由が必ずあって、その理由は、理屈ではないということなのだろうと思った。
だから、秀郷は最初から分かっていることを、もう一度感動するような無駄なことはせず、再度聞いたこの話に、一歩進んだ考え方を持つようになったのだ。
だから、最初こそ、ドッペルゲンガーの話を聞いた時、
「ジキル博士とハイド氏」
の話を思い出したが、すぐに否定した。
ただ、思い出したというのは事実であり、それそれを全く違う趣旨の話だとして考えていると、次第に面白さが感じられたのだった。
そんなドッペルゲンガーとは別に、もう一つ、気になっていたのが、
「デジャブー」
という現象であった。
これは、
「初めて来たはずの場所で、以前にも一度は来たことがあったように思う」
というような話のことである。
「既視感」
という言葉でも表されるが、なぜ、そういう現象が起こるのか、言われていることはいくつかあるようだが、秀郷が考えているのは、
「辻褄合わせ」
ではないかということであった。
これを口で説明するのは難しいのだが、一度も来たことがないところであっても、以前に、どこかで絵や写真で見た光景が、あたかも、実際に見たかのような感覚となり、それが記憶の中で交錯し、一種の錯覚を見せるのではないかということである。
そのままにしておけば、自分でどうして、そういう感覚になったのかということを説明できず、納得できないので、いろいろ考えた挙句、
「以前に見たことがあったんだ」
という既視感で、納得させようとする。
一番安直な納得のさせ方なのかも知れないが、一番、納得のいくことなのかも知れないとも思うのだ。
つまり、何をどう考えるのか、そのことが大切であり、物の見方が角度によって変わってくるということを思い知らされたような気がする。
秀郷は、小学生の頃から絵を描くのが好きだった。
ただ、小学生の頃は、どうしても、上手になれず、
「絵が下手なくせに、どうして描くのが好きなんだろう?」
と思っていた。
立体を平面で掻くと、自分の中では、地面に平行だと思っていることでも、絵や写真になると、角度がついている。それを全体的なビジョンで見てしまうと、本当は角度がついているのに、錯覚に惑わされて、どうしても、地面に平行だと思うことから、平行にしか描けない。
そうなると、最初のとっかかりのバランスが悪いと、そのまま悪いままのバランスになり、小さく書かなければいけないところを大きく描いてしまい、後から描く部分が、尻すぼみになってしまい、バランスが全然取れていない絵ができあがる。
当然、遠近感もメチャクチャで、立体的に描けていないということになり、何を描いているのか、最終的に訳が分からない状態になってしまう。
小学生の時はそんな絵しか描けなかった。
ただ、
「マンガタッチでという見方をすれば、見れないこともない」
という人がいて、その人おおかげで、お絵描きが嫌いにはならなかった。
もしその言葉がなかったら、絵というもの全体にトラウマができ、絵を描くどころか、見ることさえもできなくなっていたかも知れない。
中学に入ってからは、急に何かに目覚めたのか、
「絵は、バランス感覚と、遠近感だ」
ということが分かってくると、最初は点でしか見ていなかったものが、次第に全体を見るようになる。そうなると、
「二次元の錯覚」
というものがなくなり、地面と平行であっても、平面に描いているという意識で見ると、素直に、斜めの線が見えてきたのだ。
そのおかげで、絵を描くことの面白さを垣間見ることができて、上手かどうかわからないが、自分で納得できる絵が描けるようになったのだ。
「俺はこの時のために、あの時、絵を諦めないと思ったのだろうか?」
と思うと、それこそ、
「予知能力ではないか?」
と感じた。
すると、デジャブというのも、ひょっとすると、過去に、
「未来に、予知能力だと思うことで、自分を納得させるためのものではないか?」
と思い。それがデジャブだとすると、
「デジャブと、予知能力は、あながち関係のないことではないような気がする」
と言えるだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます